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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

日蓮正宗総本山富士大石寺・講習会へ、参詣・学習

2024年07月01日 14時57分00秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 関東平野の平らな地平が、高速道路から見て取れる。
 日蓮正宗総本山富士大石寺の講習会へ、深夜二時五十分出発で、六月三十日の月末に、マイクロバスで静岡県富士宮市へと長距離移動、長時間かかって、行って参りました。
 羽生SAでは、トイレ休憩。
 やがて富士山が見えるも、この日は曇りがち、雨模様で、富士の姿は恥ずかし気な感じ。
 そして、総本山富士大石寺へ。
客殿等の建物群。
 大講堂で講習会が開催された。
きれいなあじさいが咲いていた。これには心動かされた。
古木も点在する。
 御影堂が赤い彩色で見えた。
この脇を行けば、大御本尊まします、奉安堂へ。
御開扉後の、三々五々の、参拝後のしみじみとした感慨が残る。
また、御影堂へ。
滝の勢い良い水の流れ。
帰りも富士はかすかに霞んで全体が見えず。
帰りのマイクロバスのちょっとしたトラブル。エンジンオイル?が足りないという。二件目のガソリンスタンドで補充。目的の製品を探しに富士吉田市内を縦横にガソリンスタンド店を駆け巡った。
我が家に無事帰って来た。夜九時は確実に過ぎていた。
私は大日蓮出版にて、「日めくり御書要文」「日蓮大聖人御書辞苑、日本編」「詩歌をたずねて」この詩歌をたずねて、は、大聖人様以下の、代々の御法主上人猊下様のお書き遊ばされた、和歌、短歌の作品が載せられていて、私は短歌・和歌を志す関係から、心から欲して買い求めた。
日めくり御書要文も、いい言葉ばかりが載っていて、これらは正に買い、であった。
これら書物だけで、買い物が五千円を突破してしまった。しかし、これも必要経費、勉学には必須のアイテム、努力の結晶、読書の友ともなるものだから、大切に読ませてもらおう。
以上。よしなに。wainai

中大法卒の弁護士だった祖父にしてみれば東大生は使い物にならないなあとの感想を母の思い出の言葉から取り上げた!幸せのさなかの日蓮正宗の御事!

2024年06月27日 14時23分38秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 私の祖父は、私立の中央大学法学部を卒業後、国家資格の司法試験に受かり弁護士で警察官僚まで勤めた。昔は中央大学法学部の方が、今の東大京大早大慶大等々よりも、断トツで司法試験の合格者数ではそれらをはるかに上回っていたのだ。法学の中央、と。

 そして、私は祖父には、祖父は私が生まれる前には亡くなっていたので、私にはその祖父の様子、行状は知り得ないが、母から聞いていた事が幾つかあった。

 それは、こうだ。

 祖父一家、詰まりは、母の父親は、貸家住まいであった事は先のなおともさんから頂いた転載の私のコメント記事からも書いてあったが、母によると、その部屋数は多かったようだ。

 何といっても、女中さんが何人もいた位だから。その貸家は、東京新宿早稲田にあった。当時祖父や母の一家の住まいは、早稲田大学安部球場の裏手にあった。

 女中さん達は、一応その頃は、料理を作ってくれて、子供時代の母の遊び相手、面倒を見てくれた。母と同じ女性同士でもあり、年齢も、十代後半から二十代位で、中には福島県の矢吹町だか、鏡石町からも来ていた女中さんもいたと母からは聞いている。

 そして、弁護士見習いや、弁護士を目指した、書生さんまで家にはいた。その中で、東京大学、東大生の書生もいたのである。

 しかし、祖父に言わせると、母から聞いたのだが、どうしても、頭が良すぎるせいなのか、何なのか、当たり前の事、誰が考えても分かる事が全く出来ない、というのだ。

 全く使い物にならない、と祖父が匙を投げる場面もあったとか。それでいて鈍感な感じで、プライドばかりは異常に非常に高過ぎる。頭が高すぎる。これでは使いづらくて、使い物にもならないのも、何とはなしにうなずける気がする。まるで鈍牛みたいだったと。

 母も言っていたのは、現在はどうか知らないが、東大生の、二人に一人は受験ノイローゼの後遺症で、大学生活で、悩みの最中に居る人も多いという事だ。今、幸せそうな身分に見えていても、そこには他人がうかがい知れない、世界観があるのかも知れない。

 とにかく、東大生は、中大法卒の、祖父にしてみれば、使いづらい学生達、書生であった。これが事実である。今はどうかは知らない。しかし、そんなにどんなに時代が変わっても、それぞれの大学、学校の学風が変わらないように、大して変わりはないのではないのか。

 頭が良すぎる、というのも善し悪しである。最高に学問が出来る、という事は、その他の別の面では、人よりもどうしても劣っている面、能力、特性がある、という事だ。万能な人などいない。皆、欠点を抱えた人間なのだから。

 成績ばかりが異様にトップクラスだった人でも、人の中でも性格が大変偏り、性格が悪くて、意地悪だったり、ずっと人生独りぼっち、誰も友達、友人がいなかった、と言った東大生など、ザラだろう。そんな人など、別に珍しくもない。

 しかし、人を押しのけて、人よりももっともっとと、欲深く、貪欲過ぎて、要領ばかりを考えたり、自分が自分が、であって、決して他人に慈愛の手など差し伸べない人間、人種などには、幾ら東大であっても、私はなりたくはない。

 そんな詰まらぬ東京大学四年間を過ごすならば、仮にたとえ三流大学であっても、心が優しい自分であったならば、人にその優しさで尽くせる自分であったならば、それだけで私は十分満足するであろう。東大ブランドなど、私には不要無用、要らないのだ。

 いや、別に、今の自分は、高校卒で充分満足しているが、現在の大学中退であっても、否、たとえとして仮定して、あの時、中学しか出ていなかったとしても、それなりの人生を自分は歩める自信がある。それは、大卒者には敵わない、と言わしめるだけの可能性を秘めたものとも言える。

