~Amazonに投稿した私(ペンネーム:福島のあまっこ、wainai123753)の日蓮正宗の御書、「平成新編日蓮大聖人御書 大石寺」のお客様レヴューに書いたもの。以下の通り。
思い起こす事、創価学会発行の御書全集はもらい物であった。私は以前から叔父さんの家の本棚をよく覗いており、東京新宿区の叔父さんの家に泊まった事があり、本棚の御書に注目していた。
私は三歳の頃の入信であり、子供の頃に家の前で交通事故に遭い、心配した私の両親が近所の学会員の勧めもあり、学会で言う福子として祖母・母・私の三世代の学会人となった。まだ学会も日蓮正宗の信徒団体として僧俗一致で宗門のお教えに純粋素直に従っていた頃だ。
しかし、私が本格的に信心を始めたのは今から遡る事二十年近く前の平成十年1998年。その年の8月には丁度栃木福島両県で何日間も降り続いた大雨豪雨による大水害があり、白河市西郷にしごうの福島県の障碍者施設、太陽の国などは死者を出し、時の佐藤栄佐久福島県知事が直ぐに指示を出し現地に視察応援に駆け付ける等、物騒な世情であった。私は時を感じて、これは天が何か私に訴える処があるのだろうと自覚し、死者を弔い、天地万物の安寧安息を祈ろうと思い立ち、初めは無我夢中で御本尊に向かい五字七字の南無妙法蓮華経のお題目ばかりを唱え、次第に五座三座のお経を覚え、唱えるに至る。当時は学会の経本など持っていないので古い日蓮正宗のお経本に従った。
話は昭和に戻るが、既に母は昭和三十年代に東京中野区に住んでいたが、中央区銀座明石町近くの会社まで社員としてバスで通っており、母より数才若い年下の女子同僚社員に大聖人の話を聴き、いたく感銘して折伏され中央区の近くにあった日蓮正宗のお寺で会社の帰りに御受戒を受けた。
最近まで我が家にあった昭和三十年代の日寛上人の御本尊(日蓮正宗で現第六十八世日如御法主上人猊下様の御本尊様に勧誡式を受けお取替えするまでうちで大事に保管していたその御本尊は、折伏大行進の進軍ラッパが轟然と鳴り響いた昭和三十年前後、第二代戸田城聖会長先生時代の第二十六世日寛上人御書写の縦長で字が小さくコンパクトな御本尊で、今の学会のニセとは相貌が全然違う)をその時母は御下附された。その母の影響で母の母、つまりおばあちゃんまで後々自然と感化を受け、おばあちゃんは第六十六世日達上人の御本尊様を頂いた。
母は第二代会長戸田先生は知っているけど、後々まで、第三代の池田さんなんて人知らないと言っていた。一定の距離を学会に対して母は置いていた。
御書全集を叔父さんに断り、もらって行っていいかと聞くと、「そんな本あったかな?」程度で、別に気にもされず、どうぞ持って行きなさい、と気前良く叔父さんは(多分昭和の頃に亡くなったおばあちゃんの形見分けの時の本がその御書だった。見ると昭和五十三年六月六日一二八刷とある)くれたのだった。
その御書を大事に福島の我が家まで持ち帰り、幾星霜。羊皮紙の表紙はボロボロ。中の文字は鉛筆や赤ペンで線を幾度も引いた。元々叔父さんの家にも子供がいて、扱いが良くなかったらしく、その時破れた頁があり、それでも私は誇らしげに使用した。
一時期栃木のホテルに勤務した際、折伏はしなかったが、公私共に大変お世話になったホテルの先輩のOさんという方を私の寮の部屋に招き入れ、日蓮大聖人の御書を見せると「わー、この本は平仮名に漢字でルビが振ってあって面白い。どれどれ」と言って大変な興味を持ち、暫くその場で鎌倉時代の古文体の大聖人の文章を声を合わせて読み上げていた。Oさんはその時感化を受けてか、宇都宮市立図書館や栃木県立図書館などで何十冊も日蓮正宗学会関連の教学の本を借りて独学で読んでいた。
私は、ニューリーダーという役職の学会員として今まで来たが、創価学会の非を悟り、静岡県富士宮市の総本山富士大石寺に厳然としておわす、鎌倉時代、弘安二年十月十二日に御本仏宗祖日蓮大聖人様が「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」『経王殿御返事』(御書六八五頁)と言い残し、御顕しになられた三大秘法、一閻浮提総与の大御本尊様を否定し受持の対象としないと言う重大発表を機関紙の片隅にあっさり数行の記事で発表された事実をそれから数年後の最近になってようやく知った衝撃。何かが今学会に起っている。創立八十余年初代牧口会長二代戸田会長が築き上げ、宗門に赤誠の限りを尽くし誓った大御本尊への尊崇の念を信仰の根幹として来たのではなかったか。
