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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

「宗祖日蓮大聖人様、第二祖日興上人様始め、歴代の御正師様方も讃嘆し、発刊をお慶び遊ばされているであろう平成の御代の日蓮大聖人御書」

2017年08月28日 18時51分13秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類

~Amazonに投稿した私(ペンネーム:福島のあまっこ、wainai123753)の日蓮正宗の御書、「平成新編日蓮大聖人御書 大石寺」のお客様レヴューに書いたもの。以下の通り。



 思い起こす事、創価学会発行の御書全集はもらい物であった。私は以前から叔父さんの家の本棚をよく覗いており、東京新宿区の叔父さんの家に泊まった事があり、本棚の御書に注目していた。
 私は三歳の頃の入信であり、子供の頃に家の前で交通事故に遭い、心配した私の両親が近所の学会員の勧めもあり、学会で言う福子として祖母・母・私の三世代の学会人となった。まだ学会も日蓮正宗の信徒団体として僧俗一致で宗門のお教えに純粋素直に従っていた頃だ。

 しかし、私が本格的に信心を始めたのは今から遡る事二十年近く前の平成十年1998年。その年の8月には丁度栃木福島両県で何日間も降り続いた大雨豪雨による大水害があり、白河市西郷にしごうの福島県の障碍者施設、太陽の国などは死者を出し、時の佐藤栄佐久福島県知事が直ぐに指示を出し現地に視察応援に駆け付ける等、物騒な世情であった。私は時を感じて、これは天が何か私に訴える処があるのだろうと自覚し、死者を弔い、天地万物の安寧安息を祈ろうと思い立ち、初めは無我夢中で御本尊に向かい五字七字の南無妙法蓮華経のお題目ばかりを唱え、次第に五座三座のお経を覚え、唱えるに至る。当時は学会の経本など持っていないので古い日蓮正宗のお経本に従った。

 話は昭和に戻るが、既に母は昭和三十年代に東京中野区に住んでいたが、中央区銀座明石町近くの会社まで社員としてバスで通っており、母より数才若い年下の女子同僚社員に大聖人の話を聴き、いたく感銘して折伏され中央区の近くにあった日蓮正宗のお寺で会社の帰りに御受戒を受けた。

 最近まで我が家にあった昭和三十年代の日寛上人の御本尊(日蓮正宗で現第六十八世日如御法主上人猊下様の御本尊様に勧誡式を受けお取替えするまでうちで大事に保管していたその御本尊は、折伏大行進の進軍ラッパが轟然と鳴り響いた昭和三十年前後、第二代戸田城聖会長先生時代の第二十六世日寛上人御書写の縦長で字が小さくコンパクトな御本尊で、今の学会のニセとは相貌が全然違う)をその時母は御下附された。その母の影響で母の母、つまりおばあちゃんまで後々自然と感化を受け、おばあちゃんは第六十六世日達上人の御本尊様を頂いた。

 母は第二代会長戸田先生は知っているけど、後々まで、第三代の池田さんなんて人知らないと言っていた。一定の距離を学会に対して母は置いていた。

 御書全集を叔父さんに断り、もらって行っていいかと聞くと、「そんな本あったかな?」程度で、別に気にもされず、どうぞ持って行きなさい、と気前良く叔父さんは(多分昭和の頃に亡くなったおばあちゃんの形見分けの時の本がその御書だった。見ると昭和五十三年六月六日一二八刷とある)くれたのだった。

 その御書を大事に福島の我が家まで持ち帰り、幾星霜。羊皮紙の表紙はボロボロ。中の文字は鉛筆や赤ペンで線を幾度も引いた。元々叔父さんの家にも子供がいて、扱いが良くなかったらしく、その時破れた頁があり、それでも私は誇らしげに使用した。

 一時期栃木のホテルに勤務した際、折伏はしなかったが、公私共に大変お世話になったホテルの先輩のOさんという方を私の寮の部屋に招き入れ、日蓮大聖人の御書を見せると「わー、この本は平仮名に漢字でルビが振ってあって面白い。どれどれ」と言って大変な興味を持ち、暫くその場で鎌倉時代の古文体の大聖人の文章を声を合わせて読み上げていた。Oさんはその時感化を受けてか、宇都宮市立図書館や栃木県立図書館などで何十冊も日蓮正宗学会関連の教学の本を借りて独学で読んでいた。

 私は、ニューリーダーという役職の学会員として今まで来たが、創価学会の非を悟り、静岡県富士宮市の総本山富士大石寺に厳然としておわす、鎌倉時代、弘安二年十月十二日に御本仏宗祖日蓮大聖人様が「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」『経王殿御返事』(御書六八五頁)と言い残し、御顕しになられた三大秘法、一閻浮提総与の大御本尊様を否定し受持の対象としないと言う重大発表を機関紙の片隅にあっさり数行の記事で発表された事実をそれから数年後の最近になってようやく知った衝撃。何かが今学会に起っている。創立八十余年初代牧口会長二代戸田会長が築き上げ、宗門に赤誠の限りを尽くし誓った大御本尊への尊崇の念を信仰の根幹として来たのではなかったか。

 戸田先生のことば。「大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない」と心からの戸田会長の命令、厳命、命の叫びを無視した。