 しかしその可能性は、その時期その時期で、多様性を持っているとさえ言える。

 私にしか歩めない、私しか出来得ない、人様が真似できないユニークな芸当と言うものが、私には確実にある。これは「秘すれば花」であるので、ここでは言わない事にする。一切、秘密だ。

 果たして「秘する」程の芸当が自分にはあるのか、本当に…。何か自信がなくなって来た。

 だから、私は「秘するもの」が「有る事」にしたい。嘘のまことで、あれば、あると思えば、きっとあるんだ、必ずに。絶対に。

 これから、事を作ってゆくのだ。私はいまだ、「発展途上人」なのである。

 実際、世の中はそんな風に、優しい人の下には、人々の関心を集めて、沢山の人達が多く集まって来る。世の中はそういう風に出来上がっている。

 「自分が自分がー」という、エゴイスト、ナルシシストには、友がいない。永遠に、エゴイズム、ナルシシズムを自分で気づいて改めない限り、心の許せる友人など、絶対に未来永劫、出来やしない。そこに気付くべき。

 私は、幸い、今の福島県郡山市土瓜での、日蓮正宗無量山寿海寺においては、年齢、男女の差を超えて、交友関係には恵まれており、皆さんには大変に大事に可愛がられていて、親しい尊敬する信徒の方々が数多く存している。これは実に嬉しく幸福な事だ。この大海の中に居て、私は幸せ感、満足感を覚える。

 非常にお寺にも日蓮正宗という宗団にも、お寺の御住職様、奥様、講頭さんはじめ幹部の皆様、老若男女、善男善女の、講中の皆様には、感謝をし尽くしても、し過ぎるという事など決してない。

 だから、折伏をこの地域でも必ずにして、この幸福感を、私の信ずる日蓮正宗に今はいない、多くの創価、顕正会、キリスト教、新興宗教、伝統宗教にしても、邪宗邪教の方々にも、その幸せの一端を深く味わって欲しいと心から念願して思い願っているのだ。

 であるからして、我々、日蓮正宗法華講員は、身軽法重、不自惜身命を心から追及してゆくのであり、日夜、折伏行の為の勉強にも実践にも励んでいるのである。これは、実に尊い最高度のエラい仏道修行の方法、方途なのである。

 これで話は完全に脱線してしまった。要するに私が一番に言いたかった事は、優等生の、頭でっかちでは、全く使い物にならず、ダメである、ということ。

 多少の人生の荒波を経験しないといけない事。順風満帆ばかりが人生ではない。不撓不屈の精神をもって困難や人生に立ち向かう事。

 その唯一の解決法が大日本国東海地方の静岡県富士宮市にある、日蓮正宗多宝富士大日蓮華山総本山富士大石寺にある法本尊の大御本尊様。人本尊の御本仏宗祖日蓮大聖人様の一仏乗の大切な御教え。この両者が相まって、人法一箇となる。

 大仏教仏法哲学・高等宗教・極度に極まり切った御教えこそが唯一つ、日蓮正宗のみである事。それが私の一番に言いたい事の全てである。

以上。よしなに。wainai、長文失礼。

私の折伏姿勢への反省点

2024年06月01日 13時45分43秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 私は、自身が、他の信仰をしている方に、相手の人格を否定した折伏をしていなかったかと、非常に怖れる。
 それは、日蓮正宗第六十八世日如御法主上人猊下様が、常々仰られるお言葉に「折伏はケンカではない。ましてや、相手の人格をけちょんけちょんに、否定しまくる。ここにはそんな人はいないとは思うが…。(趣意)」との発言からも分かる通り、私達の「折伏」はケンカではない。ましてや、争い事などでもないはずだ。それに、相手の人格までも、否定してはならない、とある。
 これは、非常に私など普段から奔放に折伏と称して、語っているものには、胸にも耳にも痛い。私は常に自身に問いかける。私の折伏は、御法主上人猊下様の御意思に常に叶った折伏行であるのかと。
 ここなんです。今、大事な点、事は。心からの折伏とは、常に相手の事を思いやり、相手の立場に立ち、相手の悩みをも時には聞き、慈悲でものを語る。決して自身の知識をひけらかしたり、慢心を起こしたり、相手を強く責め立ててはならないのだ。
 福島県会津地方の、「ならぬものはならぬ」なのである。やってはいけないと猊下様が仰られた事は、「代々の法主、これ、日蓮なり」で、猊下様の言う事を聞かないと、日蓮大聖人様が悲しむ。
 とにかく、一にも二にも、相手の意見をまず聞き、吟味して、それから、こちらの話をゆっくりと語る。それには、私ももう少し、仏道修行が必要なようだ。
以上。よしなに。wainai

昭和の頃の、郡山市の小学校鼓笛隊パレードの不開催を祈る=二回とも願望が叶ったかの如くの不思議な想い出

2024年05月15日 18時14分55秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 私は、小学校何年生で有ったろうか。その時、平常の授業をつぶしてまで、我等学年は、一日に数時間、その時に集中して、鼓笛隊パレードの練習をしていた。
 そうして、私は当時、歩く時に、楽器を、笛を提げて歩くのだが、今の颯爽とした歩き方と違って、「なんば歩き」というのか、手と足が一緒に出てしまう事があった。多分、緊張感から、そんな風に振舞ってしまったのであろう。
 それで、これも同じ学年の、今から思えば、小物男というか、その後そいつが、高校では、大した高校へも進学も出来ない程の、私との学力差を私につけられた程の、男子が、私を「手と足一緒、手と足一緒」と言って、今考えると逆の立場で、バカにするのである。
 或る女性教師からも、貴方の歩き方にはクセがある、と難癖をそれこそつけられてしまい、私の父親が後天的な交通事故による身障者であり、足を引きずって、つえをついて歩く姿が、学校付近で父の姿が見かけられた事等を私自身、まず考えた。これは、私、及び、私たち一家に対する差別だとも内心、思った。勿論、私達家族の、血の結束力による、私独自の妄想もあった事だろう。
 余計引け目を感じてしまい、私は顔を真っ赤にして、その恥を忍んだ。その時に、こんな地獄のような毎日を過ごさせられて、本当に、この、郡山市が主催する、市立小学校の「鼓笛隊パレード」が、何としてでも、絶対、是非とも、中止される事を、この時程、その当時は漠然とだったが、やがて、開始の前日などは、自身で何者かに祈る程の、入念な御祈念を捧げつつ、パレード非開催を盛大に祈った。
 当時当日は、テレビ局のカメラも来るという事で、私の心臓は悪く高鳴り、この断末魔、その時、もしも、私がその悪辣悪坊主の、その悪童にいじめられている図が、そのテレビカメラに納まる姿、を想像するだけで、おぞましく虫唾が走った。
 その為に、全身全霊を捧げて、何者かに祈った。それが、今現在ならば、当然、日蓮正宗の御仏前御宝前の御仏壇の御本尊様への祈りともなろう。
 それが、対象物がないものであるし、その唱える言葉も知らず教えられずであり、とにかく、必死で何かに対して祈った。

