Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

かつての我が家の犬猫のペットたち

2024年02月17日 20時39分31秒 | ペット、犬、猫、鳥、動物、生き物・自然界・畜生界のもの共他
 我が家では、私が小学中学高校大学と、生徒学生時代に、犬猫のペットを飼っていた。もう、二十年以上前に、皆、あの世に旅立ち、亡くなっている。
 犬は、雌犬で、ラッキーと言った。名犬ラッシーがコリー犬だったのを少しもじって、ラッキーと言う名前にした。うちの犬は血統書の小型犬、シェットランドシープドッグ、シェルティであった。
 
 それから、猫は、これも雌猫で、ペルシャ猫であり、ペルシャ猫だから、ペルちゃんと名前を付けた。その内のチンチラ種なのだが、全然シルバーの毛じゃなく、チンチラらしくはない。チンチラは緑色の目がたしか特徴なのだが、うちの猫はブルーに近く、母などは、きっと、本当のペルシャ猫と、チンチラの合いの子なのだろう、とよく言っていた。
 そのせいか、チンチラ・ペルシャ猫以上に、混ざり合ったのか、ミックス特有の、凄くかわいい猫であった。
 しかし、この猫はうちに来た時から鼻が悪く、よく鼻をティッシュでかんでやらなければならない程、鼻水をたまに出していた。普段はしかし、滅多には鼻水は出ないが、寒くなると、くしゃみや鼻が悪かった。
 ひょっとしたら、猫にも花粉症があるのかも知れない。分からないけれども。
 この猫は、十六、七年は生きた。非常に我が家では最後までいた猫だった。
 犬の方は、十年、十一年位いたであろうか。元々、シェルティ犬は短命だと言われているから、その位なのだろう。
 犬や猫に囲まれた生活は、とてもワンダフルで、楽しく、犬は番犬の役目も立派に果たし、猫は愛玩動物として、どちらも可愛がられた。
 私は今は一人暮らしで、動物を飼うのは無理だが、出来れば、こんな動物が身近に居てくれたらなあ、といつも、犬の散歩をしている人を見るとそう思う。
 それが、たまたま、シェルティ犬だったりすると、羨望の眼差しで、私は飼い主とワンちゃんの一挙手一投足を必死で追いかけているのに自身でも気づく。
 その様は、私のかつて犬猫を同時に飼っていた習慣がそうさせるのだ。
 私は、動物類が非常に好きだ。それは、鳥や魚、カブトムシクワガタ、コガネムシ、トンボ他、昆虫類も好きだ。しかし、虫は子供時代よりかは少し苦手になってしまった。
 とにかく、動物類を、私は、私のうちでは、父母がペット屋さん小鳥屋を商っていた関係上、とても密接な私の動物との触れ合いがそこにはあった。
 要するに、仏教でいう、畜生界なのだが、時には人間よりもそれらが賢いと思う時がある。宗祖日蓮大聖人様の御書でも、亀など他の動物ですら人間に恩返しをする時がある。ましてやそれが人間ならば当然ではないか、との御教示がある。
 やはり、とにかく、人間は、人間だけ見ていてもダメである。動植物他と触れ合わなければ、何一つ、季節の移り変わり、動物達との息の交し合い、等々、非常に花鳥風月を、もっと今の日本人も、古き日本に見習わなければならない。
 そういう話をここでして、私なりに、非常な喜びを持たせて頂いた。有難いと思う。
 これにて、私の我が家のペット、猫と犬の写真画像を冒頭に載せて、ここでキーを叩き終わりたい。
 以上。よしなに。wainai

日蓮正宗信仰により意思疎通の叶う生き物たち

2023年06月19日 14時40分16秒 | ペット、犬、猫、鳥、動物、生き物・自然界・畜生界のもの共他
 今、テレビで見ている、漫画家・作家・画家の、ヤマザキマリさんの番組では、ヤマザキさんは、昆虫が大好きであり、意思疎通が出来ない所がそもそも良い、と判断を下している。

 そういう私は、あんまり、というか、意思疎通が出来ない動物は、生き物としては、嫌いと言って良い。

 けれども、鳥はどうなんだ、というと、鳥なんて、やはり、意思疎通が出来ない生き物の、最たるものではないのか、との疑念も沸く。

 私なども、鳥は、子供時代から、うちの両親が小鳥屋をやる前から、大好きだったが、鳥と、コンタクト、心が通っていたのかなあ、と思うと、心許(こころもと)ない。

 けれども、最近、というか、半年以上前の去年、こんな事があった。

 私が、日蓮正宗の、勤行唱題に励んでいた時、つがいの、雌雄ペア、多分、親子ではないとは思うのだが、この鳩の二羽が、私が唱題で盛り上がっている時に、アルミサッシの戸を境に、お題目を唱える私の身辺そばまで、その鳩たちが、家の境まで向かって近づいてきたのだ、正に。

