後期シルバーの戯言

一寸した日常生活・身辺雑記と旅日記

善光寺御開帳回向柱奉納

2015年03月31日 | 神社・仏閣巡り

3月29日4月5日から始まる善光寺御開帳の回向柱の奉納があった。回向柱は江戸時代から松代藩が寄進し、現在は長野市松代町の善光寺回向柱寄進建立会が寄進している。奉納されるのは善光寺の回向柱と世尊院釈迦堂の供養塔の2柱である。善光寺木遣りの先導で、大名行列・牛が曳く回向柱・姫行列と続く。一般の方々の参加も自由で、10数メートルの2本の引き綱が用意されており、綱を引く参加者が大勢だった。残念ながら少し遅く行き行列の最後に追いついたのは既に3分の2近く過ぎた大門町付近であった。混雑で追い越すのもままならず先頭の木遣りや大名行列は見ることができなかった。
善光寺本堂前に到着したのが14時過、ここで受け入れ式があったのだが、あまりの人垣で式の進行は見えなかった。

                   
         行列最後尾の姫行列                                 釈迦堂供養塔

 

                       
            善光寺回向柱                                 回向柱を牽引する牛


                       
            牽引に参加する一般の方々                        仁王門の階段を迂回する回向柱


                       
            駒返り橋で回向柱を迎える住職                      本堂間の受け入れ式

         

←本堂前の受け入れ式 
  受け入れ式は寄進建立会会長から寺務総長に目録がて渡されることになっているそうだ。  
  4月3日に回向柱建立式が本堂前で行われ(この時は白布に包まれている)、
  4月4日 は回向柱開眼法要おこなわれ、大勧進貫主と大本願上人がともに除幕の綱を  
  ひくことになっているという。

 

 

 

 


2015年善光寺初詣

2015年01月05日 | 神社・仏閣巡り

例年のことではあるが娘が正月に帰郷するので、参詣者の多い3が日を避けて4日娘と善光寺初詣でに出かけた。
正月最終の休日・日曜日とあって参詣者はやはり多い。娘は参詣の後帰京するので時間を気にしながらお参りする。
昨年11月22日の長野県神城断層地震で、善光寺も鐘楼の土台や石塔に被害があったが、鐘楼は隣に仮移設、除夜の鐘は無事衝けたようだ。

     
            本   堂                               山   門

     
            仮設の鐘楼                           山門から人出の賑わう仲見世通り方面


 


秩父34観音巡り 第4回

2014年10月10日 | 神社・仏閣巡り

 10月3日ちょこTrip企画の3回目の秩父34観音札所巡りに行ってきた。今回最終回4ヵ寺を巡り満願となる。
午前6時40分長野駅東口を参加24人で出発、予定より1時間程早く6時半帰着した。
巡拝は地元先達人の案内で 32番般若山法性寺 ―‒ 31番鷲窟山観音院 ―‒33番 延命山菊水寺 ―‒ 34番日沢山水潜寺 の順で参拝した。

*32番 般若山法性寺  本尊;聖観世音菩薩   宗派:曹洞宗  所在地 秩父郡小鹿野町
   鐘楼門から79段の石段を登ると間口13件の本堂がある。本堂の前の通路では奥の院の岩上の観音像が見える。ここから更に登る
   と、
崖の中腹に舞台造りの観音堂がある。
方形屋根、三間四面で、内陣の外側は吹抜けになっている。

            
       鐘楼門  二層の山門は秩父札所唯一の鐘楼門で、                参道  79段の石段
        “般若山”の額が掲げられている
     

                        
       観音堂                 奥の院の観音像;大きな舟のような形をした岩尾根、
                             舳先の部分に青銅製の“岩舟観音”が立っている。(本堂の前から望む)   

 



 ← 船に乗った観音像の額

 

  礼拝所に掲げられた額には、舟を漕いでいる珍しい聖観世音さまが描かれている。
 
本堂には、前立本尊が祀られ常時拝観できる。

 