 その当日。テレビチャンネルにて、その開催が、出来るか中止かが、そのテレビの時間帯に報じられる、というので、私は注目して見た。
 すると、その日はたしか日曜日であったか、「中止」と出た。天気が雨であり、中止なのであった。私は何故か、自身の祈りの御蔭とは、その時ですら、慢心と言う言葉は知らなかったものの、まさかとは思ったが、自分の祈りの御蔭とは微塵も思わず、ただ良かったとの、何故か安堵したのを覚えている。
 その日は、学校にも勿論行かずに済み、家でのんびりした一日だった。
 その一週間後か二週間後か、また、鼓笛パレードの日が巡って来た。
 私は例により、また、不純な祈りとは思わなかったが、不開催を祈った。私の命、魂が掛かっているのだから、これは許される。何者かに、またまた、今度も今生の限りに、祈りに祈った。
 そうして、疲れてしまい、その日は眠ってしまった。

 その後、朝を迎えて、同じく、テレビを見てみた。すると、何と、またまた、今度も「鼓笛隊パレードは中止」と出た。
 又もや、外を見ると、私を応援するかのような、雨模様であった。
 市のパレードの決まりでは、二回中止となった場合は、お流れ、永久に中止、開催はされないとなっていた。
 確か、この時のように、パレードが二度も中止となった時は、私達の年が初めてであったと聞いた気がする。

 私にとっては、この時、音楽どうこうよりも、集中的に音楽を叩きこまれたのは自身の血肉になってはいたが、むしろ、今回は、救われる出来事であったし、私の親にはこの時は、一切この事は言わなかったが後年、この時の事を母には言った。母は母なりに、私の言う事を、そう、そんな事があったの、程度であったが、そんな事もあるんだとは、母は思った事であろう。
 何事も、祈りとして叶わざるなし、である。まさに。祈りは叶うと信じても良いとこの時は私は一人、思った。
 だからその後の、信仰、宗教の選別には、自他共に、集中力を要して、多年を掛けて調べ上げて、今の日蓮正宗の信仰信心がある。とはいっても、私も御多分に漏れず、宗教二世、三世の立場ではあるが。そうして、法統相続は、私までは、今の今までは実に上手くいっている。
 この時の中止の事を、私共のクラスメート他が、卒業文集等に、非常に残念だったとの言葉を、その文集に載せているのを見て、私なりに、非常なる畏れというか、あの時の事を時折思い出している。
 私は、あの時の自分が神懸かりとは、露ぞ思わない。いまだに私の祈りのせい、御蔭かも怪しい。そんな力は私にはないに決まっている。しかし、人間が真剣に祈れば、天地万物、自然の天候さえも応え得るものだとの、大自然、否、仏界の仏様の世界の如くの、第六番目の天界でもまだ足りない、そんな因果の理法に基づいた、仏教仏法的な世界が薄っすらあるのかも知れないとの念慮がした、それを思い知った、小学生の時の時であった。

 また、思い上がってもいけない、とも、そうした畏れの念慮も勿論私の中で持ち上がる。この考えは増上慢ではないのかと。だから、母以外には、誰一人にも、この当時の事は話した事は無かった。だから、これを読んだ皆様には、一笑に付して、笑って聞き流して欲しいとも、私のこれはもう一つの願いなのである。
以上。よしなに。wainai

ユーチューブ、コメント欄解放、一か月経つか経たないかで、この有り様

2024年04月05日 13時06分34秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 私は、基本的に、特に今年からは「平和主義者」を標榜して、生きてゆきたいのです。けれども、ユーチューブを、それまでは、コメント欄を開放していたら、悪口罵詈、罵詈雑言、それら、汚い言葉で声掛けをされるものですから、私は一時的に、コメント欄を閉じたのでした。
 この一か月位で、私は又、コメント欄を開放しました。
 視聴者からの御意見を賜りたかったからです。
 しかし、それも、仲良しこよしの、いい意見ばかりが来ると思った私がバカでした。そんなに、ムシが良く、都合が良い話ばかり、世の中にはないのでしょうね。
 それらの事が、今回も再現されてしまいました。
 しかし、今回ばかりは、私はそれらには、決して屈せず負けません。それは、宗祖日蓮大聖人様が仰られている通り、刀杖瓦石、幾ら罵倒されたとしても、ここ、ユーチューブのコメント欄に私が書いた如くに、迫害されればされる程、それらは私の「罪障消滅」になり、「還著於本人」(げんじゃくおほんにん)で、全てはその言い出した本人へと戻り、還ってゆく、ブーメランの如くに。
 とにかく、こんな事で負けられません。私が命を掛けてでも、例え、コメント欄が炎上しても、何とか持ち応えて、頑張る所存でございます。
以上。よしなに。wainai

コメント


@junichishimizu4311
5 日前

通りすがりに見てしまいました。普通におかしな宗教に騙されていると思います、おかしな宗教のおかしな本を読んで、おかしな考えを植え付けていると悟って、早くお辞めになることをオススメ致します。ピアノの上手な人は自分が世界で唯一絶対一番ピアノが上手だとは言いません、これだけが正しいやり方なんだとは言いません、ただ、無心で弾くだけです。


