私の子供の頃の夏休みの宿題を仕上げるのは、恥ずかしい話だが、休みが終わるギリギリの、最後の一週間前にはきりきり舞いになっていた。宿題を出した学校を恨み、先生を憎み、恨んでも憎んでもしょうがないのだが、兎に角、ヒーフー言いながら、やり場のない苦しみ、呻吟するような気分で、最後の一週間を過ごした。
小学校~中学一年生までは、そうやって、その繰り返しの毎年の夏休み・冬休み・春休みの生徒時代の長期休暇の過ごし方だった。これは大いに反省する。
中学二年生からが全く変わった。ちゃんと計画的に、宿題を全て夏休み期間終了までには終わらせ、中学時代、引いては小学校高学年の教科書も使って、しかし、中学が主だが、主に英語と数学を、復習を母と一緒に習い直したのが大きい。頭のいい母の教え方は、とても分かりやすかった。
この中二の時の五、六月に、私は自分のウィークポイント、欠点を補うべく、当時、最も不得意教科だった、英語と数学に特化した学習塾、つつみ教室と言う塾に通うようにもなった。そこには、不良と勝手にこちらが思い込んでいた男の子が通っているのを母から人づてに聞き、私は最初は、嫌だ、そんな所になど通いたくないと突っぱねていた。母には、そんな塾に行く位ならば、道路で車に飛び込んで死んだ方がましだとまで言った。
しかし、私の苦手な数学の時間に、その生徒は、先生の指名を受け、黒板に二次方程式の解法をすらすらとチョークで書いて見せてしまった。果たして、先生は、赤色のチョークで大きな花丸を書いて、その生徒を褒め讃えた。
私は、凄い、と当時単純に思った。その不良だとてっきり思っていた生徒が、実は優秀な、数学の成績が人並み以上に出来る人物だったのだ。
私は、ただ単純に、不良だと格好だけで決め付けていた自分を恥じた。自分が愚かだと思った。そんなことだけ、人をただ外見だけで判断を下し、悦に入っていた自分が恥ずかしくなった。
私はこの日のこの一件から考えを改め、その塾に行くことを真面目に考えだした。
そこの塾は、奥さんが書道を教えて、男の旦那さまが数学と英語を教えた。その先生の自家用車で自宅から塾まで送り迎えしてくれる。そして、授業の合間に、奥さんの手料理で、お好み焼きややきそば、その他の御馳走まで振舞ってくれた。
それだのに、月々五千円を下回るような、お安い月謝。当時は穴場の塾だった。
そこでは私は僅かに二年近くの時間を過ごした。その間に、私は、私の中学校の校長、先生、生徒が目を見張るような、急激な学業成績の向上が認められた。
私の学校では、私が偏差値を二十も三十もアップさせたのを受けて、私を見る目が変わった。
以前は劣等生だったのが、その時から優等生の仲間入りを果たした。
私は、当時県中の学区内では中堅と言われた、当然狙えた県立郡山高校から、県でもトップクラスの、福島県下、一、二の進学校に志望校を代えて、勉強に打ち込んだ。
しかし、運が下がると言うか、ある回し者の女子二人が、私の塾に交じり込むようになる。私の成績がうなぎ上りに登ったのを見て、どこの塾に通っているのか聞き付けたその女子二人が、潜り込んで来た。
そしてあろう事か、その塾の授業中に、うちのお店の屋号を連呼して、我が家の商売を貶め始めた。
塾の先生は、静かにして下さいとは言ったが、その女子達もそこの塾の生徒、お客さんには違わず、余り口うるさくは言えない。私は、ずっと授業妨害のその女子の攻撃を受け続けた。
うちの母も、当時は個人情報保護法が幸いなく、その女子達の親の職業や生徒の住所がまるわかりの時代に、その生徒たちが怪しい、うちの商売敵、スパイだよ、と勘づいて、警戒するように私に言い聞かせていた。
今だったならば、その女たちを引っ叩いても、蹴りを一発入れるなり、美空ひばりの「柔」の、「♪口で言うより手のほが早い、馬鹿を相手の時じゃない」の歌詞から言えば、私も馬鹿だが、その当時はそんな実力行使は一切出来なかった。
何しろ、その女達は、れっきとした「スケバン」不良女達であり、その女らの報復も怖い。今以上に嫌がらせ・仕返しを学校で男女の集団で受けるだろう。暴力で立ち向かえば、相手も必ず暴力で返してくる。
言葉で返しても、言葉で、目には目をの如くに、真っ向から立ち向かえる相手じゃないのは分かっていた。
私は、もう諦めて、その塾を涙を呑んで、辞めた。
私が塾を辞めたのを母は知って、その後、中三の夏休みには、公文式の無料体験などを受けるように勧めた。
しかし、その公文式は、小学生が主体になって当時通っていて、当然中学生の自分は、そこの問題集は、簡単な足し算引き算掛け算割り算、漢字書き取り、読み仮名振り、英語のアルファベットの簡単な綴り方等、余りに初歩的で、高校受験を目指す私には、持て余し気味の教室だった。
そこに夏休みの間腐らず通い、しっかり無料体験をして、後は習わなかった。
そして、自身の判断ミスで、当時尚志学園高が母体となって運営した福島高等予備校に通うようになる。
初めは遠慮して、最初の見学で、私は、郡高郡女コースという授業を見た。割かしこれなら、問題集を演習する割には、詳しく教えているみたいだからと安心した。
数学と英語の授業の後、担当の教師と面接した。
そこで、私の偏差値を聞いたその先生は、「その成績ならば、当然、県中一の進学校を狙うよう、学校側で配慮なさると思いますよ。」と言い、その予備校の安高安女コースを薦められた。
