今から何年も前、創価学会員だった私含め家族は、自家用車で毎月一回、せっせと文化会館へ同時中継の為に駆り出され、映像を見に行っていた。
その建物はいかにも新興宗教の施設そのものだったが、当時は何も疑問にも思わなかった。
男子部長、女子部婦人部部長あいさつ…、と続き、いよいよ池田大作氏がお出ましになる。
センセーは、何とか笑いを取ろうと必死のようで、同時中継の中の大勢の人も、そこの会館の人も、ぎこちなく無理に笑顔を作り、無理に笑う。この時のイヤーな感じが、冷や汗をかきに来ているようで、私は嫌いだった。
そして、センセーが座席に座り、スピーチを始めると、「ん…?!」と言う程、呂律(ろれつ)の回らない言葉とも言えないノイズのオンパレード。池田は、既に、この時、自由に言葉を発することの出来ない老体の身だったのだ。
本当は、そんな事で差別したくもないが、池田は、もう人前に姿を現すのは無理な程、身を持ち崩していたのだ。
そんな姿を毎月見せ続けられ、ある日から、「思い出の池田センセー」と言った感じの、在りし日の池田が映ったビデオを十年前から見せつけられ、「もう池田はいない!」と確信した。
今もそんな映像スピーチを学会員達は見せられているのだろうか。日蓮正宗に立ち返った私は分からない。
土台、池田本仏論、池田神格化は無理だったのだ。生身の人間が、長寿を得たとしても、永遠に生き永らえる事など不可能だ。どんな人間だっていつかは死ぬ。いつまでも「池田センセーはお元気です」と何百回幹部達が言いつのっても、それは虚しさばかりを振りまき、人間の限界の証明をするに等しい。
私は、以前もこのブログ記事で述べたが、泥船には乗りたくはなかった。今のままでは、多くの学会員達が、謗法与同罪で堕地獄の悲惨を逃れる事は出来ない。私は創価の謗法、日蓮正宗の正義に気付けたので良かったが、今残っている学会員達の多くが池田や幹部にいまだに騙され続けている。
まことに、創価の謗法の集団洗脳の心理はコワイ、と思わざるを得ない。
日蓮正宗の御僧侶方の、どんなにお年を重ねても、御言葉はかくしゃくとして、あの池田のようなたどたどしい、濁った口振り、話し方は誰一人していない。日顕上人猊下だって、晩年、頭脳明晰、御言葉もはっきりお話なされ、年齢だけがあんなろれつの回らないスピーチの原因とも思えない。
釈尊に敵対して地獄に落ちた提婆達多(だいばだった)も、釈尊に反抗した半生を反省し、言葉を発しようとした刹那、言葉にもならない「南無~」とも聞こえない言葉で臨終を迎え、堕地獄の末路となった。
晩年の池田も、大謗法、堕地獄の業罰、業火の中、言葉が貧相になり、発声にも困る事態に陥った事は、想像に難くない。