返信


@wainai12375 46 分前(編集済み)

果たしてそうでしょうか?!
一見すると、あなたの述べておられる事は、正論に聞こえます。
しかし、 
私は自身の信ずる宗教に、絶対の自信があるから、世界一の正当な価値のある本物の宗教だといえるのです。
初めから、宗教と言うものを軽く見てはいやしませんか?あなたの中で。
例えば、車を売るトップセールスマンが、自身の製品の車に、その自社の性能に、最大限の自信がなかったら、果たして、人々、特にお客様に対して、その車を販売して売る事が出来るでしょうか?
自信が無くて過失があるのを隠して売っていたとすれば、それは詐欺ともいえないでしょうか。例えば、欠陥品を売る時の、詐欺師のようなものです。
我が宗教の日蓮正宗には「五重の相対」と言って、宗教の浅深高低に対して、明確な判断基準があるのです。その中でも、全部で五つの内の、第一番目の「内外相対」といって、釈尊が説いた仏教以外の教えは皆、神様信仰も含めて、皆「外道」です。仏教のみが「内道」であり、内道の仏教を優、勝れた教えと判別します。
それ以外の判釈は略しますが、日蓮正宗の御教えほど、立派に整った、極めて理路整然とした、そうして実践的な宗教は、しかも、現実的に力のある宗教は、この宗教以外、どこにもない。
この宗教、仏教の中でも、「日蓮正宗」の教えは、極めて科学的にも誤り間違いがなく、矛盾はない宗教ですよ。
それを、貴方の異見は、為にする意見であり、最初から、決めつけているだけです。
疑いを持った目で見ているから、そうした、ひねくれた根性しか持てないのです。重箱の隅をつつく、あら捜しをした目付きで、世の中を見ている。
まるで、私共、日蓮正宗信徒が、あなたの言い分だと、詐欺師に騙されている如くに、貴方の扱いでは、狭い視野から見れば、そうなるのでしょうかね。
久々に、貴方のような、日蓮正宗に真っ向から敵対視する人を見かけて、これはほっとけないと思い、思わずキーを叩いている次第です。 
私共の、日蓮正宗という宗教宗派は、貴方が思う程、ドグマに汚染されていたり、科学的に間違っていたり、極端な教条主義の宗教じゃありませんよ。
これは、私の今までの、この、七、八年間の、日蓮正宗に帰伏してからの、経験体験から、身をもって自信を持って言える事です。
とにかく、日蓮正宗に対する、そうした貴方の偏見を捨てて下さい。それが出来なくとも、「毒鼓の縁」として、貴方はこの教えを今生において聞いて触れた以上、来世、後世において、この教えと縁を結んでいるのです。来世では、貴方は必ずやこの教えを信ずるようになる。たとえ、今生でそれが叶わないとしても。
そこが、信ずる者しか救わない、偏狭なキリスト教を代表とする一神教や新興宗教、爾前権教の伝統仏教、との差異であります。
日蓮正宗、大聖人様の仏法は、遍く、広く、全民衆を救い上げる魅力ある宗教宗派です。
これは、宗祖日蓮大聖人様が御書を通して仰られた事であり、私も真実と信じます。 この教えを、舐めて軽しめてはいけません。
今はそうして、判断が狂っていても、やがて正気に戻る時が来ます。
現世でか来世でか、それは分かりません。
もしかしたら、上は仏界から、下は地獄界の、十界の中でも、人界以外の世界に貴方が生まれて来る可能性すらありますね。
それ程、人界へ生まれて来ることは稀であり、前世で余程の善行を積んだ証なのです。人界に運よく又生まれ合わせた、正にその時に、話しはそれからです。
貴方には、今現在は判らない、批判して、疑っていたとして思っていても、三世永遠の生命の大聖人様の仏法からは、自行化他、広宣流布は確実に世界へと広がってゆく、「大地を的とするなるべし」(御書)の、三証の、文証・理証・現証の中でも、特に「現証」として、人々を救済し得るこの世の「大法」なのが初めから判り切った事なのであります!
余り、意地悪く、私の信ずる御教えを、捉えないで下さい。私は今回の貴方の言説に、少しだけ、傷つきました。
悪しざまに、我が宗を非難するのは、止めにして下さい。
しかし、大聖人門下として、全く怖れは為してはおりませんよ。
それら、迫害、悪口罵詈、罵詈雑言の類は、日蓮正宗では、受ければ受ける程、私自身の「罪障消滅」につながり、全ては、その言った本人に戻ってゆく「還著於本人」(げんじゃくおほんにん)、全てはその根本の、言い出した人の元へと、全ては還ってゆく、という法門であるが故に。

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@wainai12375 0 秒前

ご親切な御忠告ありがとうございます。 
あなたが「おかしな宗教」と仰るのも仕方ないでしょう。それは、あなたが信じている宗教(信条)がおかしいからそう思えるのです。「唯一絶対」と思えないような宗教(信条)からは早く脱却することをお奨めします。それが出来ないとすれば、あなたは相当おかしな考えに凝り固まっているのでしょう。

 また、あなたのピアニストの例えは間違っています。ピアニストは宗教の譬えには使えません。もし例えるならば、信仰者をピアニストに例えることはできます。本物の仏法信仰者であるならば、やはり一流のピアニストのように自分が世界で一番の信仰者だなんて思わないでしょう。

当然、それほど仏法は深いのですから。 そのような例えが使えるあなたは求道の心をお持ちの方でしょうから、是非正しい仏法を追求されることをお奨めします。たとえ、お奨めする私を「おかしな」人と思われたとしても、中身の玉(仏法)の価値には聊かも変わりがないのですから。