これは一大事だと今年2017年2月8日に思う所があって、郡山市のお寺、日蓮正宗無量山寿海寺にて、母も私も勧誡式を受け、帰伏し、無事日蓮正宗の信徒となり、立派な御書「平成新編日蓮大聖人御書」をこのお寺売店にてご住職様から買い求め自分で初めて購入し手にした。真新しい御書は、日顕御陰尊猊下様の立案、編集、責任の元、平成六年七月十六日に初版が発行され、私のは第七刷を数える。

 思えば学会員時代は「日顕(上人)」と口汚く罵っていた自身の罪を悔やんでも取り返しのつかない大罪を犯した私が、今ではその咎を責められることもなく、今こうして日蓮正宗法華講の一員として曲がりなりにも皆様と一緒に輪の中に入らせて頂き、お寺に参詣させて頂けているのは、偏に日蓮正宗のお蔭、度量の広さの故であろうと思う。

 日顕御陰尊猊下様は、今にして思えば、悪の策動をよーくご存じであり、すべてをお見通ししたうえで、異流義の謗法を除去、取り除くのに我ら世俗に属した在家凡夫の身では計り知れぬような非常な苦労苦心腐心なされ、日顕上人猊下が先回りして内外の異流義の者達までお心遣いを寄せて信徒達が余計な心配苦労をせぬよう、余りある御慈悲・御仏智、時には優しく時には心から厳しくも相手の機に応じて内外信徒を破折し折伏し諫め、着々と宗門発展隆昌大興隆の礎の為の布石をお打ち遊ばされていたのだと心から感心感服する次第。

 あの昭和が終わり平成時代が始まって、若しも日顕上人猊下様が唯御一人、この日本国にいなかったならば、どうなっていたであろうか。愚鈍の身ながら一考するに、今日の日蓮正宗宗門は異流義他宗教等に、富士大石寺に連綿として伝わる日蓮正宗の教えの唯授一人の法水写瓶の伝統が、なかんずく、あの大聖人の出世の本懐の大御本尊が儚くも失われてしまい、絶滅し、今頃は夕方人でごった返す信濃町のほこりにまみれたあの辺りに御鎮座ましまし、慰みものになっているか、絶えて無かった程の、その一大危機を見事に救い切った、正に日顕上人猊下様こそは、一宗を守り切り、大役に応え、一世一代の大芝居を演じきった大立て役者に相違なく、歴史に残る宗門の大功労者であり、宗祖日蓮大聖人様も御本尊の中で破顔一笑、ニッコリと微笑まれていらっしゃるに違いない。猊座の事を口にしてはならぬ、もしも宗門に盾突くような事があらば、何時でも破門解散して頂いて結構です(趣意)とキッパリと仰られていた大御本尊根本教の戸田先生も、勝どきをあげてお慶びになっておられるはずだ。

 この「平成新編日蓮大聖人御書」は巻末に学会御書と日蓮正宗御書との両者比較の索引が載っていて使い勝手が大変に良い。前の方のページにも学会御書同様、五大部十大部等重要御書が、マークで記され、大聖人の書いた論文調のもの、弟子に当てたお手紙、御義口伝、ほか等々の一覧表が掲載され、そこでも学会版の御書全集との比較ができる。元々あった学会御書も、当時の戸田会長と宗門の第五十九世堀日亨上人がタッグを組んで編纂されたものだ。巻末には年表、大聖人足跡関連地図、絵図としての方位図・時刻図・干支表・便利な五十音順の索引まで載っている。一生モノの値打ちある日蓮正宗発行の本物の御書を、学会発行大石寺版御書(昭和五十三年版)と併用し、大事に宝物のように末永くこれからも使用してゆきたい。長文失礼。以上、恐々謹言。以上、草々不一。










※編集後記

 ちなみにといってはなんだが、私のHP、ブログアドレス。『Kaettekita 私が思う あの事この事Return(Get Back part2)』
「進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。」
http://blog.goo.ne.jp/syousyu-wainai123753
こちらに色々、日蓮正宗関連他、趣味やら色々書いております。ご参考までに。以上、草々不一。

福島県郡山市内の邪師による、邪宗邪教邪義邪説邪道の救いようの無い邪宗教たち

2017年08月27日 17時37分04秒 | 爾前権教、邪宗伝統仏教、邪教神社寺社、及び新興宗教
郡山市の邪宗の寺の如法寺。うちの日蓮正宗無量山寿海寺でもそこの元檀家の方がいるが、開祖の空海は晩年、悪瘡で悩みの内に死んだ。謗法の報いだろう。
 真言宗をやると、その家の長男が立たず、女系家族となり、女で切り盛りしつつ、男を小馬鹿にする。自分が自分がと、長でもない者が上に立とうとして下剋上の様相を呈する。兎に角、見栄っ張りの自己中心的な人間になる。骨の病気になりやすい。
 うちの東京の母方の祖父が真言宗なので、その実態は良く判る。

