私の祖父は、私立の中央大学法学部を卒業後、国家資格の司法試験に受かり弁護士で警察官僚まで勤めた。昔は中央大学法学部の方が、今の東大京大早大慶大等々よりも、断トツで司法試験の合格者数ではそれらをはるかに上回っていたのだ。法学の中央、と。
そして、私は祖父には、祖父は私が生まれる前には亡くなっていたので、私にはその祖父の様子、行状は知り得ないが、母から聞いていた事が幾つかあった。
それは、こうだ。
祖父一家、詰まりは、母の父親は、貸家住まいであった事は先のなおともさんから頂いた転載の私のコメント記事からも書いてあったが、母によると、その部屋数は多かったようだ。
何といっても、女中さんが何人もいた位だから。その貸家は、東京新宿早稲田にあった。当時祖父や母の一家の住まいは、早稲田大学安部球場の裏手にあった。
女中さん達は、一応その頃は、料理を作ってくれて、子供時代の母の遊び相手、面倒を見てくれた。母と同じ女性同士でもあり、年齢も、十代後半から二十代位で、中には福島県の矢吹町だか、鏡石町からも来ていた女中さんもいたと母からは聞いている。
そして、弁護士見習いや、弁護士を目指した、書生さんまで家にはいた。その中で、東京大学、東大生の書生もいたのである。
しかし、祖父に言わせると、母から聞いたのだが、どうしても、頭が良すぎるせいなのか、何なのか、当たり前の事、誰が考えても分かる事が全く出来ない、というのだ。
全く使い物にならない、と祖父が匙を投げる場面もあったとか。それでいて鈍感な感じで、プライドばかりは異常に非常に高過ぎる。頭が高すぎる。これでは使いづらくて、使い物にもならないのも、何とはなしにうなずける気がする。まるで鈍牛みたいだったと。
母も言っていたのは、現在はどうか知らないが、東大生の、二人に一人は受験ノイローゼの後遺症で、大学生活で、悩みの最中に居る人も多いという事だ。今、幸せそうな身分に見えていても、そこには他人がうかがい知れない、世界観があるのかも知れない。
とにかく、東大生は、中大法卒の、祖父にしてみれば、使いづらい学生達、書生であった。これが事実である。今はどうかは知らない。しかし、そんなにどんなに時代が変わっても、それぞれの大学、学校の学風が変わらないように、大して変わりはないのではないのか。
頭が良すぎる、というのも善し悪しである。最高に学問が出来る、という事は、その他の別の面では、人よりもどうしても劣っている面、能力、特性がある、という事だ。万能な人などいない。皆、欠点を抱えた人間なのだから。
成績ばかりが異様にトップクラスだった人でも、人の中でも性格が大変偏り、性格が悪くて、意地悪だったり、ずっと人生独りぼっち、誰も友達、友人がいなかった、と言った東大生など、ザラだろう。そんな人など、別に珍しくもない。
しかし、人を押しのけて、人よりももっともっとと、欲深く、貪欲過ぎて、要領ばかりを考えたり、自分が自分が、であって、決して他人に慈愛の手など差し伸べない人間、人種などには、幾ら東大であっても、私はなりたくはない。
そんな詰まらぬ東京大学四年間を過ごすならば、仮にたとえ三流大学であっても、心が優しい自分であったならば、人にその優しさで尽くせる自分であったならば、それだけで私は十分満足するであろう。東大ブランドなど、私には不要無用、要らないのだ。
いや、別に、今の自分は、高校卒で充分満足しているが、現在の大学中退であっても、否、たとえとして仮定して、あの時、中学しか出ていなかったとしても、それなりの人生を自分は歩める自信がある。それは、大卒者には敵わない、と言わしめるだけの可能性を秘めたものとも言える。
しかしその可能性は、その時期その時期で、多様性を持っているとさえ言える。
私にしか歩めない、私しか出来得ない、人様が真似できないユニークな芸当と言うものが、私には確実にある。これは「秘すれば花」であるので、ここでは言わない事にする。一切、秘密だ。
果たして「秘する」程の芸当が自分にはあるのか、本当に…。何か自信がなくなって来た。
だから、私は「秘するもの」が「有る事」にしたい。嘘のまことで、あれば、あると思えば、きっとあるんだ、必ずに。絶対に。
これから、事を作ってゆくのだ。私はいまだ、「発展途上人」なのである。
実際、世の中はそんな風に、優しい人の下には、人々の関心を集めて、沢山の人達が多く集まって来る。世の中はそういう風に出来上がっている。
「自分が自分がー」という、エゴイスト、ナルシシストには、友がいない。永遠に、エゴイズム、ナルシシズムを自分で気づいて改めない限り、心の許せる友人など、絶対に未来永劫、出来やしない。そこに気付くべき。
私は、幸い、今の福島県郡山市土瓜での、日蓮正宗無量山寿海寺においては、年齢、男女の差を超えて、交友関係には恵まれており、皆さんには大変に大事に可愛がられていて、親しい尊敬する信徒の方々が数多く存している。これは実に嬉しく幸福な事だ。この大海の中に居て、私は幸せ感、満足感を覚える。
非常にお寺にも日蓮正宗という宗団にも、お寺の御住職様、奥様、講頭さんはじめ幹部の皆様、老若男女、善男善女の、講中の皆様には、感謝をし尽くしても、し過ぎるという事など決してない。
だから、折伏をこの地域でも必ずにして、この幸福感を、私の信ずる日蓮正宗に今はいない、多くの創価、顕正会、キリスト教、新興宗教、伝統宗教にしても、邪宗邪教の方々にも、その幸せの一端を深く味わって欲しいと心から念願して思い願っているのだ。
であるからして、我々、日蓮正宗法華講員は、身軽法重、不自惜身命を心から追及してゆくのであり、日夜、折伏行の為の勉強にも実践にも励んでいるのである。これは、実に尊い最高度のエラい仏道修行の方法、方途なのである。
これで話は完全に脱線してしまった。要するに私が一番に言いたかった事は、優等生の、頭でっかちでは、全く使い物にならず、ダメである、ということ。
多少の人生の荒波を経験しないといけない事。順風満帆ばかりが人生ではない。不撓不屈の精神をもって困難や人生に立ち向かう事。
その唯一の解決法が大日本国東海地方の静岡県富士宮市にある、日蓮正宗多宝富士大日蓮華山総本山富士大石寺にある法本尊の大御本尊様。人本尊の御本仏宗祖日蓮大聖人様の一仏乗の大切な御教え。この両者が相まって、人法一箇となる。
大仏教仏法哲学・高等宗教・極度に極まり切った御教えこそが唯一つ、日蓮正宗のみである事。それが私の一番に言いたい事の全てである。
以上。よしなに。wainai、長文失礼。