母は元々、東京の人だ。私も、神奈川県生まれだが、その時遥か以前から、福島県に住んでいた。
今から、これは、二十数年前位か、母と二人で、父はとっくに亡くなっていたが、その後の時に、東京都豊島区の池袋駅前の、少し歩いた場所にある、ホテルに泊まった事がある。
そこで、私達は、暫くホテルに居るのだが、母は、もう、池袋の街を歩きたくてたまらない。私などは、福島県郡山市の、郡山駅から、母は、電車代をケチって、新幹線じゃなく、鈍行、普通列車で、かなりの、何時間もかけて東京までの道のりを行ったものだから、本当にクタクタに疲れてしまって、もう、どこにも行きたくなど、私は無かったのである。
しかし、アクティブで元気だった母は、そんな疲れ気味の、元気のない私に、少しは、歩いた方が良いわよ、と言って、しきりと池袋の街を歩きに行こうと勧める。
これに、私は、業を煮やすんだが、しょうがなく、母に付いてゆく事にした。
母は、当時はとても元気で、私など、私の方が歩幅が広く大きく長い筈なのに、どんどん、母の歩く速度が速まり高まって、母の歩き方は、とても速かった。私など、どんどん置いて行かれるばかりであった。
私は情けないが、母は、とても素早く歩き、私との距離も、どんどん離れそうになり、私も、付いて行くのがやっとの思いで、迷子にならないように、こんな大都会で、私一人、迷子になれば、一生、母と会えずに、警察の厄介になり、ホテルを、そのホテル名ですら、私は判らずに、母とは、どうやって再び巡り合えるのか、判らない訳であるから、必死になって、疲れた体を励ますように、母の後をついてゆく。
結局、池袋駅前に来て、池袋と言う所は、西口に東武デパートがあって、東口に西武デパートがある、東西、複雑な場所なんだが、我々は、西口に居たので、東武に行くかと思ったが、私が肝心の所で音(ね)を上げて、もう歩くのがヤダ!と泣き言を言ったので、母も私を察して、私の事を気遣い、その、西口の東武デパートは、一階の入り口付近を寄ったのみで、ほとんど入ったとも言えずに、そのまま、どこかでその日の食事を調達してから、ホテルまで、又、母は、ちゃっちゃか、ちゃっちゃか、と、先の方を、私などお構いなしに歩いてゆく。凄い、女性としても、活動的というか、母の歩きっぷりたら、なかった。母にとり、東京都は、自身の当然の活躍・活動の場、自分の庭の如くの、勝手知ったる場所、日本の首都、キャピタルシティー、ど真ん中、冠たる東京都であったのであろう。
その次の日は、ハッキリ言って、どこへ行ったかは、今となっては、どうも思い出せない。とにかく、夜、五時、六時頃から、七時、八時位まで、そこの、池袋の夜の街をさまよい歩いた事しか思い出せない。
最近噂で聞いた話だと、東京都豊島区池袋も、東口にあった西武デパートが、閉店した(する?)憂き目に遭った、との、これは噂話で知ったので、本当かどうかは全く、東京都に住んでいる訳では無いので、判らないんだが、埼玉県の、東京池袋をよく利用する人のツイッターの噂話か、或るいは、ヤフーニュース、覚えてないが、どちらかであるから、本当なのかも知れない。
それだと、相当、東京都も、経済的に疲弊していて、地方の方が、特に、今、私の居る福島県郡山市の方が、経済的に大発展していて、前の去年八月頃の私のブログ記事でも書いているが、福岡県から、大ショッピングセンター、一大巨大スーパーの、「メガ・トライアル」がオープンしたり、その他、おしゃれなお店、ショッピングセンターは、山ほど沢山あり、次から次へと店も開かれ、今までの地元の店も割かし健在であり、ラーメンの街、鯉の街、食事の街、農業の街、商工業の街、郡山市と言う発展ぶりであり、東京の、今の衰退している状態、実態よりも、むしろ、郡山は、恵まれているという実感が、この時、この頃、この場面、思い起こされる。
昔は、東京が羨ましく、東京に憧れを抱いたが、今のネット社会は、そういった、一極集中の、昔ながらの座標軸を全てぶっ壊し、今、自分がいる場所、ここが、世界の中心である、という、そんな価値意識に根差した、もう、東京の時代じゃないよなあ、との感慨を今は自然と抱(いだ)く。
東京も、人だけは沢山、掃いて捨てるほど人が居て、物凄い街に見えるが、その人々の、一歩、その心の内に立ち入り、見て想い伺ってみると、とても不幸な人々が多いんじゃないのか。その余りの人口密度に、うんざりして、疲弊している人もいるんじゃないのか。