 この時ほど、鳥ですら、鳩ですら、法華経、妙法蓮華経を求めているんだ、との深い念慮を懐いた事など、なかった。その時の、鳥と言えども、それら鳩たちが、可愛らしい、なかなかやるな、と思えた事はなかった。
  
 鳩も、仏法、法華経を求めている。畜生界の、あの鳩が…。ほとんど、それらが起こった事実を鑑みて、何故か、キリスト教の、カトリックの、フランシスコ(確か)を思い出した。

 たしか、フランシスコだとは思うんだが、彼が、キリストの説法を垂れると、身辺に、鳥たちが沢山寄って来た、という。そういった伝承が、キリスト教カトリックにはある。

 私が今、真剣に信仰している、世界に冠たる日蓮正宗でも、おんなじ様な事が起こった。

 これは、鳩だけではない。スズメや、小さな野鳥なども、私がお経を唱えていると、必ずと言って良い程、小鳥が盛んに声をさえずったり、私のお経を聞きつけて、私のもとに、小鳥が近づいてくる。元々、人間の、お経やお題目の唱える声と、小鳥などの、さえずりの声が、相性が良いのだ。鳥たちは、私のお経の声に、全然、驚かない。お鈴(りん)の音さえ、鳥たちには心地よいようだ。

 これら、森羅万象の、大自然の冥利、摂理、妙法の大自然との相性を考えてみると、鳥は言うまでもなく、昆虫類の、意思疎通の叶わない、動物、というか、生き物たちまでも、大自然との共存共栄も可能なのではないのか、との感覚に捉われた、今日の一日である。誠に、大仏法仏教とは、大自然と一体、大自然と合一した存在なのだと、その不思議な妙法の功徳力を、かーるく、思わせられた。

 畜生界ですら、こちらに合わせて感応する。それならば、天界の、朝の初座で最初にお経をあげる時の、天の神々や、それこそ、二乗や、菩薩界、仏界などが涌現したとしたら、これは、大変な事になる。信仰者にとっては、そういった小さな事共が、うれしいのである。それら福徳を満たす為、その素地を養う為にこそ、一仏乗の御教えをかしらに頂き、日頃から自分を磨いてゆきたい。

※編集後記 
 我がお寺では、最近、鳥のカルガモ親子が住み着き、皆で見守っていた。先日来、お寺からは居なくなったので、巣立ったものと思われる。昔、と言っても、私が入信した年まで、お寺では愛犬のコロという、血統書の、何て種類だか忘れたが、亡くなってしまったが、とにかく、犬がいた。
 うちのお寺でも、動物愛護の精神に満ち満ちている。
 動物は何と言っても、かわいい。どんな動物でも、それなりに、愛嬌がある。動物を、これからも慈悲の精神で、慈しんでゆきたい。

以上。よしなに。wainai

愛人の道具にされた、我が家のペット

2023年05月08日 17時12分37秒 | ペット、犬、猫、鳥、動物、生き物・自然界・畜生界のもの共他
 私のうちでは、父が生きていた頃、主に、小鳥屋、ペット屋さんをやっていた。
 今ではもう流石にそういった人はいなくなったが、新聞屋で、うちで「ミルワーム」という、小鳥に与えるぎょう虫のような、虫を買った買ったと騒いで、だから新聞取れ、とさわぐ人がよくうちには客としても、新聞売りにも、来ていた。
 母に言わせると、一番迷惑な客で、そういった類の客は、一箱、百円程度で、ぜんぜんうちには商売の儲けにはならずに、それを、釣り道具屋よりもうちのほうが、安く売っていたので、狙ってそれら釣り人達がうちに来て買っていた。うちは、原価ギリギリで売っており、儲けにもならなかった代物だった。
 どうせなら、うちで売っている、小鳥や、鳩、九官鳥、ニワトリなどを買ってもらいたい位なのに、そんな安い品物しか買わずに、その我が家が商売をやめた後で母が強調して言っていたのが、そいつら新聞屋が、後出しじゃんけんの如くに、そんな商取引があるかと、母なりに言い分があった。
 だから、そうした事を一度でも言った新聞屋からは二度とはうちでは新聞はとらなかった。