 如法寺などは、郡山市の堂前町にあり、馬頭観音を本尊に祀る。そこの信者なのを声高に喧伝しているブログ、時遊人suzuのスズキというブログを見て、暗然とした。いまだにそんな郷愁を誘い、うわべだけで自慢にもならぬ自慢をして得意になるのか、と。
 そのブログの主催者は、事あるごとに、自分ほど郡山を知り抜いたスペシャリスト?はいないと吹聴し、時々暴言を吐いてはガス抜き、息抜きをしている。
 何が真実の宗教かは存知なく、本尊に迷い、酩酊状態の愚論を述べて、煙に巻く。
 私の以前のブログのアドレスが、「エル」なる人物により、私に何の知らせも報告もなしに「ネット上の知り合い」と称してそこのスズキのブログに登場し、勝手に紹介されているのを以前、見た。
 まるで晒しものであり、陳列物の如くに私のブログが勝手に断りもなく紹介されていた。
 これには私は大いに不満であった。
 その「エル」なる人物には、私のブログに来ては、問題を何度も起こされた。
 勝手に来ては、殺人事件などの無残で残酷な凶悪犯罪の列挙に明け暮れ、書き込みを勝手にしていく。
 いくつもの難問を勝手にコメントに投げ込んでしらを切り、答えだけ持ち逃げして、私を不快にさせた。
 私はその非道をなじり、不当だと訴えたが、「ゴメンナサイ」という一言で切り抜けられるとエルという人間は浅はかにも思ったようだった。
 しかし、「ゴメン」と言われても、私は許すとは一言も言っていない。そんな言葉が通用するならば、警察も司法も要らない。
 
 とにかく、私はネット上で自分のブログが勝手に載せられたsuzuという同じ郡山市の人のブログを見て思った。
 成程、郡山の事が詳しく載ってある。しかし、これも、殺人事件・自殺・霊などの怪奇現象等を殊更面白おかしく載せて、むしろそれらを自身の血や肉にして肥え太らせ、肥大化した豚の怪物のような、得体の知れない記事が多かった。動画サイト・ユーチューブの引用も多く、その連係プレーをしつつ、映像で誤魔化し、声高に自身の正当性を叫ぶ。
 そこに私は何か不自然・不健全なものを感じ取った。
 今年2017年2、3月あたりの記事を読むと、今もその記事があるのかは知らぬが、そのsuzuなる人物が、八山田の辺りの高校、福島県立郡山北工業高校の教師を臭わせる記事が踊っていた。
 どこまでが本当かは判らぬが、そう判断しても良い記事だった。そんな公職の、公務員が、今の世の中の公務員なんて、たかが知れているのは百も承知だが、まあ、あきれ果てたとしか言いようがない。そんな人種が公僕としてまかり通ってしまうのかと。
 北工の、鈴木教諭と言えば、皆が判るのに、「裸の王様」の、自分独りだけが分らぬとは…。少なくとも大人なのでしょうあなたは。「井の中の蛙大海を知らず」とも言う。おのれが己がと声高に叫び、見る人を何故か不快にする。そういうものには交わりたくはない。
 
 「suzu」の、「エル」の与太話、与太記事を読んでも、何も得られなかった。エルは「ツイッター」を主に徘徊し主催し、次は「廣野ナントカ」なる偽名を使い、つい最近はまた別名で名乗るがこいつは姿をすぐにくらます。得体の知れなさではsuzu以上だ。

 マズそうな自分の食事を殊更持ち出して写真としてアップし、三松会館だ、何だとうつつを抜かし、乗っけていた。それは自由だが、私は上記の通り、彼を許したつもりはないし、反感を持ってそれらツイッター等や他人のブログへの書き込み等を監視して見詰めていた。

 エルは日顕御陰尊猊下を事もあろうか誹謗していた。今は判決が下りて誰も相手にしない事、創価学会側もそれを訴え直してはいけないと判例で決まった事を蒸し返して、違法な事を殊更針小棒大に、得意になって訴えていた。当時は私はまだ学会員で、それを事実と鵜呑みにしていた。後に創価の非、日蓮正宗の正義を知り、愕然とした。今まで何と多くの嘘八百を創価学会は並べて来たのか、嘘つきの、デマのプロパガンダ出力・発信源、創価学会。その罪は大きい。
 
 本当に創価学会は嘘、デマ、ペテンしか言わない。それが文化・平和の団体と言うのだから笑わせる。この堕地獄ブタ野郎女郎、創価。教義を日蓮正宗からタダで持ち出して空威張り。笑止千万だ。師匠池田大作と共に地獄へ落ちて行く様を想像すると、笑いを越えて身震いする。もはや、狂気だ。

 郡山市は、真言宗豊山派如法寺、浄土系善導寺、こおりやまのミニコミ誌「ザウィークリー」の占い記事担当の祈祷寺、単立日蓮門流法久寺、神道神社系・開成山大神宮・安積国造神社等、新興宗教の、真如苑、天理教、霊友会、立正佼成会、顕正会、創価学会、霊波の光、世界真光文明、キリスト教各派・エホバの証人・統一教会・モルモン教、生長の家・幸福の科学、他、邪師による邪義邪宗邪教邪道邪説邪法の類がわんさかワンサカ余りにも多過ぎる。皆、本尊に迷う、迷い子の宗教、迷妄の狂ったおかしな宗教ばかりだ。それは新興宗教のみならず、伝統宗教にも言え、日蓮正宗以外の邪宗邪教にも即ち全て当てはまる。
 
 日蓮大聖人の言う、四箇の格言「真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊」と喝破し破折された甚深の意味を現代人も、郡山市民も噛み締めるべき。
 
 世を糺さねばならぬ!