 秩父札所32番の本堂の前立に、冠の上に笠をかぶり、櫂を持って船を漕いでいる珍しい
 観音像が安置されている。観世音が船に乗って出現されたという縁起にもとづく立像で、
 秩父札所32番寺のことをお船観音と呼ぶのはこれによる。    

  

 
*31番 鷲窟山観音院  本尊;聖観世音菩薩   宗派;曹洞宗  所在地 秩父郡小鹿野町
  秩父の札所の中でも最西端の寺で、もっとも険しい難所に建つ寺である。観音堂は、標高約700メートルの観音山の中腹にあるが、
  296段の長い石段を登りきると、正面の岩屋に納まった形の観音堂がある。

  

 ←観音堂

  ←史跡立札 要旨;小鹿野町指定史跡 札所31番鷲窟山観音院
  境内の岩盤に南無阿弥陀仏の名号を刻み、その下位に弘法大師の1夜彫りと伝えられる
  県指定の「鷲窟磨崖仏」がある。本尊の聖観世音像は霊験記によれば 畠山重忠がこの
  地に狩りにやってきた。鷲の巣を見つけたので矢を射ってみたが、どうしたことか、
  何度射ってもすべて跳ね返されてしまう。不思議に思った重忠が、巣を降ろしてみと、
 平安時代将門の乱で所在不明になっていた聖観音像がそこにあった。その後重忠はここに観音堂を建て、聖観世音菩薩を安置したという。
 幕末のころ本堂をを建立、明治26年2月法有働を焼失する。その後長らく仮堂であったが昭和47年4月現在の本堂が再建された。
 山門の石造り仁王尊は、信州の名工藤森吉弥一寿の名作で、像高4メートル、その規模は本邦第一と称される。
                                                  昭和37年9月27日指定

       
               山  門 ; 両脇の仁王像は、高さ約4㍍もあり石造り仁王像としては日本最大

     
              
        不動明王像                    体長18cm程の爪彫りの千体仏

*33番 延命山菊水寺  本尊;聖観世音菩薩   宗派;曹洞宗  所在地 秩父市
   菊水寺に向かう途中の八人峠に、昔は山賊がいて旅人と苦しめた、とあります。ところが、ある日、この八人組の山賊は襲った旅僧の
   法力で金縛りとなった。山賊どもは改心し、山裾に一寺を建立して、日夜、仏への供養をした、とのこと。秩父札所33番の「菊水寺」 
   の名の起こりは、この寺の旅僧が実は行基で「この先の菊水の泉で汚れを洗い落とせ」と山賊どもを論したという縁起があるという

 ←菊水寺文化財案内
   県指定有形文化財  菊水寺聖観音像 
  一体 昭和二九年三月四日指定
   この聖観音像は、ヒキ材の一木造で目は彫眼、増高88センチの立像である。
   全体的に安定感があり、頭部には菩薩の特色である訪韓をいただき、顔立ちも
   端正で威厳がある。製作年代
 は平安時代 末で、県指定文化財彫刻部門の第1号
   指定である。
  市指定史跡 長福寺の芭蕉句碑  昭和三九年九月二九日指定
  市指定史跡 秩父観音霊場札所三十三番  昭和四十五年九月二十四日指定
  市指定有形文化剤 菊水寺の子返しの図・孝行和讃之の図(版木・大絵馬)
       昭和五十五年七月七
日指昭和五十八年三月 埼玉県教育委員会・菊水時
                                         
                                                  秩父市教育委員会
                                             

 ←菊水寺観音堂
  入母屋造りの観音堂の正面には、「正大悲殿」の額が掲げられており、堂内に入る
  と向拝の内部は土間になっている。
 右手の壁面高く、市指定有形文化財の「子返し
  の絵図」が掛かっている。
  そして左側には市指定有形文化財の「孝行和讃の図」の版木が掛かっていた。
  撮影禁止で大絵馬を記録に残せないが仕方がない。。