それらに比べたら、こちら、福島県郡山市などは、各大公園も、本当に立派な施設、場所が沢山整って一杯あるし、観光立国立県の福島県ではあるし、福島の食と農と漁業と地産地消は、素晴らしく整い、一貫性があり、SDGsにも力を入れて、各自治体で取り組まれている。とにかく、広大で大きな、福島県は、郡山市の、ビッグスケール、そして何よりも、住み心地が良く、大変に住みやすい。それがただ、素晴らしく、良い。
どこがうらやましい、などとは、もう、今の時代では、死語、である。東京は、もう、ハッキリ言って、私のこの目から見ても、魅力なんて、全然ない。全く無い。
これは、負け惜しみで言ってるんじゃなくて、本当に、実感として、普段のこの便利な郡山市の実生活・実体験を通して、そうだ、と申して居る。とてもじゃないが、東京の方が、何かと、かえって不便な土地柄、模様、場所柄なんじゃないのかと訝(いぶか)しく思って居る。むしろ、可哀想な場所、人達だ、とも。
ニーチェと言う人、学者・哲学者は、19世紀末に、キリスト教文明の、西洋文明、西洋社会が行き詰まりを見せていた時代に、時代遅れのキリスト教をこのまま、このヨーロッパで存続させたままにして、捨てて置いたら、ヨーロッパごと滅んでしまうと危惧して、とうとう「神は死んだ」とまで言い切って、キリスト教を唾棄して、棄て去った。キリスト教とは、人間をそこまで堕落させる、人を道徳的にも狂わせ間違わせる危険思想に違いない、とニーチェの考えはそこまで巡らされた。キリスト教は、今現在ですらも、「時代遅れの宗教・人を増上慢、慢心、傲慢、高慢ちきになるならせるさせる為の宗教・道徳的退廃の最たる宗教・人権意識ゼロの、人種差別の宗教・二重人格、偽善者の最大一の宗教」の最たる宗教だ。そう断言する。
その意を汲んで、ちょっと又、私得意の、今回はキリスト教に脱線してしまったが、「東京」も「キリスト教」も、時代遅れという点に関しては、読者の皆様には、同意・賛同していただけるものと思われる。
今では「東京」の存在、それ自体が、その余りに巨大化した都市構造・機構が、膠着化して、官僚制・ビューロクラシー化した公官庁主導の指導体制が、日本に於ける、弊害の元凶、お荷物、それらによる脆弱化、退廃的な、一種の危惧をも抱かせる、日本全体の退潮化ともなり得る、繋がり得る、そんな存在なのかも知れない。
私は、日本の、東京都の、明治時代以来の、中央集権型の、支配的地位の低下を指示・指摘してズバリ、言いたい。
『東京は死んだ』。東京は、今、機能不全停止状態に追い込まれた。東京は、時代遅れ、時代錯誤、である。これ以上の地方支配を東京は放棄、止めて、東京は、その指導的地位を、早く地方に移譲し、明け渡し、譲り渡すべきである。詰まりは、極めて早期の、地方分権の強化、国会首都機能等の、地方への権利移譲、移転を早く、早急に進めよ。これ以外に、今現在の日本の立ち行き、進むべき、生き残る道など無い。地方が栄えないと、日本は滅ぶ。東京は、今、滅びの時代に入った。東京と共に、地方も一緒に滅び、心中なんて、御免で、嫌だ!地方は、落ちぶれてゆく東京になびかずに、東京に反旗を翻して、地方独自で、今まで以上に、自ら、栄えてゆく!それを邪魔をする事など、誰にも出来ない。例え、それが、東京の強権を使ったとしても、それは決して許されない。それも、そして、地方が栄えてゆく、地方が勝利をする、それこそが、この、時代の趨勢(すうせい)、流れなのだ、と。
おい!やい!東京都知事小池百合子さんよ、聞いているか?東京都は、果たして、退屈では、無いのかね!!住み心地は、どうなんだい?!早く、都の権限を、地方に、特に、この東北地方福島県に、早くに渡しやがれ!!お願いだからさ。
詰まりは、法律も、法的にも公布、施行され、出来上がり、整っている、「首都機能移転」の早期実現を、東日本大震災も終わり、何の心配も無くなった、今のふくしまに、持って来い!という話だ。話は、これから始まるのだ!
※編集後記:
ここで、私の、この記事の中でも出て来た、郡山市の大発展を意味する、メガ・トライアルの郡山店オープン当時の去年八月の興奮した雰囲気を伝えるブログ記事URLを、ここに紹介する。
以上。よしなに。wainai