誕生日、今日と言う日に

2017年08月25日 16時11分15秒 | 人生訓・人生論・人の生き様・年末年始賀正・正月祝・祝誕生日・記念日・祝祭日旗日
誕生日。
 今日は私にとり、ケジメとなる日。もう、ちじこまってばかりはいられない。自由に羽根を、翼を広げて羽ばたこう。
 もう、か、まだ、かは微妙な感じだが、この一瞬、今と言う時を大事に一球入魂で、前へ前へと進んで行こう。
 今日を決して忘れず、明日へとつなげたい。迷っても悩んでも、自分らしく、雄々しく生きてゆこうと思う。

 二〇一七年平成二十九年八月二十五日金曜日、吉日、記す。おめでとう、と自分に言いたい。

 追伸、悩んでばかりもいられない。人生は短い。一番いいのは、悩みながらも考えつつ、とにかく前進する事。
 迷ったら、そこで立ち止まって、また歩き出す。その繰り返しだ。ノロくとも、自分の歩を進めて生きてゆきたい。

過日買ったCD、話はミニマリスト・昨今から秋への天気談義へ

2017年08月20日 16時26分00秒 | クラシック洋楽日本邦楽演歌雅楽江戸明治大正昭和平成令和現代歌謡伝統音楽集
 過日、ブックオフにて百八円で買い求めた複音ハーモニカ演奏の音楽CD。一部二百余円のものも一枚だけあるが、他は全部百円台。
 こちらもかのジョンレノン様のミレニアム・エディションの「イマジン」のCDアルバム。音が良くなり、日本語解説も付く。これも、ブックマーケットにて百八円。
 こうやってちょこちょことCDや本などをうんと多く買い求め過ぎてる為、家の収納スペースは物だらけ、お金も底をつく。
 しかし、やめられない。元々物を集めるのは好きな方で、昨今の、ミニマリストと言う、極限まで持ち物を削りに削り、最小限の物だけに自身をストイックに追い込むやり方は余り好きじゃない。
 結局、写真や音楽はパソコン一台に何でも入れて、パソコン一台で事足りる、とか、冷蔵庫はあるんだけども、中には少ししか食品がないのかは知らないが、何らかのカラクリがある筈であり、自分は何ともそこまでしたりやりたくはない。しかし、現代の大量消費文明に異議を唱えたのには敬服はする。
 閑話休題。それにしても、雨続きの毎日で、東京は八月はずっと雨だとか。東北も余り変わりはないが、今日などは暑くて少し蒸すと言うか、湿度が高く、蒸し暑い感じがする。
 これは、謗法・悪事を働く創価公明が東京都議選で当選者多数の為、諸天善神がお怒りになり、仏様もお怒りになり、天変地異が起こり、現罰・罪障が現れた証拠だろう。そうとしか思えない天気だ。大聖人様の立正安国論から照らせば、自然そうなる。
 秋までに、この異常気象が解消して、サッパリスッキリした天翔ける秋の晴天の爽やかな青空をここに来て望みたい所だ。

TOSHIBA TY-C250 CDラジオ、紹介・使用レポート

2017年08月20日 16時01分30秒 | ラジオ・テレビ・新聞雑誌ネット等マスコミ。ラジオ機器オーディオビジュアル製品
先日、東芝CDラジオ、TY-C250を五千円以内、四千数百円余りで某通販から買い求めた。
使用感だが、デジタル表示のラジオの選局はバッチリであり、メモリーも不揮発性メモリらしく、電源を根元から切っても登録した放送局が消えない。この点、ソニーのAM/FM/ラジオNIKKEIのラジオ機器、ICF-M780Nは見習って欲しかった。ソニーは電源を切ると全て登録が消えてしまう。気を付けて使っている。
この東芝のは、CDも音が良く、申し分ない。外部入力も付いている。CDはプログラム、リピート/ランダム、AB間リピート等、多種の機能を盛り込んでいるが、使いこなしていない。
FMが若干弱い感じだが、総合的には合格点、花丸の機械・機種だ。白色と黒もあるみたいだが、自分はMac、iPodのアップル社の信者だったときから白が好きだったので白にした。うちにももう一台、古い東芝のCDラジオがあるが、先代機種はアナログ選局。二代目としてこの機種は我が家で君臨している。頼もしいCDラジオだ。

追記
このCDラジオ、2019年令和元年夏に、半日うちを空け、お寺から帰ってくると家の中が何か騒がしい。何かと思って近づくと、この機器のラジオが大きな音で鳴っている。ラジオ等つけて家を出ていないので、おかしいな、と思う。
試しに一度電源を切ってみる。何と、又、電源を入れてないのに勝手に付いた。
暑さのせいで壊れてしまったらしい。CDもラジオも聞けるのだが、勝手に電源が入るので困ってしまった。
今は箱に入れて、押し入れで冬眠中。うちの部屋の中は当時、40度位だったが、他の機器が壊れていないのを見ると、この製品がやわで弱かったのかも。
東芝製品は大好きだが、この製品は中国製で、自分の使い方も反省したが、もう少しパナソニックのように、頑丈に作ってもらえぬものかとも思う。

追々記・編集後記(二〇二二年、令和四年、十一月三十日水曜日午前十時現在の私の気持ち)
このCDラジオ、壊れていると思いつつ、大事に寝かせて取って置いた。何と言っても、パソコンの、ポータブル外付けドライブ以外は、このCDラジオがうち、我が家の生命線であり、これ以外、これしか選択肢がないからだ。
暫く寝かせて、置いて置いたら、何と、直っていた。電源を入れても、勝手につくような事は全くない。
一応、信用はしていないので、この機種を常時コンセントにプラグは差さないようにはしている。しかし、良く聞け、うちにあるレコードプレーヤーの立派なお供、外部端子に拠るスピーカーの役目も立派に果たし、ラジオもAM・FM両方聞けて、CDも聴ける。いい事ずくめのCDラジオである。
この製品を作ってくれた、東芝には、神としか言いようがなく、ただ、崇め、神々しい製品群を産み出す東京芝浦電気株式会社、東芝には、ただ、感謝、である。


笑顔と感謝。日蓮正宗・新井御尊師の御指導を胸に!