 それから話は変わるが、うちで、ある男性が、二、三匹、カゴ毎、ハムスターを、買って行った男の人がいた。これが、非常に、その人には失礼だが、笑えてしまう。
 その人は結婚していて、その、男の人には、不倫相手がいた。
 そうして、その男の人は、少しペット好きで、我が家にもよく、来ていたのは、周知の事実だった。
 その男性の妻の女の人は、ある日、その女の不倫相手と、その旦那が相手の家の、同じ屋根の下で一緒の所を見てしまう、惨劇を味わう。
 その傍らには、うちで買ったと判った、ハムスターが、クルクル回る車輪のような、ハムスターのおもちゃの道具と共に、そのかごに回って、ハムスターがいたのを、決定的瞬間を、そのご婦人は、見てしまった。
 そのご婦人が、我が家に来て、その話を、報告がてら、涙ながらに、悔しそうに、母に喋っていった。あなたの店のペットだったのよ、と。
 その旦那さんは、よくうちでペットを買いに来ていたので、バレてしまった。
 後年、母は、思い出したように、その事を、私に話していた。そういう、面白いと言うか、ペット屋をやるというのも、大変なんだなあ、と私個人は、思っていたその頃でありました。

 以上。よしなに。wainai

"愛犬の思い出を教えてください"我が家の犬、ラッキー

2019年05月23日 18時05分43秒 | ペット、犬、猫、鳥、動物、生き物・自然界・畜生界のもの共他
 我が家にかつて、シェルティー犬の雌犬ラッキーがいた。
 ラッキーは、私が気が滅入っている時は悲しそうに近づき慰め、大喜びしている時は一緒になって大喜びする、悲しみを半分にし、喜びを二倍にもする、そんな犬だった。
 私がウツっぽく、頼りなく「ラッキー」と呼ぶと、遠くからでも必ず私の傍に近寄り、私に体を預ける。ラッキーの毛並みをなで、頭をなでると、何となく気が晴れ、勇気が湧いた。ドッグセラピーを知らず知らずの内にラッキーは私に教えていた。
 ラッキーは外の人には臆病なのか正義感が溢れていたのか、徹底して吠えた。うちの家族だけにしか自分の愛情を示さない。ちょっと偏屈だが、家族はラッキーの信頼に応えるように接し続けた。
 シェルティー犬は短命だと聞いたが、うちの犬も十数年で亡くなった。ラッキーが召された夜、その日一日の苦労を家族とねぎらい合った。
 ラッキーは我が家に来て本当に幸せだったのか、と時々仕方ない事を考える。あれだけ私達になついていたんだから、幸せだったのかも、と最近は思う。あの犬をもっと幸せにしてあげたかったとも思う。
 最近、ラッキーの夢を見た。ラッキーがいつものように私の足元で眠り、犬の重さで私の足がつる夢だ。その時は、ラッキー、また逢えたね、と思わず声を掛けたかった。そしてラッキーは夢もろとも去って行った。
 ラッキーちゃん、ありがとう。

自分の中の、言わば、浄土真宗の傾向性

2018年05月09日 15時08分07秒 | ペット、犬、猫、鳥、動物、生き物・自然界・畜生界のもの共他
私のおばあちゃんの実家が浄土真宗で、おばあちゃんは日蓮正宗創価学会だった。
 その家系なので、当然、私も浄土真宗の罪障が横たわる。
 私の幼い頃、虫を良く殺した。中でも、足を無くしたりした身体障碍のカブトムシを見るのが無惨で痛々しく嫌で、私はわざと命を奪ったりした(正確には、その虫を外に捨てて来た)。酷い無慈悲の、人の風上にも置けぬ私である。
 一生懸命に生きている虫。そのもがくように苦しむ姿が苦々しく、ちょうど浄土真宗の傾向性が日蓮正宗の樋田昌志さんのホームページの片隅に、各宗派の傾向性のページがあるが、そこの浄土真宗のところには、衝動的破滅的な行動に走りやすい、何事にも悲観的、といった項目が列挙されていた。
 私も御多分に漏れず、これらの項目にピタリと符合する。うちにはラッキーと言うシェルティー犬がいた。
 私は犬の彼女が死の間際、苦しむ姿を見たくないばかりに、お風呂場の仕切りに犬を隠し、苦しむ声も姿も見えないようにした。
 しかし、母は一人、それではラッキーが可哀想だと、犬を人の面前に連れ出し、皆に見えるように犬を置いた。
 ラッキーも安心したのか、苦しいが、そんなに前よりも痛がっている風には見えなくなった。
 その日、ラッキーは家族に見守られ、眠るように亡くなった。母も私も、悲しむよりも、その日一日をいたわり合った。
 私は、実に無慈悲な人間だと思う。これらの一件を思い出す度に、そう思う。それを、一概に邪宗教のせいばかりにしてもいけないが、ピタリと当たるそれら教えに、日蓮正宗の正統、真の確実なみ教えに、戦慄と共に、安心安堵の大確信を抱くのである。