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第一回支部総登山、日蓮正宗総本山富士大石寺

2024年03月31日 22時04分35秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 今年最初の支部総登山が、三月三十、三十一日にわたって、行われた。大御本尊様にもお会いできて、本当に良い天気の下、開かれた総登山でした。
 桜は三分咲きでしたが、晴天の下、富士山が綺麗でした。
 御開扉が、総本山富士大石寺奉安堂にて執り行われ、たっぷりとお祈りを申し上げて来ました。嬉しかったです。
談合坂サービスエリアにて。
 以下は、富士の雄姿を写真撮影しました。一緒にご覧ください。
 ここまで見て頂き、誠に有難う御座います。
 又もや、去年に続き、去年はプラスチック製でしたが、今年は木製の数珠を買い求めました。
 以上。よしなに。wainai

私のYouTubeから、皆様へのお知らせ

2024年02月13日 00時33分15秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 本日、正確には昨日の晩方、当方、YouTubeサイトにて、今までは「zabonhjmX waiwai」としていた、私のYouTubeのチャンネル名を一新して、「広宣流布への道wainai123」と致しました事を、ここで改めて発表、公表、表明させて頂きます。
 今までと同様、尚、御来訪をお待ちしております。その名に恥じぬよう、私としても、「世界広宣流布」「日本一国広宣流布」の為、この身を惜しまず、不自惜身命で、頑張り抜いて参ります。
 故に、誠に僭越ながら、申し上げ致しました。有難う御座います。

 以上。よしなに。wainai

 ※私のYouTubeのページ

御本尊様、大聖人様…!

2024年01月27日 18時51分06秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 御本尊様、大聖人様。一体、人は、いつ、なんどきにあっても、どれ程、人と別れなければならないのでしょうか?
 私は、いつも、なんどきも、何人もの人々と、別れてゆく、別れてしまう宿命に遭い、苦しみの絶頂をも味わいました。
 何度、この、人々との、際限が無い、別れを経験しなければいけないのでしょうか?
 それを、仏さまは「愛別離苦」と申して、親しくしたかつての付き合いのあった方々との、愛する者たちとの別れの苦しみを、そういった言葉で顕されましたね。
 しかし、私は、現世において、この原則が納得できないのであります。一人、孤独に打ち沈み、こんな事があるならば、最初から出会わなければ良かったのに、とさえ思いに沈みます。
 こんな事を思う方が、女々しく、余りにみっともない、只の蒙昧、愚痴、と仰られるのが落ちではありましょう。
 しかし、そこでも尚、そこから一段立ち入って、私は納得がいかない。これはおかしいと、今も思う、出会いから別れ目への、悲しい思い出ばかりが去年から今年にかけて、立て続きに続き、起こりました。
 私は、出来れば、出会った人々と、別れたくはない、永遠に絶対に。それも許されないのならば、私はどうしたら良いのか。全く、私には、別れへの心の準備、覚悟の程が出来てはいないのです。今現在も。
 永遠、永久という言葉も、仏法仏教の諸行無常の諦観からすると、極めてもろく、崩れ去る。しかし、三世永遠の生命からすると、別れは別れではない、別の意味を持って我らに真実を確信をもって迫って来る。
 大船に乗った如くの安心感の全くない、私の御題目不足が、きっとこんなペシミスティック、悲観的、悲観論に打ちひしがれる原因なのでしょう。
 御題目だ!御題目こそが、人生の暗雲を打ち払う唯一のカギであると強く思い、信じる。これだ。これこそが、私の生きる道。希望。夢へと続く、一本の、限りない道。これをやり切るしか、私の生きてゆく義理と情けは果たせない。
 問答無用で、何を差し置いても、必ず、自行化他行の、まずは、自行の、勤行、これに、唱題行。これに真面目に取り組むんだ、おのれよ。
 とにかく、これから、夕べの勤行唱題に真剣になって、取り組みたいと思います。後は野となれ山となれ!後の事は知りません、全く。それ位で、ちょうど良いのです。
 以上。よしなに。wainai

日蓮正宗総本山富士大石寺への道、宗祖日蓮大聖人御生誕八百年慶祝記念総登山

2023年11月06日 11時56分13秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 11月4日5日の土日に、私は、日蓮正宗総本山富士大石寺へと、第三回宗祖日蓮大聖人御生誕800年慶祝記念総登山支部登山へと、我がお寺では第3回目であり、今年の総登山は、我が菩提寺では、これが最後となる締めくくりの登山であった。
 マイクロバス二台を使って、総登山へ向かった。夜十時出発であった。
 羽生サービスエリア。
 談合坂SAにて、一時間くらいの時間調整で、私も朝食のおにぎり等を、ここで買い求めた。
 総本山へ日が昇る前に着山してから、常来坊宿坊で勤行、朝食を摂り、皆で今度は広布唱題会に行く為に、客殿まで歩いた。

 このあたりでは、今年の三月二十六日の第一回総登山の時の桜の花が咲き誇っていたのを、しばらく思い出していた。
 いよいよ、客殿へと歩を進める。
 この日は、私は或る決意を秘めて込めて、この後に行われた、奉安堂での、大御本尊様への御祈念でも、御祈願した事があった。
 それは、今、私を取り巻く、私の福祉関係者が、体調を崩して、不調気味の方が多い為、それら方々への、病気平癒、毒病快癒を非常なる思いで御祈願したのである。まさに、なづき(脳髄)が砕けるが如くに、病が軽くなり、完全に癒えるようにとの、私の拙い祈りではあるが、力強く大願成就をお祈り申し上げた。
 創価学会第二代会長戸田城聖先生が建立為された、大講堂。