私は、深く考えずにその安高安女コースと言うのに乗っかった。それが失敗の元だった。
私は、てっきり、見学した時には、あれ程わかりやすく、手取り足取り教えてくれていた男女の先生方が、安高安女コースの授業は、まるで慈悲もなく、ただの答え合わせ、先生方がただ生徒達を指名して立たせて答えを述べさせるだけの、無味乾燥な授業しか行っていなかった。私は、この授業は、事前に問題を解いて家から出て来なくてはならない、予習復習の必要な授業だとは、勿論事前に見学した時には漠然と聞いていたので判らなかった。
私は、私の番が来ないように必死で願った。当てられることは少ないが、順番が来て当たれば「わかりません」と答える、いけない学習消化不良生徒だった。
その先生の指名が怖くて、そこを二か月位で辞めた。
母のその時の落胆ぶりと言ったら、私を、入会金三万円、月謝一万円の、まずは金額を私に言い付け、ガッカリしていた。
その後、私は、又性懲りもなく、クラスの男子で成績のいい生徒が進研ゼミと言う通信教育をやっているのを知り、母と相談して入るが、これも、三年生の冬の一月には、もう赤ペン先生の通信添削などは終了していた。その後、この会社の、高校講座にかなりの高額で四万円以上もする、それもたった半年間の、講座に入るが、それも続かず、どんどん教材が溜まりに溜まり、遂に辞めた。
その高校時代には、一年の冬には、今度は旺文社ゼミと言うのもやるが、これも続かない。
志望高校には晴れて、それ以前の授業・成績の蓄積から、無事合格するが、理想の学習塾には、ついぞ、出会えなかった。その後は、全て独学、と言うか、学校の授業の予習復習のみである。
私の母などは、学校の授業さえ受けていれば、ちゃんとノートを取ってみっちりと予習復習に励めば、東大京大なども恐れるに足りず、という一家だ。塾は、あくまでその手段であって、自分の負担になるならば、最初からそんな贅沢は止めた方がいい、と言う教育方針。特に、私自身、親から、やれ、勉強しろ、だの特に口やかましく言われた事等はたったの一度もない。
それに高校も、中学二年生が始まった四月の三者面談で、担任の女の先生が、「あなたは、今、行く高校はない。親御さんの商売から言っても、岩農、つまり、岩瀬農業高校がいいと思う」と仰った。
その当時、まだわたしの五十に満たない偏差値でも行ける高校はあったと思う。日大東北職業科、郡山北工、帝京安積(安積商業)、遠くなるが、郡山市外の、須賀川高、本宮高、長沼高、湖南高、矢吹高、等々。
その岩農という所はどこか、と母が聞くと、先生は、県南の、福島県岩瀬郡鏡石町にあると言う。
その女の担任教師は、本当かどうか、その岩瀬農業の回し者のような先生で、成績の悪いと思しき生徒は、皆、決まって岩農に行かせるきらいがある先生だった。事実、数名の生徒が、私の学年から、特にその教師のクラスから、岩農に旅立って行った。
そんな遠い所、と母も当初ビックリし、そんなにうちの子は成績が悪いのかとにわかに思わせた。
それから親子二人三脚の塾探しが始まり、冒頭の話につながる。
その塾探しで、うちの近所で当時やっていた或る学習教室では、五教科も授業があり、それぞれ特殊な教材を使って行うが、一か月何万円もして、そこに通っている私のクラスメートもいたが、ついぞ、成績が上がったなんてきいた試しが無かった。掘っ立てプレハブ小屋でやっていて、地面が砂利の、あそこじゃ夏は暑いだろうねと母も言う程の、カッコばかりの教室だった。
私の母も、何もあんな、進学校など、無理していかなくても、と言い、母自身が東京の都立の古参の伝統校、進学校だったが、自身の受験地獄、それ程苦労した訳じゃないが、あんまり子供の私には、勉強漬けにはなってはどうか、やるんだったら徹底するが、苦労をして欲しくはなく、人並みで良いと考えていたようだ。
私は、そのまま、受験戦争競争曲に乗っかってその後突っ走って行ったので、母はむしろ傍観者だった。
父も、私には、農家になってくれと懇願された時もあったが、それも立ち消えになった。
どうせ、安高に行った人を見ても、その後出くわすのは、成れの果ての、余りに受験期に気負い過ぎて、気に病んで、思い通りにいかないせいなのか、後には精神を病んでしまっているような、神経症だか何だか知らぬが、心の病に罹っているような人達が割合多いのを見るに聞くにつけ、ここはお国の何百里、知ってはいけない世界に踏み入れたのか、とも思う。比較的、偏差値の低い帝京や北工には、精神病などは一人も聞いた事がないような気もする。頭が良すぎるのも善し悪しだ。
兎に角、私の受験生生活は、あの夏の、中学二年生の夏休みを期して始まっていた。あの夏の勝利が、その後の、塞翁が馬、禍福は糾(あざな)える縄の如しのことわざの如くに、その後の喜びも苦労も味わうきっかけ、さきがけとなった。
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私は、もう少し、背伸びせずとも、身の丈に合った、無理のない勉強法、人生の過ごし方も出来た気もする。が、しかし、過去を変える事は誰人にもできず、私達は、過去を生きるのではなく、来世の極楽往生を願うのでもなく、今を生きなければならない。今、この場に生きている我々は、今日という日が、やり直しのきかない人生の中で一番、若いのだ。振り返るのではなく、現在、この時を大事に生き切る。それしか道はない。