戸田先生のことば。「大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない」と心からの戸田会長の命令、厳命、命の叫びを無視した。
これは一大事だと今年2017年2月8日に思う所があって、郡山市のお寺、日蓮正宗無量山寿海寺にて、母も私も勧誡式を受け、帰伏し、無事日蓮正宗の信徒となり、立派な御書「平成新編日蓮大聖人御書」をこのお寺売店にてご住職様から買い求め自分で初めて購入し手にした。真新しい御書は、日顕御陰尊猊下様の立案、編集、責任の元、平成六年七月十六日に初版が発行され、私のは第七刷を数える。
思えば学会員時代は「日顕(上人)」と口汚く罵っていた自身の罪を悔やんでも取り返しのつかない大罪を犯した私が、今ではその咎を責められることもなく、今こうして日蓮正宗法華講の一員として曲がりなりにも皆様と一緒に輪の中に入らせて頂き、お寺に参詣させて頂けているのは、偏に日蓮正宗のお蔭、度量の広さの故であろうと思う。
日顕御陰尊猊下様は、今にして思えば、悪の策動をよーくご存じであり、すべてをお見通ししたうえで、異流義の謗法を除去、取り除くのに我ら世俗に属した在家凡夫の身では計り知れぬような非常な苦労苦心腐心なされ、日顕上人猊下が先回りして内外の異流義の者達までお心遣いを寄せて信徒達が余計な心配苦労をせぬよう、余りある御慈悲・御仏智、時には優しく時には心から厳しくも相手の機に応じて内外信徒を破折し折伏し諫め、着々と宗門発展隆昌大興隆の礎の為の布石をお打ち遊ばされていたのだと心から感心感服する次第。
あの昭和が終わり平成時代が始まって、若しも日顕上人猊下様が唯御一人、この日本国にいなかったならば、どうなっていたであろうか。愚鈍の身ながら一考するに、今日の日蓮正宗宗門は異流義他宗教等に、富士大石寺に連綿として伝わる日蓮正宗の教えの唯授一人の法水写瓶の伝統が、なかんずく、あの大聖人の出世の本懐の大御本尊が儚くも失われてしまい、絶滅し、今頃は夕方人でごった返す信濃町のほこりにまみれたあの辺りに御鎮座ましまし、慰みものになっているか、絶えて無かった程の、その一大危機を見事に救い切った、正に日顕上人猊下様こそは、一宗を守り切り、大役に応え、一世一代の大芝居を演じきった大立て役者に相違なく、歴史に残る宗門の大功労者であり、宗祖日蓮大聖人様も御本尊の中で破顔一笑、ニッコリと微笑まれていらっしゃるに違いない。猊座の事を口にしてはならぬ、もしも宗門に盾突くような事があらば、何時でも破門解散して頂いて結構です(趣意)とキッパリと仰られていた大御本尊根本教の戸田先生も、勝どきをあげてお慶びになっておられるはずだ。
この「平成新編日蓮大聖人御書」は巻末に学会御書と日蓮正宗御書との両者比較の索引が載っていて使い勝手が大変に良い。前の方のページにも学会御書同様、五大部十大部等重要御書が、マークで記され、大聖人の書いた論文調のもの、弟子に当てたお手紙、御義口伝、ほか等々の一覧表が掲載され、そこでも学会版の御書全集との比較ができる。元々あった学会御書も、当時の戸田会長と宗門の第五十九世堀日亨上人がタッグを組んで編纂されたものだ。巻末には年表、大聖人足跡関連地図、絵図としての方位図・時刻図・干支表・便利な五十音順の索引まで載っている。一生モノの値打ちある日蓮正宗発行の本物の御書を、学会発行大石寺版御書(昭和五十三年版)と併用し、大事に宝物のように末永くこれからも使用してゆきたい。長文失礼。以上、恐々謹言。以上、草々不一。
※編集後記
ちなみにといってはなんだが、私のHP、ブログアドレス。『Kaettekita 私が思う あの事この事Return(Get Back part2)』
「進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。」
http://blog.goo.ne.jp/syousyu-wainai123753
こちらに色々、日蓮正宗関連他、趣味やら色々書いております。ご参考までに。以上、草々不一。
こちらに色々、日蓮正宗関連他、趣味やら色々書いております。ご参考までに。以上、草々不一。