 これが昨日、本来ならば、雨も予想された曇りがちな一日の中で、富士山の偉容を眺められた一瞬をカメラで撮り納めた内の一枚。
 あとは、おぼろげながら、富士山を撮ったこの二枚。
 バスで直通で奉安堂の駐車場へと乗り込む。これで、時間短縮、スピーディーであり、歩く手間ひま、苦労が軽減される。
 この奉安堂には、弘安二年十月十二日に御建立の、三大秘法の戒壇の大御本尊様が御安置されている。ここでも、私は福祉看護医療関係者の方々への病気平癒の再びの御祈念と、我が家の母と私の安泰安寧安息、我が身の(交通も含めたすべての人生上の)安全安心と進歩、私自身の人格の向上と、人生が豊饒な豊かなカタチ、姿となるべく、そして、混迷を深め極めた、世界中の戦争状態へのこれ以上の犠牲者を出さないように、早期収束戦乱状態停止終戦。これらの大願成就(だいがんじょうじゅ)の祈りの他、これから必死になって目指すべきは、平和主義者の自分と必ず成れるよう、お祈りをたっぷりとして御祈願を致した。
 最後には、私自身、前回にはそうした素振りは見られなかったが、感極まって涙が溢れだした程の、私の今回の御開扉の御祈念であった。
 我が家へ帰って、改めて、その日に記念に総本山大石寺から頂いた、慶祝記念の御念珠を、見返して見た。今年の三月にも頂いたので、これで二つ目を頂いた事となる。
 この日は、三連休の、最後の日の日曜日に当たり、山梨から神奈川、東京へと向かう高速道路が、非常に混み合って、渋滞が何十キロも続いた。それで、いつもよりも時間がかかり、お寺に着いたのは、予定の夜9時ではなく、夜10時となってしまった。家に帰って来てから、遅い夕食、服薬、遅い夕べの勤行と、滞りなく、行なったが、非常に忙しく、余りに疲れてしまっていた為、毎日続けていた、ブログ等々の更新は、出来なかった。
 この御数珠、御念珠は、大石寺売店で、二千八百円で売っていたので、購入した。日蓮正宗総本山富士大石寺売店で売っている数珠は皆、箱や袋等の表に、「御開眼済」とのシールが書いて入って貼ってある。これも、これこそが、安心感の一つである。
 ここにある他にも、大日蓮出版の書店で、この時とばかりに、大量に御本を購入してしまった。これも、また、積読ではダメであり、じっくりと読み込んでゆきたい。

 この、十一月四日、五日の土日は、六年位前に、寿海寺支部として、母と一緒に総本山へ行った丁度その日であり、それを思うと、ただ、母の事が、非常に懐かしくもあり、コロナも明けた事からも、早く母のいる施設が、面会がいつでも自由になって欲しいと切に祈り願っている。

 以上。よしなに。wainai

今朝も勤行中に…小鳥が。

2023年07月18日 05時47分46秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 今朝、五時台に、朝のお勤め、日蓮正宗の勤行を致していた時、ムクドリか、ツグミなのか、あれは何鳥なのか、判らないが、私の外に置いてある、仏壇に近い、窓越しに、そこに私の自転車があり、そこのハンドルに、その、比較的中位の鳥さんが、しばらく、私の勤行の声に合わせて、さえずり、歌を歌いながら、私との声の競演となった。
 私が、鈴(リン)を鳴らすと、その鳥は去って行ったが、あの鳥も、法華経を、大好き、法を求めているんだなあ、と、他人事ならぬ、鳥ごととして、気分も一新して、畜生界としての、彼(彼女)の鳥の境遇を思い致していた。  
 鳥ですら、法を求める。人間は?十界のうちの、人界は、真ん中の、第五番目にあり、平らかなるは人、と言われている。 
 人間界に生まれて来るのも、容易じゃない。前世で、余程の善徳を積まない限り、この世に人間として生まれ得ない。
 けれども、この末法悪世に、我々が生まれて来たと言う事は、余程の、前世で成仏を遂げられずに、修行がてら、余程の悪党として、生まれて来た、とも、仏教では、矛盾するようだが、説いている。末法悪世の荒凡夫、と。
 とにかく、前世からの、罪障消滅の為に、この世で善行を積み、自行化他行、自ら、ちゃんと、法華経、御本尊様に朝な夕な、勤行唱題に努め、その車の両輪の如くに、折伏化他行にもいそしむ。
 これが、日蓮正宗信徒としての、矜持(きょうじ)、仁義、義務と権利、もっともやらなければならない、非常に大事なことである。
以上。よしなに。wainai

日蓮正宗信徒、Tさんへの御恩

2023年07月10日 08時04分20秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
これは、以前の、私から栃木のKさんに宛てたメールです。
それ以前から、私は、大阪出身、山形のTさんに反発していました。
私の、生まれて初めての、総本山への総登山の時、
散々ぱら?Tさんに、私の無作法を戒められたからでした。
Tさんは、日蓮正宗の信徒としては、正しい鑑ともいうべき、
立派で、凛々しい方でした。
それを、今まで、逆恨みしていた、私が、バカだったのです。
この、以前の、私にとり三度目の御登山、母にとり初登山での、
Tさんとの、いきさつを、ここに披歴します。


2018年6月27日(水) 6:59 
去年の十一月の支部総登山の時、母を私は叱り飛ばしていました。中庭でTさんがタバコをのんでいました。私が母に、こちらがTさんだと言うと、Tさんは、どうして自分の事を知っているのか、と私に尋ねました。私は、今年の四月にTさん達と一緒に御登山したことを言うと、あー、覚えてる、と思い出されました。
そして、そこでも、私は母を罵倒しました。それを見かねて、Tさんが、もっとお母さんを大事にしなさい、それが親に対する態度か、ときつく私を責めました。
Tさんは、母に自身の身を低くされて、何か困ってることはないですか、など、「お母さん」と私の母に呼びかけ、
かなり丁重に母に接して下さいました。
母のバッグが先ほど出て来た事を言うと、「探し物をしているときに、脇からわいわい余計な事は言わない方がよいんや。本人だって心配になるやろ。探し物をしている最中は気が休まるもんや。お前だって物くらい失くした事があるやろ。それと同じや。物を探している最中は、それに専念して、脇から物を言うたらいかん」と仰られた。
私は、何か、Tさんの優しさに触れて感動してその場で泣き出した。
すると、Tさんは「男子が泣いたらあかん。お母さんだって心配するやろ。泣いたらあかん。男は泣いたらあかん。みっともないから泣くな。」と言って叱咤激励されました。
そして、お母さんは靴は自分で履けるのか聞かれ、人の手が要りますと答えると、息子のあんたがその手配をちゃんとして、
坊にこれから入るから、用意周到に、転ばないように上がるよう指示され、彼と別れました。
Tさんは良い人でした。私の母へ最大限の敬意を払ってくれました。
この点、顕正会などは、会長の文句を言った母親を殴ったら、幹部に褒められた、などとうそぶく、顕正会は親不孝の宗教です。
独り、日蓮正宗のみが、日蓮大聖人以下、代々の御法主上人猊下までもが、親孝行を説いて来た、親孝行の最たる宗教です。
Tさんの事を恨んでいたのが、恥ずかしくなりました。
〇〇より(自分の名前)