2017年08月19日 13時30分18秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
日蓮正宗の新井御尊師が郡山市無量山寿海寺にお越しになり、語っていた。「笑顔と感謝」「根気とやる気」。そのお話は、まるで昨日の事のように思い出される。
 思えば、私自身、笑顔が何と少ない事だろうか。今日一日を、何時間、笑顔で居続けただろうか。人と接するに当たり、本当に、心から、笑顔と感謝で振舞っているだろうか。
 私は凡夫だから、とか何とか言えばカッコがつくのか?ただの言い訳だ。
 新井御尊師も仰っていた、「あーだこーだ、あれがどうしたのこうしたのと、グチグチ愚痴を言う前に、まずはやってみなさい。やってから物は言いなさい。」
 御本尊様の前で言う愚痴は、智慧となり、人様や自分でいう独り言、世間に対して言えば、それはただの愚痴。愚か者の謗りを受けてしまう。
 私は、言う言葉、使う言葉も、時として激しく、人様の機嫌を損ねる。余り上品な言葉づかいもしてはいないようだ。ここにも、自分の限界・業の深さを痛感する。
 反省ばかりで、ここでこんな事を述べていても、愚痴になってしまう。早く御本尊様の前に進み出でて、反省材料として、心から悔い改めて、明日へと向かおうと思う。

今の若者を中心のレコード・カセットブーム-後半、宗教論

2017年08月19日 12時12分07秒 | ラジオ・テレビ・新聞雑誌ネット等マスコミ。ラジオ機器オーディオビジュアル製品
あちこちで、昨今のカセットテープ、レコードの復権、ブームが取り上げられている。今の若者たちは、見る目はある。が、それは、今のパソコン・スマートフォン等の無機質な音楽に慣れ過ぎて、いわば、飽きて、次はもっと新しい音、物珍しさだけでレコード、カセットテープと、取り上げ、注目を集めてるだけなんじゃないのか。このブームが一過性じゃなくて永続すれば、それこそ文化足り得るが、ただの物珍しさで若者が飛び付いただけならば、その買った機械が壊れた瞬間に、ブームは去るが、レコードは重みのある、本物のメディア、質実剛健の骨太の分野、品物なので、買い替え需要も見込めてその良さを知れば、万人が認める代物だから、それに気づいた若者の勝利?!、永遠の趣味と成り得る。
 今の日本の若者、しかし、アナログ製品のブームの起源は欧米が先だが、若い人はいいものを見つけて来るのが早く、得意だ。こんな所に宝があると分かると、すぐにそれに飛び付く。
 その勢いで、真実の立派な宗教を求める心ある若者たちが、自身の誤れる、間違った宗教を辞めて心より改心して、目覚めて大挙して伝統仏教の日蓮正宗になだれ込んで入ってくれないかな、とも思う。そんなに悪い宗教じゃなく、むしろ、世界に誇れる、日本でも全世界でも最高峰の、宗教の王者、高等宗教の、日蓮正宗を強くお薦めする。 
 誰も一生が掛かった、大事な人生の選択肢の宗教の選別には、躊躇せずに、適当に決めてしまう。まるで、自分の服か好みの食べ物を物色する時程には深く考えないで、親譲り、自分で決めたら尚更、おかしな低級宗教に、学歴など関係なく染まってゆく。それは東大生でも変わらず、オウム教団に東京大学学生が深く関与し、多くが入信していたのは周知の事実だ。ちなみにイデオロギー・政治思想ではマルクス教の日本共産党にも東大が多い。
 誰もが怪しげな新興宗教、淫祠邪教の類をおかしいと思いつつ、日頃から許してしまっている。これらが、文証、理証、現証の上から本当に正しいのか、皆でよーく考えてみたら、その邪師邪義邪教の教えに執着しなければ、答えははっきり出る。一般大衆、一切衆生は、日蓮大聖人様のご境涯に触れて、何が善で、何が悪かを、よーく考えてみないといけない。

「今、頑張れ!を言いたい人は?」無論、沢山いる!