 

 

  

 ←市指定史跡 芭蕉の句碑 
  芭蕉の句碑は有名で寛保年間1741~1743)に翁の50回忌に建てられたもので、
 「寒菊やこぬかのかかる臼のはた」と刻まれ、秩父で最も古い句碑といわれている

 

 

*34番 日沢山水潜寺  本尊;千手観世音菩薩  宗派;曹洞宗  所在地 秩父郡小鹿野町

 ←秩父三四番 日沢山 水潜寺案内版
  主旨;この札所は、秩父三十四番霊場、にほん百観音霊場(西国・坂東・秩父)の結願
  寺として、巡礼者が打留の札と笈摺を納めた寺です。観音堂は、大きな流れ向拝をつけ
  た六間四面方形造りで、文政11年(1828年)の建築であります。内陣は壁で囲ま
  れ、外陣は桟唐戸をたて周囲に縁を廻し、内陣外陣の境には格子戸を以て仕切り、その
  に上部飛天像その他の極彩色彫刻を入れ、組物は出組で格天井をうけ、鏡板には円形の
  輪郭をとり、花鳥の様々が画かれています。
     本尊は、1木造り室町時代の作と伝えられる千手観音、西国をかたどる西方浄土の阿弥
  陀如来、板東をかたどる東方瑠璃光世界の薬師如来がまつられ日本百観音結願寺の特殊
  性をだしています。堂内には大日如来の胎内仏で初期鋳造の阿弥陀如来、享保18年
  諸国信者の寄進による鋳造子育観音など、境内には百観音結願堂、仏足堂をはじめ、
  7観音33観音、6地蔵などがまつられています。観音堂前には、百観音宝前のお砂を納めたお砂踏みがあり、この上で3体の御本尊を
  拝むことにより、百観音巡礼の功徳が得られると信じられています。また、観音堂の傍らの崖下に、清浄長命水を湧出する寺名のおこりの
  の水くぐりの岩屋があり、札所巡礼を終えた人々は、ここで再生儀礼の胎内くぐりをし、長命水をいただき、笈摺を納め心身共に清浄に
  なって俗世の生活に帰ったと言われています。
                                                     皆野町教育委員会

                 
        観音堂                            結願堂


                            
                       33観音の石仏                             水掛地蔵;「地蔵さんの頭上よりお水を3杯かて、      
                                                                                             お願い事を3度おとなえ下さい」とある。 
              
 ← 水潜りの岩谷
   写真左奥上に岩屋(鍾乳洞)の入口がある。巡礼者は、この岩屋から湧き出ている清水に足を浸し
   ながら、体を縮めて暗い岩屋を潜り、巡礼を終えた身を清めるという。
   寺名の起こりが水くぐりの岩屋からだそうだ

 

 

 ←水くぐりりの長命水
  寺名の起こりの、「水潜(みずくぐり)りの岩屋」より湧き出ている長命水。
   


秩父34観音巡り3回目

2014年09月14日 | 神社・仏閣巡り

今回3回目の秩父観音霊場札所巡りは、22番札所~30番札所9ヵ寺だ。5日(金)「ちょこTrip」の日帰りツアーバス6時40分長野駅東口を出発、16時半長野駅東口に帰った。残りは4ヵ寺次回4回目10月3日巡拝で満願となる。天候不順の予報で危ぶまれたが現地は曇り空で時に日差しもあって恵まれた天候で幸いだった。

国道240号線沿い秩父市「道の駅」で、34札所巡りの地元案内人が同乗し先導する。34ヵ寺すべてが御開帳であって、堂内は撮影禁止で残念ながら御本尊は勿論堂内仏像等すべて撮影出来ないかった。

9ヵ寺の巡拝順
      26番・円融寺―27番・大渕寺―28番・橋立寺―29番・長泉寺―30番・法雲寺―
      25番・久昌寺―昼食―24番・法泉寺―22番・童子堂―23番・音楽堂

