創価学会では、日蓮正宗を日顕(上人)宗と呼び、日顕上人が亡くなった現在でもそう呼び、口汚く罵り、その瞬間は、人格が一瞬で変容した頭破七分の人格破壊が疑われる。
そう言う私も、数年前までは、日蓮正宗ではなく学会に属していたので、恥ずかしくおぞましいが、何度か日顕上人様を罵倒した事もある。
動画サイトユーチューブの中で、樋田昌志さんは一度でも御法主上人を呼びつけにしたならば、一回ごとに地獄へ行くと覚悟して、罪障消滅の祈り、自行化他の信心を大事にしなければいけない、と仰っていた。
問題は、御法主上人猊下を一度は学会も尊崇していたはずなのに、一度破門の憂き目に遭うと、以前の指導が逆さまになり、180度反対になってしまう、その教えの軽さを嘆く。
私は、以前、学会関係の書籍を読んでいて、学会が宗門、特に御法主上人猊下を敬う文章が殊の外、好きだった。自然の発露と言うか、自分から進み出て、聖なるもの、権威のあるものにひれ伏す、何とも言えない心地良さがあった。
それが今の創価は、それを奴隷根性だ何だと、それは口を極めて罵る。自分の築いてきた美学を打ち壊し、仏法破壊に走った在家団体新興宗教教団創価の旗揚げとなり、創価の値打ちはマイナスに陥った。
私は、以前、創価に居た頃は、いつか必ずや創価自身が気付き、日蓮正宗とまた仲良くなって欲しい、と願ったが、学会幹部に文化会館へその事で直訴した事もあるが、そうはならない、向こうが謝って来てもどうなるか、大御本尊?それよりも各家庭の御本尊、日寛上人の(ニセ)本尊があればいい、大御本尊は本山に所有権があるから手は出せない、それならそれでいいじゃないか、と言う指導であった(今から二十年位前)。
私の父の眠る菩提寺、日蓮正宗無量山寿海寺に赴き(十年位前)、御住職様が不在で、奥様が出迎えられた時も、奥様は、今の学会と、御宗門が仲直り、それはない、日潤総監も有り得ない事と仰っていたので、ありません、と無碍な返答。
今の学会と正宗は、相当な亀裂が走り、和合は無理だな、とだんだん私は実感しだした。創価と宗門がこじれた、あれから三十余年。時間だけが過ぎ去り、人も変わり、時代は移り変わっていた。
後は私の考え一つ。創価を辞めて、日蓮正宗に帰伏する。
お寺の方でも、私が父の納骨料を払いに訪れると、チャンスはあったのだ。
ある日、私が一年に一回、お寺に訪れると、御住職様が対応され、袈裟衣を着られた御住職様は、私に合図して、今から本堂で勧誡しましょう、と軽いノリで言われた。
私は「それをしたら、私は創価学会を辞めなければならないのでしょうか?」と聞くと「勿論!」と御住職様。私は「それはまずい」「どうして」。
私は返答に困り、今日は納骨料を納めに来ただけですから、と言い、その場から逃れるのに必死だった。
今から考えると、何を迷っていたのか、どうして早く踏ん切り付けなかったのか、疑問もあるが、お寺では私の決断を、今か今かと待っていたのだ。
私はその後、年末に交通事故に遭い、二月に死ぬ思いをして、毎年お寺に納骨料を払いに行っていたが、その前の年はとうとう払っていない事に気付き、納骨料を払う為と、うちにあるニセ本尊をお寺に叩き付け、新しい御本尊様を頂けるならと、その一心で遂に打って出た。眠い目をこすり、お寺に自転車のペダルを急いで漕いだ。
そうして今の私がある。今は、あの、澱(よど)んだ創価時代とは見違える程元気になった私である。全ては、大聖人様の手の内にあったのである。