ユーチューブで、樋田昌志さんの顕正会との対論を拝見していた。双方、淡々と進んでいき、最後になり、樋田さんが、ある意味、創価はこすいが顕正会の皆さんは礼儀正しく、立派で真面目な方が多い、と語っていて、最後は双方笑いに包まれ、散会となった。
樋田さんの仰る、創価はこすい、つまりわるがしこい、ずるいが、顕正会の方々は真面目、というイメージは、私も創価出身で残念だが、認めざるを得ない。
創価学会は、日蓮正宗の大御本尊を否定し、公式に受持の対象としない、と宣言した。それ以前にも、池田大作名誉会長が「大御本尊?あんなのはただの物だ。」等の謗法スピーチを数々ぶち上げ、物議を醸した。
対する顕正会は、浅井昭衛会長の信者集めの当たらぬ予言のスピーチは考えものだが、遥拝勤行と言って、顕正会の会員たちは今もって、静岡県は富士大石寺に向かって、大石寺の方角を向いて必ず勤行をしている。彼らの大御本尊への恋慕の気持ちは、痛い程良く分かる。彼らも考え方を代えて、日蓮正宗に帰伏すれば、必ずや大御本尊を直に拝謁出来、しかも一座のでなく、五座三座の勤行スタイルで、本物の祈り、勤行が出来るのだが。
これだけ、異流義と言えども、創価学会と顕正会では、本尊観が180度違う訳だから、その差が、真面目さ不真面目さ、一生懸命かいい加減か、創価はずるく、わるがしこく、こすい、となる訳だ。
私は日蓮正宗における、創価学会出身者として創価がずるいと言われて、我が事ながら、自分自身、恥ずかしいと思う。確かに、創価学会の人は、中には、ゴロツキのような口汚く罵るような輩が多かったり、貧相で、不真面目な感じの人が多かったり、余りいいイメージはない。私もその中にいたのかと思うと、恥じ入るばかりだ。
もっと、私も創価じゃなく、顕正会出身だったらと、考えるだけでも仕方ないが、もう少し、言葉を選んで語り、物を考え、もっと慎重な、軽はずみじゃない、少しはましだったんじゃないかとも思う。顕正会が100%正しいとは言わないし思わないが。
私のお寺で顕正会の話題が出ると、顕正会を馬鹿にする人もいるが、あれだけ一生懸命、一途に大御本尊様に憧れ恋慕する姿を垣間見て、むしろ半分尊敬の念をもって見ている人もいる。顕正会の人で、今、日蓮正宗に入れば、その真面目さ故に、役職等で重んじられるかも知れない。
大御本尊への姿勢如何によって、顕正会と創価学会はこれだけ差がついてしまった。創価は信心で、地獄界まで地に落ちてしまった。どうやら創価は、賞味期限切れ、終わった宗教なのかも知れない。それで創価の人達は、安心が果たして得られ、納得して、いいと自身、言い切れるのだろうか?私は疑問に思う。私は、そんな創価のような宗教は嫌だし、もうごめんだ。
ハッキリ言って創価学会は、名前だけの、中身の無いギョウザだと思う。