以上。よしなに。wainai

これからは、身分・地位に捉われず、積極的に折伏を行ずる所存である

2023年06月20日 20時07分19秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 今から、三、四年前、今頃、というか、夏盛り本番の暑い頃、私は、近くのコンビニへ、何か、食べ物でも買おうと、自転車で、乗りつけた。
 そこへ、ちょうど、運悪く、というか、警官を乗せたパトカーが、通りかかった。
 私は、ギョッとして、ちょうど今は、夏休みだから、結構この辺りも、警戒区域に入ってるんだなあ、程度に、そのパトカーを振り向きざまに見送った。
 すると、そのパトカーが、私がコンビニに自転車を停めてる隙に、「ウー」と警戒音を鳴らして、私の前に現れた。
 そうして、物々しく、私の前に、それら、二人の警官が現れ、ポケットに何を持っているか、バッグの中は、等々、調べ出した。
 私は、これが世にいう、職務質問、という奴だと一人合点して、その捜査に協力はしてやった。
 そうして、私の仕事先を聞き、私に、異常性がない事を聞きつけた上で、やっと、解放された。
 その事を、うちに当時来ていた、ヘルパーさんに言うと、その警官はおかしい。○○さん(私)が、疑われるなんて、よっぽど仕事がなかったのかねえ、と言った。
 うちの、元講頭を務めた、女性も、それは可笑しい、と断定した上で、その時に、「折伏」はしなかったのかい?、その、私のカバンには、御経本や、御数珠、お寺で使っている御本、等々は無かったのかい?と私に聞いた。
 私は、「しまった。しくじった!」と思った。折伏のチャンスをみすみす逃した事を自身、恥じた。その時の、カバンには、カバンの影に隠れて、それら、モミの木クリニックの院長先生が、私には「仏教セット」と呼び習わしているのだが、その、仏教セット、詰まり、お寺で使う全ての、折伏道具が、その時現在、カバンがパンパンになる位、わざわざ持ち運び、全て揃っていたのだ。
 みすみす、敵前逃亡、折伏対象が逃げて行ってしまった事になる。
 私は、女性元講頭さんに、「あ、そうでした。すっかり、忘れていました。」という他はなかった。

 この事は、先日の、私の交通事故まがいの、事故の時の、警官たちとの語らいでも、利用、折伏が、出来た筈なのだ。
 それさえできていれば、今回、こんなに、事故後の後遺症の痛みで悩まされる事共も無かった筈だと思い致す。何と勿体ない事であるかと。
 私は権威や権力に弱い。そのくせ、それらに逆らおうとする、汚ならしい根性も持っている。あの、警察官だって、おんなじ人間なのだ。人に言えない、悩み苦しみも、人一倍、持っているに違いない。
 日蓮正宗の大仏法大仏教哲学を、相手を選ばず、言って、聞かせねばなるまい。宗祖日蓮大聖人様の仰る「一文一句なりとも、語らせ給ふべし」であり、下種仏法の本義本流たる、日蓮正宗法華講が、この世にお出ましになる契機、きっかけは、無限に眠っていたのだ。
 私は、本当に、相手の身分や、地位、権力等々に弱い。しかし、警察官だろうとなんだろうと、うちの母方の祖父、おじいちゃんは、元警察官僚で、弁護士の二足のわらじを履く、そういう、むしろ、警察の人達とは、仲間、というか、慣れ親しんでいる間柄であったのだ、数十年前までは。
 だから、私が、自分自身が卑屈になって、怯えている必要も全く無い。むしろ、積極的に、日蓮正宗の正法正義を、大歓喜を、素晴らしさを、警察官であろうと、なんであろうと、創価学会の大幹部であろうと、公明党の議員であろうと、何でも一手に引き受けて、自身を卑下せずに、むしろ堂々として、それら、邪宗の塗炭の苦しみにあえぎにあえ、災難に遭い、苦しんでいる方々人達を、それらの人達に、一人残らずに、折伏に打って出たって、何にも問題じゃあない。むしろ、末法に於ける御本仏の、大聖人様は、大歓迎されるであろう。
 であるからして、これからの私は、それら、相手の身分・地位に捉われず、積極的に下種、種を下し、折伏してゆく事共を、ここ、このブログに於いて永遠に固く誓うものとする。

以上。よしなに。wainai

好き嫌いじゃない、何を差し置いても、やらなきゃならないのが、『勤行唱題』

2023年05月29日 15時25分34秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 かつて、創価学会の池田大作は、自身が入信した時の模様として、「(元々が自分のうちが真言宗で)南無妙法蓮華経が大嫌いだったので、嫌々、入らされたようなもの、創価学会に(趣意)」というような事を、入信の日の想い出として、告白していた。

 要は、話は、好き嫌いじゃないのである。好きだろうが、大嫌いだろうが、仏道修行は、待ったなしで、やらなきゃならないものなのである。

 それを、好きだからやる、とか、嫌いだからやらない、では、自己進歩、自由闊達な、自身がやりたいように、望んだ如くの、人生などには、夢にも歩めない。

 要は、自分なのである。自分がまずは、変わる事なのである。他の言い訳などは一切要らない。それらは皆、愚痴に他ならない。

 自己責任ともいうが、とにかく、最期に人生を笑えるか、泣こうか、わめくのかは、この自分自身の振る舞いにカギが握られ隠され、生命の、その後の行方を、下支えしつつ、決定するのである。それが、人の、特に日蓮正宗信徒の、あからさまで、明らかで、正直な、生き様である。