*26番 萬松山円融寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;臨済宗建長寺派 所在地;秩父市
         円融寺の本尊は、恵心僧都(えしんそうず)の作といわれる像高26糎の聖観世音菩薩である。現在は円融寺の本堂に安置されている
   が, かつては岩井堂に安置されていた。円融寺本堂から出て山沿いに行き、300段余りの石段を約30分上ると朱色の豪快な舞台造りの
   円融寺の奥ノ院といった存在の岩井堂がある。ここの展望は雄大な景色だそうだが、観世音菩薩は本堂に安置されているので岩井堂まで
   はいかず本堂でお参りした。本当は岩井堂へ行ってみたいのだが、30分もかかり観音参拝は本堂で済むのでツアーのコースには入って
   いない。 

 ← 円融寺  本堂     

   ←市指定史跡円融寺案内版
  文面;本尊は恵心僧都(えしんそうず)の作といわれる八寸七分 の立像聖観世音菩薩 
  で現在は円融寺の本堂に安置されているが、かつては岩井堂に安置されていた。
  岩井堂は寺より南へ約1.5粁に文久二年(1205年鎌倉時代)に建立した。
  周囲は急峻な地形で岩壁に覆われ、その中腹に三間四面の方形造りの美しい堂です。
  正面は京都清水寺の舞台を偲ばせます。岩窟にはその昔、弘法大師三七日の秘宝を納め
  たという護摩壇、仏国禅師の座禅石、秩父別当武基の玄孫、その子重能、重忠等の信仰も深かりし縁起もあります。本堂は昭和33年7月
  市指定の文化財「勝軍地蔵立像」像高121糎、木造寄木造りで玉眼入り鎧の上に環甲の袈裟をつけた、鎌倉時代の優秀作といわれる
  仏像が安置されています。この他、県指定文化財鳥山石燕の「景清の牢破」絵画額等もあます。   
                                  昭和40年1月25日      秩父市教育委員会指定

*27番  龍河山大淵寺  本尊;聖観世音菩薩  宗派;曹洞宗  所在地;秩父市

←大淵寺観音堂

     ←市指定指定史跡大淵寺案内版 
 月影堂(観音堂)    文面;この札所は明治・大正と2度にわたる大火で堂宇を全て
                消失しました。その後、本堂観音堂を兼ねた仮堂として
 再建されていたが、平成七年裏山を切り開き、三間四面、宝形屋根の観音堂がされまし
 た。本尊は、聖観世音です。門前には市指定史跡影森用水路跡もみられます。
 その昔行脚の僧宝明、諸国をめぐり、この地に霊境の多いにうたれ、春秋七年を過ごし
 思わぬ足の病となり行住坐臥して念誦するのみとなりました。弘法大師この地に至りてこれを愍たみ一体の観音を刻みて与えました。宝明は
 悦び吾一人拝するは勿体ないしと里人に伝え一宇の堂を建て本尊をまつり、宝明を第一祖にしたという縁起があります。
                            昭和40年1月25日       秩父市教育委員会指定

     
←護国大観音像

                
          大淵寺参道入口   参道と山門
   参道入口から、はるか頭上に大観音像が眺められる。



      「護国大観音像」   
境内から見上げる大観音像は、やさしい顔で参拝者を見守ってくれている。高さ15㍍の護国大観音は、
                 高崎観音・大船観音と共に関東三観音の一つに数えられているという。

*28番  石龍山橋立堂  本尊;馬頭観世音菩薩  宗派;曹洞宗  所在地;秩父市
    

 ←橋立堂

   ←市指定史跡橋立堂案内  
  文面;この札所は、高さ80米もある石灰岩の直立した岩壁したに建てられ、堂は三間四面、宝形屋根
     で江戸中期になるものといわれています。本尊は馬頭観世音坐像で、像高28糎の小さいもの
     ですが、三面六臂の姿はひきしまり、鎌倉時代の優秀な作として、昭和33年7月市の指定文化財
     になっています。縁日には近在から来る馬を引いた参詣者で雑踏を極めたといいます。
     以下縁起の内容は省略します。                   
                  昭和40年1月25日   秩父市教育委員会指定
  
