私が二十五年以上前、初めて勤行なるものに取り組んだ時、私のうちの仏壇に祀ってあった御本尊は日蓮正宗のコンパクトな第二十六世日寛上人の昭和三十年代の御本尊のみ。お経本も、日蓮正宗の格式高いものしかなかった。
これで暫らく、一、二年は戦い切った。正に正宗魂こもった勤行であった。毎日が楽しく、清々しく、素晴らしく、「エセ正宗信徒」なんだけれども、創価とは言いながら、そんなものだった。
それが、創価学会の座談会に出てみると、皆とお経本が違うような気がした。その頃も、創価の座談会は、長行を省く、方便自我偈のみが多かったが、中々お経本まで持って来ている人も少なかった。
ある日、学会の文化会館に行くと、売っていた!ニセ経本が!
私は、買わないとマズイとその時は判断し、買ってしまった。
それを家に持ち帰り、観念文を読んでみると、三大会長への祈念、等々、ほとんど自画自賛の創価狂学丸出しのお粗末さで、その時はっきりと、「こんな経本、嫌だ」と思い、暫く仏壇に封印していた。
しかし、魔の働きで、今の新たな時代はこんな経本を使うんだ、と自分を否定するように創価経本を使い出した。
でも、すぐに嫌気がさし、勤行もサボりがちになった。
これと同じ結果だったのが、ニセ本尊の購入である。
今から二十年ほど前、私はホテル勤務の為、ホテルの従業員寮に住まっていた。そこで先輩学会員を部屋に案内したのが運の尽き。
すぐに、この本尊学会のとは違う、しまいには日顕(上人)のだ、と言われる始末。何としてでも本尊を代えようという悪意を感じた。
クリーニング屋をやっている別の年上の学会男子部は、「日寛だと○○君(私)は言うが、日宥とも読める。戸田先生時代の御本尊だと言うが、何でこの本尊がここにあるのか判らない」と言った。
その学会員も、初めて見る昭和三十年代の日寛上人の御本尊に恐れをなし「戸田先生の時代に頂いた御本尊なら、我々は手出しは出来ない。お母さん、郡山の自宅にお持ち帰り下さい」とその御本尊様は危うく難を逃れた。
そして、本尊送り、寮にニセ本尊が安置された。暫らくはうれしいぬか喜びで題目等を唱えていたが、次第に雲行きが怪しくなってゆく。
職場でのイジメ、それが元での自堕落となっていく生活、昼夜逆転、遅刻早退欠勤の憂き目…etc。
そこの職場も、年末になり、ある日、フロアに出ていくと誰もいない。朝番は一階の食堂にかかり切りで、誰も三階のフロアを手伝わない。
しょうがないから私一人で腐らずに誰に文句を言うでもなくやり遂げる。しかし、そんな芸当がいつまでも続くわけはなかった。
私は体調を崩し、女子からの苛めにも遭い、その職場を逃げるように去った。
けれども、創価学会員の先輩の男子部員には、見て見ぬふり、白を切って無視された。
結局、創価家族などと言っても、その程度のものなのである。
その後、その学会男子部員への怨みから、キリスト教への猛烈な信仰の志向があった。
そのキリスト教も、やり続ける内、何か頭と胸を押さえつけられるような苦しみ、うめきがあり、又、性懲りもなく創価への復帰。
創価に戻ると、キリストをやっていた頃よりは自信を取り戻すが、しかし、もうマンネリ化の権化のような私であった。
何が正しいかなんて全く判らない。常に暗中模索の状態。しかし、正しい正真の信心、信仰、日蓮正宗への改心、寸心を改める機会は、創価側から発信されていた。
即ち、度重なる教義・会則の改変、観念文の改悪、究極は大御本尊の否定。と、ここまで来れば、どんなに私のように頭が固く悪かろうとも、その事実だけは胸に突き刺さった。
こんなおかしな会、団体にいてていいのかな、今、大事な、何かおかしな事言ったよね、学会会長、学会幹部さん達よー、とね。学会員を騙して、皆をどこか、地獄の底へでも突き落としに皆引き連れて迷子にさせようとしているのが見え見えだったもの。
私は泥船には乗りたくは無かった。誰が何と言おうと、今の創価はおかしい。池田ももう出てこない。文化会館に行くと「懐かしの池田センセー」という古いフィルムを見せられるのみ。もう、ここには、何も学ぶべきものが残ってはいない。あるのは、昔の栄光の、日蓮正宗宗門と手を取り合って団結していたのが嘘のような腑抜けた今のふざけた体制と居残る古い体質の残る会員達ばかり…。全てが夢。現実を突き付けられると、何も言えぬ学会員達。
もうお粗末過ぎて、何をかいわんやです。あの、戸田先生時代の輝ける創価学会など、今の創価にはない。腐っても鯛というが、鯛が腐れば、捨てられるだけですよ。
故に、私は創価を去った。きれいさっぱり、あと腐れなく、脱会した。
日蓮正宗には、そういった、過去に邪宗邪教に染まったが抜け出して生まれ変わった者が実に多い。日蓮正宗には、だから、何度も宗教を変わったような、そういった心の傷を持った人が多く、それだけに宗内は優しい人、優しい感情に包まれ、この世の浄土のようだ。
私は、常に、この日蓮正宗への愛情、御恩返しを考え、行動を示していきたいと考え、思っている。日蓮正宗ほど素晴らしい宗教はない。