2017年08月11日 12時43分01秒 | 人生訓・人生論・人の生き様・年末年始賀正・正月祝・祝誕生日・記念日・祝祭日旗日
頑張って、頑張れと言う言葉は、私は結構好きなことばなのだが、うつ病患者には禁句だという。
 曰く、私はがんばっているのだ、これ以上どう頑張れというのか、とうつ病患者たちはのたまう。
 考えてみると、うつ病患者の一日の生活を見直し、反省してみると、余りに自分自身の事ばかり、まるで「自分が一番だいじ」と、エゴのかたまりになってはいないだろうか。
 先日、日蓮正宗の指導会で、新井尊師(布教部副部長)という御僧侶がわざわざ東京から、福島県は郡山市の当、無量山寿海寺においで下さり、お話、訓諭・訓戒・訓話為されていったが、そのお話の中でも、この「うつ病」の話が出た。
 曰く「何故うつ病になるか?動かないからだ。ある医者が、治療上で言うのは、二週間、自分の事を考えない。自分の事ばかり考えるから鬱病になり、治らない。その人は自分の事以外の、他者への感謝がない。他人の幸せの為に行動すれば、そんなうつ病など必ず治る。」と仰った。
 加藤諦三さんの著作群「青春をどう生きるか―いまやらなくて、いつやれる―」(カッパブックス・光文社)や「行動してみることで人生は開ける―まず、できることから、やってみる―」(PHP文庫)等を読めば、うつ病患者もその病にどう対処すればよいか、ヒントが与えられるだろう。
 うちの今は亡き親戚の東京にいた叔父さんも晩年、うつ病に苦しみ、病院を転々として最期は病気で亡くなったが、私が何か助力を、援助を、人生上でも大変お世話になりっ放しのこのわたくしめが何でも良いから人助けが出来なかったのか、という後悔の念で、一杯である。無念より何より、あの生前本当にお人好しで優しかった叔父さんに少しでも寄り添ってあげられなかった自分の不甲斐なさが悔やまれ、自責の念で、自分が身代わりになってあげたかった位の気持ちだ。
 うつ病の叔父さんにとって、「頑張れ」「頑張って」は禁句なのだろう。しかし、わかって欲しい。決して悪意を込めて、こちら側がはっぱをかけたり、けしかけている訳は微塵もない事を。ただ、人生の応援の意味で、こちらは何気なく発する、日常の、いつも通りの、言葉なのだという事を。
 私など、今は日蓮正宗内に身を置き、信徒の皆々様からの「頑張れ」「頑張って」の言葉を毎日の励みにして、今日まで一生懸命自分なりに試行錯誤を繰り返し、暗中模索を続けて、乗り切って来た。その時の「頑張って」の言葉ほど、どれ程大いに私自身を励まし、助けて頂き、慰められたか?!、これ以上の言葉を、私は未だ知らない。
 創価学会時代、誰一人、私を励まし、面と向かって「頑張れ」なんて声かけしてくれる人など、一人もいなかった。皆、私を無視し続けた。寂しかった。頑張れも言ってくれる人がいない世界、それはつまり、孤立無援、誰一人味方のいない、敵だらけの世界。
 音楽の話だが、ザ・ブルーハーツと言う、私の青春時代に流行った、昭和から平成の頃のバンドブームの時に誕生し、一世を風靡した音楽ロックバンドがある。
 私は、彼らの音楽が大好きだ。中でも、「人にやさしく」という楽曲、歌がある。私は、必ずこれが掛かると、つい涙ぐむ。自分が励まされ、応援されている気がする。
 ブルーハーツの歌は、飾らずに素朴で、粗削りだが繊細でもあり、聴く者を素直に感動させ感じ入らせる。唸る程に、歌の文句を噛み締めて聴きたい歌が多い。
 その中で、彼ら、彼の、作詞作曲の甲本ヒロト氏は、かくの如くに思い入れのある声で、聴く人を励ますかの如くに歌い切る。
 『人にやさしく』(THE BLUE HEARTS 作詞甲本ヒロト、作曲甲本ヒロト)にも、「がんばれ」と甲本氏がエールを送っている。
  頑張れ、何と有難い言葉だろうか。
 さて、「今、頑張れ!を言いたい人は?」の答え。それは、世の全ての人々に対してであり、私の家族にも、自分自身への応援歌としても、日々を闘う市井(しせい)の人々に「がんばれ」を是非とも言いたい、言わせてくれ、否、どうか言わせて下さい。
 みんな、目の前の事にめげずに負けずに、がんばれ!!!