 

本尊は秩父札所唯一の馬頭観世音で、西国、板東、秩父の日本百観音のなかでも西国第29番の松尾寺と秩父第28番のここ橋立堂だけだそうです。昔、弘法大師が柚の老木を刻んで馬頭観音とし、ここに安置したのが始まりといわれている。納経所の側に橋立鍾乳洞の入口があり、洞内は全長200㍍だという。

        
         橋立堂の後ろの岩壁                       岩壁を背の橋立堂

 境内には馬堂があり、栗毛と白馬の彫像が祀られ、左甚五郎作だとされる木札が打ちつけられている。

← 場堂の木札「黒馬左甚五郎、、、」が読み取れる 

      
        栗毛と白馬の彫
  

 



*29番  笹戸山・長泉院  本尊・生観世音菩薩  宗派・曹洞宗  所在地・秩父市

 ←長泉院 本堂(観音堂)
   ←市指定遺跡長泉院案内版  
   文面;曹洞宗の寺院で、開山は正長泉院暦元年(990)平安時代中期である。無住の
    観音堂であったが元亀2年(1571)に日野沢(皆野町)大通院より和尚を招聘、
    以降曹洞に列して寺院戸しての面目を得た。堂宇はその後何度も火災に遇ったが、
    現在の本堂は場所を移し,天保4年(1833)に建てられたものである。日本有数の
    石札が残るところから石札堂とも呼ばれ、本堂左側の竹林も寺院のたたずまいを
    際立たせている。
                    長泉院の文化財
                   *聖観世音像;ほんぞんで平安時代、慈恵大師の作
                   *石札;伝えによれば秩父観音霊場開闢のおり紀州熊野権現よりおくられたものという
                   *地獄極楽絵図;江戸時代の民衆の教化資料、4幅で構成される
                   *徳川将軍家奉納品;5代将軍綱吉公の側室来たの丸様の姪竹姫の眼病平癒祈願がかない、御礼として奉納されたものである
                         (葵御紋戸帳 他)
                   *葛飾北斎納帳;北斎の桜花之図が描かれ、文化8年(1811)北斎燈下の筆とある
                                            秩父市教育委員会

       

参道入口には大きな枝垂れ桜があり、春にはその美しさが巡礼者の疲れを癒してくれる。花の頃は、境内の花を目当てに訪れる人も多い。

        
                   境 内 の 見 事 な 庭 園 の 一 部

*30番  瑞龍山・法雲寺  本尊・如意輪観世音菩薩  宗派・臨済宗建長寺派  所在地・秩父市
  
 ←法雲寺観音堂
    ←市指定史跡法雲寺案内立札
  両立札合わせた文面;臨済宗建長寺派の寺院で、開創は13世紀中頃の鎌倉時代である。本尊は如意輪
   観音菩薩で唐
   の玄宗皇帝の作といわれる。木の坐像・1尺2寸、元応元年(1319)法雲寺開山道隠禅師が,唐より
   持ち帰ったもの。堂宇はエド初期には観音堂、本堂、仁王門等を備えていたが嘉永年間(1849頃)
   火災に遭い、観音堂のみを残し悉く焼失した。観音堂は6間4面、唐草の方形造り。過去帳に元和
   元年(1536)の建立とされている。昔日の面影を残す観音堂と4季折々の花で彩られる浄土庭園の
   調和は見事で、訪れる人々の心を和らげ手くれる。
 法雲寺の文化財
   巡礼納札;西国・坂東・秩父の日本百箇所の観音霊場となった最古の記録を物語るものである。
   桧葉;観音堂の庭左手にある樹高約20メートル、目通り周囲2.5Mである。開祖道隠仏恵禅師の
               お手植えになるものと言われている。
                                                                                                                         秩父市教育委員会

