小さな頃の私は、信心などどこ吹く風、不信心な子供だった。
母と一緒に、あれは多分川崎市にいた頃の日蓮正宗創価学会時代の座談会。会場宅の家の前には提灯が下がっていた。
子供の私は、子供同士で騒ぎに騒ぎ、余りお祈りしたり中心者の話を聞いたりはしなかった。
私は最後にどこかのおばあさんに話しかけられ、「そんなにつまらないかねえ。もう少し大きくならないと分からないかねえ。」と言われ、私は少しも悪いとは思わなかった。
その後、小学校を転校し、福島に来るが、暫くは私のわんぱくも続いたが、何か人生の妙というか、小学四年の頃には大分落ち着いてきた。担任の先生が「〇〇(私の名前)は本当に大人しくなった」と言って、私が両手を膝に置き、黙って先生の話に耳を傾けているのを見て、そう言った。
福島での教育は、私の乱暴乱雑な性格を直すのに役立った。先生方は、生徒一人一人を実際に見て、育てていた。福島の豊かな自然も、私のような騒がしい性分の生徒を、まるごと包み込み、豊饒な精神へと育て上げた。
私は社会科や国語科、理科が得意だった。特に社会や国語は、人の話を聞く訓練になり、為になる話が多く、道徳教育に近いものがあった。
高校では、倫理の時間が丁度宗教がらみの時間であり、これがその後の私の宗教選択の意味で決定づけた。
今は日蓮正宗の末寺で一時間以上読経唱題含めても人のお話を聞くのが苦にはならない性分となった。性格も年々、丸くなり、心も広くなったと感じる。
子供時代は大変手を焼く子供でも、周りの大人、自然環境、時間が解決する。
樋田さんの動画で、最初は何も分からなくてもいい、とにかく御宝前(お仏壇)の前に座る事!そのうちに意味が分かってくる、の意味が甚深と染み渡る。
それもこれも、「山川草木悉有仏性」と、皆、どんなものでも仏性を持っているという仏教の御教えに心を預けて安心立命を頂いているお陰である。