そんなに創価って良い教えなのか?!―怖ろしい異流義の教団達

2017年08月11日 11時13分54秒 | 邪教創価学会・邪政治団体公明党・邪顕正会・邪正信会、の邪義を構える異流義共
創価学会の教えは、日蓮正宗との法論でも負けている。仏教上の三宝で彼らは間違い、狂い、おかしくなっている。そこを突けば、彼らは尻尾を巻いて逃げてゆく。教義上の欠陥を抱えた、尻切れトンボ、創価学会。エンジンのない車か飛行機と同じで、将来必ず空中分解するしかない愚か者宗教、創価学会。
 日本史上、鎌倉時代以来八百年の歴史を誇る伝統宗教の日蓮正宗と、要するに新興宗教の、たった数十年の昭和の頃からの創始の創価とは、初めから勝負はついている。池田の好きな、勝負、勝ち負けに異常にこだわる、勝って勝って勝ちまくるのが創価学会なんだろ。やい、創価。だったら一回ぐらい勝ってみろよ、本当に!このおたんこなすのコンコンチキめが。
 創価の賞味期限はとうに切れた。創価の最盛期は、日蓮正宗の外郭団体の時であり、今の創価は、池田の私兵団体、イケダファンクラブと化した、終わった団体、オワコンだ。そこに居続けたって、何の功徳もなく、心ある、思い当たる人達は、大挙して、皆、日蓮正宗に移籍し続けている。
 私も今年の二月に創価に脱会届をお寺に出してもらい、創価を辞めたが、後から聞くと、かなりの数の創価脱会者が日蓮正宗に多くの方々が居る事に気付く。私や貴方一人ではないのだ。実に多くの方々が創価を脱会し続けている。大石寺に行けば判る、法華経独り大繁盛の深い意味が、必ず判る!!
 私にとって、最大の辞めたきっかけは、あの戒壇の大御本尊様を否定したのが大きかったですな。まさか、そこまで創価が踏み切るのか?!そこまで学会が馬鹿だとは思いも寄らなかった。それ以外にも、創価の謗法の、業罰、業障、罪障が余りにも如実に実生活に表れて出て来て、苛まれ悩み苦しんで来た自身の罪業深さを知るにつけ、これは、この創価学会と言う宗教は、とてもじゃないが、日蓮大聖人の仏法とは乖離(かいり)し過ぎていて、単なる邪教邪宗の一派に過ぎないと文証・理証・現証の上からも、次第に確信して行ったのが大きい。
 あのままやり続けて途中で気が付かなかったら、確実に私の場合は、ろくな生き方も出来ない、というか堕地獄の罰の業火でとっくに死んでた筈。
 大御本尊様を否定するのがいかに愚かかは、火を見るよりも明らか、であり、創価自身の依って来たる由来や歴史までをも否定する愚挙・暴挙である。創価学会がいよいよ邪教化へのカウントダウン、元々邪教だったが、大御本尊をその教えの拠り所、根拠にしていただけでもまだその宗教の価値があったのに、何で自らそれを捨て去ったのか?愚かとしか言いようがない。
 それでは、日蓮正宗を同じく裏切り分派した、異流義の顕正会・正信会にも劣る。顕正会ですら、彼らは間違いの根本の、日蓮正宗もそんな立場には立たず、歴代の猊下様方が否定し尽くして来た、とっくに時代遅れの、なぜか「国立戒壇」のただその一点に今だにこだわっているが、その反面、大御本尊を畏敬・尊敬し恋慕する心だけは、彼らは戒壇の大御本尊様を拝謁する事は、新興宗教教団と化し、日蓮正宗からも破門され(同時期に正信会、のちに創価学会も破門)、邪教を旗揚げした会長浅井が邪義を構えるので叶わぬが、彼らは仏壇のニセ本尊ではなく(今ではニセ本尊も拝むと言う)、五座三座ではなく一座だが、毎日大石寺に向かって遥拝して一応は日蓮正宗の信仰の一部は形骸化はしているが、残している。大御本尊否定・ニセ本尊配布の邪教創価学会よりはまだましだ。
 聞く所によると、今では創価以上にその戦闘的で手段を択ばぬ折伏で「折伏の創価」もびっくりの、創価のお株を奪う程の折伏成果を顕正会はあげていると言う。創価の折伏・弘教・布教は今はだいぶ下火で、創価学会は新規入会者はどこも閑古鳥が鳴いていてほとんどゼロであり、新入信者は今は創価の家族一家で新たに生まれた子供・新生児の数を折伏数にわざわざ算入して苦しい教団の家計をやりくりして糊口をしのぐ状態なのだと言う。
 少子高齢化の煽りを受け、幹部達がはっぱをかけて大号令しても折伏数はうまくは増えず、じり貧で、創価学会を辞めて行く脱会者は軒並み増加傾向にあると言う。まさに創価学会ならぬ、「創価瓦解」だ。キャハハハハハハ。
 都議選では何かとズルをやり、数合わせと小池都知事にすり寄るいつもの風見鶏体質で辛勝したが、馬鹿な都民公明の結果であり、現実の上で実際には国政では、公明党は得票数を毎回ごとに派手に減らし続けている。
 あれ程数にこだわり、勝利勝利とのたまい勝ち誇った創価・公明が、旗色が悪くなり、党勢・教勢が衰え、衰弱していく様を、日本国民は、いつかやって来るであろう、池田創価教の教祖・池田大作(池田太作・田吾作・ソンテジャク)の死亡・死去のXデーを皆、いつ来るかいつ来るかと、共に固唾を飲んで見守っている。私も、これからのニュース・出来事を、高みの見物で、何が起きて来るのか楽しみで、何が起ころうと簡単には一喜一憂せず驚かずに、池田一派が何を企んでいるのか、池田創価教の旗揚げから終焉をこの目で見んがため、毎日の新聞・ラジオ・テレビ・ネット等を拝聴・拝見しつつ、凝視し監視しつつ、成り行きを見詰め見守っていきたい。