        
               法雲寺入口                            参 道

        
            庭  園                          観音堂から庫裡庭園
 文化財の桧葉は秩父市指定で天然記念物で和名「比翼ヒバ」通称「イトヒバ」と呼ばれているが、写真撮影を忘れた。

*25番  岩谷山・久昌寺  本尊・生観世音菩薩  宗派・臨済宗南禅寺派  所在地・秩父市
  
 ←久昌寺観音堂

  ←市指定史跡久昌寺案内版
 文面;この札所は通称御手判寺戸いいます。この由来は播州書写山の性空上人、秩父巡拝
  の折、閻魔大王から贈られた石の手判を当寺に納めたという。これにちなんで御手判寺
  というのである。堂は三間四面、表流れの向拝臥した方形造りで堂内には宮殿形の厨子
  がおいてあります。本尊は聖観世音立像1木造り像高56糎室町時代の作といわれす。
 その昔、上ノ山奥野の女、心荒く父母親類縁者にも疎むみ果てられ、自ら懐胎の身ながらも追いたてられ久郡の岩洞に住み,鬼女如く振る
 まい里人に恐れられていました。女のこ生まれて母に似ず神仏を尊び里人の助けにより、旅僧の持ちし観音像をまつり、母没後の菩提之ため
 にこの地を霊地にしたという、これが寺の草創である。
                                                                                   昭和40年1月25日       秩父市教育委員会指定

               
                        山   門                           観音堂より久昌寺本堂を望む

     
          久昌寺本堂                             本堂にある石の手判の写真
 
     
        本堂&本堂前の池                              本堂前の池の蓮

*24番  光智山・法泉寺  本尊・聖観世音菩薩  宗派・曹洞宗  所在地・秩父市

 ←法泉寺観音堂
  この観音堂は、回廊をめぐらした三間四面方形造りで、江戸中期の建立と思われる。
 珍しいことに、観音堂の前に仁王門をとり入れ、そのため表の唐戸が凹字形に後退して
 いる。本尊は、聖観世音菩薩で蓮華の上に座っている。昔々、武蔵国の恋ヶ窪に、口中
 の腫れ物に苦しむ遊女が居た。遊女は観音を信仰し毎朝修行僧に施しをしていたという。
 そんなある朝、秩父から来たという僧が、一本の楊(やなぎ)の枝を遊女に与え、
 「この枝で口の中をそそぎなさい」と教えた。僧の教えどおりにすると口の腫れと痛みが
 治った。以来、この寺には病の回復を願う礼拝者が多いという。

 

          

       ←法智寺入口

 ←参道の石段、117段あって登ったせまい場所に観音堂が建っている。


 

*22番  華台山・童子堂  本尊・聖観世音菩薩  宗派・真言宗豊山派  所在地・秩父市

 ←童子堂(観音堂)  この寺は正式には「永福寺」という名だが、子供にまつわる伝説
           が次々に生じ、今の「童子堂」という呼び名が著名になった。

  ←市指定史跡永福寺案内板 文面;この堂は、童子堂と称し、府坂 
  地内より現在の地、永田城跡に移したと伝えられ近くにしろ堀跡が今も現存しており
  ます。4注屋根3間4面で周囲に勾欄付の椽をつけ,欄間や扉には薄肉彫り淡彩の彫刻
  があります。山門の仁王門は、童子仁王といい稚拙であるが愛嬌のあるもので童子の名
  にふさわしい仁王門です。本尊は聖観世音がまつれております。この堂は淳和天皇の
  御弟、三品式部卿伊豫親王の菩提のため遍照僧正がこの領主に命じて草創したものといわれます。昔讚岐に怪貧な長者があって行脚の僧
  長者に食を乞えども与えられず、僧は金を払いて米を求めいぬに与えれば、この家のせがれ犬となりともに喰いいる様に親は驚き悲しみ
  大きく、長者は層に因果の道理を説かれ、その犬を引いて諸国霊場を回り当山に来て始めて元の人間になったという縁起があります。
                               昭和40年1月25日    秩父市教育委員会指定

