日顕御隠尊上人猊下様が御遷化された。私は、創価学会問題が起こった平成二年以降、日顕上人を学会が非難し、悪口罵詈の罵倒の最中に際して、果たして日蓮正宗宗門と、創価学会、どちらが正しいのだろうと只悩んでいた。平成二十九年の私と母の勧誡式を受けた正宗復帰までは、ネット等で芸者写真は偽造、数々の訴訟判決の学会勝利と言うのもウソだと知ったが、創価が大御本尊の否定に走るまでは本当に様子見であった。
大御本尊否定のニュースも、平成二十九年の前後に知り、そのニュースは、数年前に聖教紙上に載っていたのを全く知らなかった愚かな私である。
学会に染まった新聞・書籍等のメディアから離れ、日蓮正宗関係の動画、ブログ、書籍等を知れば知る程目からウロコで、違った地平、新しい感慨が生まれた。日顕上人様を創価は一方的に悪者に仕立てていたが、実際は全く違った。
ボタンの掛け違い、悪意に満ちた創価のプロパガンダの威力は絶大であった。後に私は、むしろ日蓮正宗、日顕上人は何の罪もなく、被害者だと判った。
この段に来て、創価と日蓮正宗宗門がまた和解の芽があるのでは、という向きもあるが、これは御法主猊下様がお決めになる事でうかつに云々できないが、まあ、七割八割の確率で、和解はあり得ないという感慨がある。
その事は、いつも私の脳裏をかすめていた。
まず、現創価には、宗門御僧侶方に対する御尊敬の念が失われている。僧侶を余りに馬鹿にし、連日聖教紙上に宗門の文句を書き続けた創価である。これが大きく、百年河清を俟った所で、途方もなく元の昭和の創価に戻すには労力がかかり過ぎる。
その他、創価は伝統宗教の宗門の元から去って行ったら、お金は自由に使えるし、宗門の指導は受けずに済むし、元々宗門が目の上のたんこぶの存在として捉えていた節がある。今がジリ貧の新興宗教団体の創価も、以前の方が良かったと思えば良いが、そういう世論も余りない。常に高飛車である。
創価学会が日蓮正宗と和解する事は百パーセントあり得ない訳じゃないが、その可能性は余りに少ないと思う。
トップ同士の話し合いで決まれば末端まですぐ行き渡るだろうが、創価が池田大作の変節後の指導に矛盾するといって、分裂を恐れて何も言わないだろう。
何より創価が現代の御書という新旧人間革命等々を大幅に書き換えなくてはならない。今も旧人間革命を日蓮正宗賛美の部分を大幅に削り、改ざんし、それは池田大作全集にも及び、聖教新聞の退職者を雇って全集の改ざんをして来たのにそれも無駄になる。創価幹部にとっては今が一番心地よいのだ。
誰も好き好んで、敵だと思っていた日蓮正宗宗門の指導を又仰ぎ直す等、愚の骨頂と思い込んでいる幹部達に聞く耳は持っていない。
宗門の僧俗一同も学会を信用してはいない。どう転んでも、和解はあり得ない。
それだけこの創価、宗門にとっての三十年は長すぎたのである。
創価が、血の滲むような壮絶な反省懺悔改悛の気持ちをいだいて謝って来たとしても、もう、遅い。そんな事もあり得ない位、創価の反宗門のイデオロギー、洗脳は完成している。創価の誰も彼もが宗門との一致・和解を目指すなら、何らかの代償を払い、現在の傲慢と偏見に満ちた教義を改め、一から出直すしかあるまい。