情けないが、今まで、池田大作に騙されてた

2017年08月10日 09時08分17秒 | 邪教創価学会・邪政治団体公明党・邪顕正会・邪正信会、の邪義を構える異流義共
池田の著作とされる、「人間革命」「新・人間革命」他、多くの著作群。それらを今まで、私は池田大作自身が物していた、ちっとも池田の代作だとはつゆも疑わずに、本当にセンセーが書いているんだと頭から疑わず信じていた。
 創価学会の牙城会の先輩も、それら著作は心して読むように、何度も線を引いてまで、心肝に染めて、頭に叩き込むようにと指導された。私は、赤ペンや鉛筆で、何度も線を引いて、じっくりしっかり本当に夜が明けるまで(本当だよ)池田の書いたと称される本と睨めっこで、体に頭に叩き込んでいった。
 これを洗脳と言わずして何と言う。全く今となっては無駄な努力だった。その全てが、池田の代作、ゴーストライターの書いた、代作書物!これが怒るというよりも、何だか今では、情けなくて、悔しい笑いを噛み殺したくなる。
 まんまとしてやられた。稀代のペテン師・詐欺師!。こういう嘘を平気でやる根性を、心根が許せない!本当に私は被害者だ。創価学会被害者の会というのがあるのならば、今まで受けて来た恨みつらみをそこで述べて、創価の悪事を世に問いたい位だ。
 私の日蓮正宗寿海寺の、Kさんという副講頭さんは、初めに池田を見た時は、やっぱり胡散臭いというか、いかにも豚みたいで気持ち悪く、醜悪で、顔も見たくもなかったという。それでも一応、日蓮を信奉している人・団体だからと、創価学会に入った。しかし、やがて、日蓮正宗に入り直す時、池田に対する自身の第一印象がやっぱり正しかったと思い直したという。
 池田は、なるべくしてああなり、身を持ち崩し、傲慢になり、慢心を抱き、宗門に罵詈雑言を差し向け、宗門の恩情(池田への再度に亘る申し開きの機会、意見陳述の場の提供、総講頭への復帰の道)を断り、無視し続け、尊い学会員たちの心情をも無視して、その会員たちを道連れにして、堕地獄の邪宗教の教祖へと成り下がった。
 今の池田は廃人・植物人間になり、生死を彷徨い、七年間もの間、公の場には登場もせず、現在、ベッドでのたうち回り、今世で堕地獄の現罰現証業罰を受けてさいなまれ苦しみもがき、必死に罰を受けている最中だ。
 ろくな死に方でもない。極悪謗法の最悪の一凶の大悪人がこの世を去る。この世で最期は苦しみ喘ぎ、あの世でも苦しみもがき、地獄へ落ちて行くのは間違いない。多くの会員達をも引き連れて…。
 どこへ向かうのか、情けのないイケダ創価学会よ。牧口・戸田と、学会創立以来、七十年間護持し続けて来た、戒壇の大御本尊様を否定し、あの、悪名高いニセ本尊を持ち出し配布し、事あるごとに池田センセーは、と己義を構えるあんたら悪党共に明るい未来など決して訪れなどはしない。

大悪をこれば大善きたる

2017年08月06日 11時19分44秒 | 御書の一節(朗読含む)
「大事には小瑞なし、大悪興れば大善きたる。すでに大謗法国にあり、大正法必ずひろまるべし。各々なにをかなげかせ給ふべき。迦葉尊者にあらずとも、舞を舞いぬべし。舎利弗にあらねども、立ちて踊りぬべし。上行菩薩の大地より出で給ひしには、踊りてこそ出で給ひしか。普賢菩薩の来たるには、大地を六種に動かせり。事多しといへども、繁きゆへにとゞめ候。又々申すべし。」(大悪大善御書 文永一二年 五四歳、平成新編「日蓮大聖人御書 大石寺」御書七九六頁)。
 
 私の大好きな大聖人様の御書の一節である。大きな悪が起これば、必然的に大善、大きな善、筋道通った、素晴らしい世の中、幸せな日がやって来るという、日蓮大聖人様の有難い御言葉。何とも逆説的、パラドックスの最たる、素晴らしい立派なお言葉。大聖人様が、一切衆生に、大丈夫、大丈夫、この難事・濁悪・悪世に負けずに、寧ろ今のこの時に、舞を舞いましょう、立って踊りなさい、と衆生を鼓舞する。
 日蓮大聖人様は、釈尊の法華経の時代の上行菩薩の再誕だと言われており、大聖人様も大いにその御自覚の元、立ち居振舞っておられる。その上行菩薩が大地からおいでになられた時には、舎利弗尊者でなくとも、喜んで踊っておいでになった。普賢菩薩が来たときには、大地が六種に動いた、という。
 私は、日蓮大聖人の、嵐が来ようと、身に迫る大難が訪れようと、一歩も引かずに戦おうと前向きに生きるひたむきさが大好き!このお方に、信伏随従して死ぬまで付いて行こうと思わせる何かがある。仏様・御本仏の魅力は、語るとも尽きない。

以前のブログの反省点

2017年08月05日 01時49分36秒 | ブログ論。私の本音。一人語り。物故録。恋愛論。恋話。大いなる自分の好み、嗜み。
このブログの訪問者が一桁になってしまっているのは、ひとえに私の努力不足だが、今月になってもブログを更新しないからと言って、一桁なのには、参ってしまうというか、合点がいかない。
 以前のブログは、私の愚にもつかないラジオ機器の宣伝というか、乞食のような、人の使ったラジオ機器の使用状況を世間様たちにいちいち確認されていたような、ラジオラジオと、まるで人寄せパンダよろしく、こちらもお金も時間も手間ひまも全て吸い尽くされていたような、情けない状況だった。
 こちらにとっては、ちっともお金にもならない、こちらはラジオの代金を支払い、いちいち事細かに使用状況はタダで提供するは、皆はタダで情報を掠めていく。何とも合点がいかなかった。余りにもこちらが虚しかった。
 今は、日蓮正宗の記事に専念出来て、胸がすうっとする位、清々とした、肩の荷が下りたような心持ちがしている。見ている人が少ない分、創価学会の馬鹿どもの陰謀渦巻く策動にまんまと乗せられることもなく、気が楽だ。
 何がラジオだ、バカじゃないのか、とでも言ってやりたい。