 自分自身が、全ての、人生上の権威権力を、覇権の剣(つるぎ)を、決定権を握っているのだ。それを知らぬ、多くの一般大衆が、悲しく、哀れでならない。一人残らずに、一般大衆を、地道に救っていきたいものだ。この大仏法を知れば、信ずれば、人生が変わり得るんだと言う、人生の醍醐味を、知るには、この日蓮正宗の大仏法の門を叩き潜(くぐ)る以外には、金輪際、有り得ない。

 そう、本日私は、否、いつでも、何どきでも、申し上げ、断言致します。

以上。よしなに。wainai

「信行学」の、「学」は、一番最後に位する大いなる意味

2023年05月16日 09時27分11秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 私は、学問が好きだ。だから、お寺での、日蓮正宗の学びの機会は、非常に大事にして、一番に重んじている。
 しかし、どう見ても、私の場合、学問偏重であり、学に凝り固まっている。
 これを、宗祖日蓮大聖人様は、どう、仰っているかと言えば、「信行学」と、その順位を、信じる事、信心が第一番目。行、行い、修行が、第二番目。そうしてからに、最後の、付け足しの、一番最後に、学、学問を、第三番目に、大聖人様は、置かれた。
 宗祖日蓮大聖人様、日蓮正宗では、信行が大事であり、学が最後に位置している。
 それは、その教え「事の一念三千」から来る事は自明の理であり、何よりも、仏法仏教は、実践にあり、学問では無いのである。ただ、自行化他に亘る、折伏行、仏道修行に、専念致さなければならない。
 だから、幾ら、学問が出来たって、何にも偉くも何ともなく、信じ行い続けて、実践し続けている人達には、叶わない。
 ハッキリ言って、学がなくたって、学も、第三番目にあり、必要なんだが、それよりも、「信行」の方が重んじられる。日蓮正宗では。
 これを見て、これを考えると、私などは、実に足らぬ者、であり、実践もしない訳じゃないが、全然足りていない。口先だけの、要らぬお世話の信徒であり、だから、この間も、「退転騒ぎ」を起したり、要らぬトラブルを招いたり、それらは、皆、実に、日頃の、勤行の大切さを全く知らずに、欠かしてしまったり、御題目が何と言っても、人と比べても、全く足りてはいない。そこが現在・現実の私の最大限のネックだ。自分自身の、ウィークポイントだ。
 屁理屈ばかり述べて、それじゃあ、誰も、相手になどしない。自分が自分で、情けなくなる。一杯モノを知っている、ただのガリ勉じゃ、此の宗派では、通用せずに、ダメなのである。何を差し置いても、善行、良い事の、詰まりは、『朝晩の勤行唱題の実践』に限る。そうして、『自行化他に亘る折伏行』のこれもまた、実践。実際、東京に、「実践女子大学」というのがあり、女だったら入学して行っていれば、「実践行」が身についたのであろうか?だったら、私も、その大学に、女であれば、絶対に行きたかった。
 ここで愚痴っていても、何も埒(らち)など開かぬ。こういう時にこそ、自分の自宅の、何の為に、仏間を用意して、御仏壇の御厨子、御本尊様が家にあるというのか。この、気持ちのやるせなさを、解消するには、ひたぶるに、一意専心になって、祈る為に、有るのが、御本尊様である。
 それも、日蓮正宗の御本尊様は、本物の、大した御利益がある、総本山富士大石寺の、大御本尊様に直結した、リアルに完璧に凄い、人生上、やっと巡り合えた程の、日蓮正宗には、大海原の、「一眼の亀」のたとえ通り、千年に一度、人間として生まれて来て、出逢えるか出逢えないかの、瀬戸際の、一生に一度出逢えた、非常に大事で常日頃から御護りしている、御本尊様なのである。
 これに願掛け、願いを掛ければ、こちらからの、信力・行力に応じて、御本尊様からの、仏力・法力で実際に還って来る、素晴らしい、御本尊様なのだ。
 だから、祈らなければ、自分が損なのである。一番良いのは、総本山富士大石寺の、奉安堂に御安置された、大聖人様が、実際に、鎌倉時代弘安二年十月十二日に御建立遊ばされた、「大御本尊」様に直接、御目通り、御祈りが叶い、出来れば一番最高なんだが、有難い事に、我が家にはその、創価学会第二代会長戸田城聖先生も言われた、「分身散体」の、正宗信徒の各家に御安置された、御仏壇の正真の日蓮正宗の御本尊様が、我が家にも居られる訳だ。
 これに、祈る。ただ、ひたすらに御本尊様の面前で祈るのみ。若しくは、家に魔が多くて、困っているなら、すぐそばに、我が家の場合は、存立する、菩提寺の末寺の我がお寺、かなり近所の、無量山寿海寺にまで行き、そこで祈って来る。これが出来得ると言う事は、何と素晴らしい事か‼
 だから、もっと、自身の境涯を高めて、素晴らしい人生として、夢を残らずに全て大願成就(だいがんじょうじゅ)させて、成し遂げていきたい。

 以上。よしなに。wainai

大日蓮出版での購入したモノ

2023年04月17日 10時54分45秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 日蓮正宗の出版社、「大日蓮出版」から、「地涌の歌声」というCDと、「日蓮正宗総本山 大石寺」というDVD、それと、御法主日如上人猊下御講義集「折伏要文」という御本、合計3,048円であった。この、大日蓮出版は、三千円を超える金額をまとめて払うと、その分、送料、手数料が無料になる、という優れた、日蓮正宗信徒には非常に嬉しい、リーズナブルな、庶民感覚あふれた出版社なのだ。
 早速、CDから聴く事にする。素晴らしい出版物、音楽、映像作品であり、先日の、機関紙「慧妙」を出している、「暁鐘編集室」も中々立派だ。「ぎょうしょう」の方は、妙観講さんがやっているらしい。
 ともかくも、これらが無事届き、ホッとしている。こういったものを、先日行った、総本山で買いに行きたかったのである。本当は。
 以上。よしなに。wainai