       
 
 ← 仁王門
      毎年、5月5日に花祭りがあり、子供たちが集まり大変賑わう。
      

 

 

 



                   
 ←童子堂                        
     
   正面の唐戸(扉)には、風神、雷神、太鼓を打つ唐人などが彫られ、
   極楽にいるとされている霊鳥の迦稜頻迦(がりょうびんが)も美しい姿で
   刻まれている       

 

 

 

 ←境内にある地蔵尊
    
    左;とげ抜き地蔵尊
    右;身代わり地蔵尊
    

 

 

 



*23番  松風山・音楽寺  本尊・聖観世音菩薩  宗派・臨済宗南禅寺派  所在地・秩父市

 ←音楽寺 近年は、音楽に関する願い事をかなえてくれる寺として、新人歌手や、
     スター歌手が、ヒットが出るようにと祈願に来ることで知られている。

   ←市指定史跡音楽寺 
  文面;この札所は、秩父地方屈指の景観地にあります。観音堂3間4面ふき寄せ2重垂
  木、向拝はありませんが江戸中期の大きな堂です。内陣には唐様須弥壇に立派な厨子を
  安置しています。本尊聖観世音は一木造り檜材で、像高81糎室町時代の作です。
  梵鐘も明治5年の銘が昭和32年2月、市指定の文化財になっています。明治17年
  田代栄助を総理とする秩父事件の群衆もこの鐘を鳴らして秩父町に崩れこんだという逸話ものこっています。天長年間の昔、慈覚大師は
  関東霊地開拓の折りこの地の優れたるに感じ、聖観世音像を安置し山路を開きたもうとき数多くの小鹿現れて大師を案内せしめたため小鹿
  坂の地名となったとの縁起があります。
                             昭和40年1月25日        秩父市教育委員会指定

 ←鐘楼 この鐘の特色は、聖観音、不空羅索観音、十一面観音、如意輪観音、千手観音、
    馬頭観音の順に六観音が鐘の下部周囲に鋳造されているという。

 ←市指定有形文化財説明板 
 文面;市指定有形文化財の銅鐘は、高さ120cm,直径69,7cm
    乳頭108個がついている。この鐘の特色は、聖観音、不空羅索観音、十一面観音、
  如意輪観音、千手観音、馬頭観音の順に六観音が鐘の下部周囲に鋳造されていることで
  ある。鐘は、明治5年(1768年)に旧を使用し,再鋳したものである。(銘文があ
  るが省略)明治17年11月世にいう秩父事件は、この鐘を打ち鳴らして秩父へなだれ込んだといわれている。
                              昭和32年月8日指定       秩父市教育委員会 
    
                  
                         参道の石段                        音楽寺から武甲山と秩父盆地

 


善光寺参詣

2014年08月24日 | 神社・仏閣巡り

正月・旧盆には娘が帰郷毎年年2回は参詣しているが、今年の盆は娘の勤務の都合で盆前9日に帰郷した。12日に帰るというので、11日参詣した。陽射しの暑い日だったので午後5時過ぎに出かけた。盆・正月・彼岸の時期や何かイベント(長野はなフェスタ善光寺花回廊・長野灯明まつり等)、あるいは団体の観光客がなければ参詣者も少ないだろう。仲見世通りは閑散としており、店じまいする商店もあり6時半ごろには半分弱が閉店となっていた。来年4月~5月は御開帳で過去の例では2か月足らずで5~6百万人の参詣者が訪れている。新幹線が御開帳開始直前金沢まで延伸するが参詣者も増加するかどうか。

                     
          仁王門              仲見世通り             六地蔵            濡れ仏             山門               大香炉

                    
  大本願時(時間外で閉門)      大勧進          延命地蔵           釈迦堂           親鸞聖人像             経堂

 

           
        本堂左側                本堂右側    

 



      善光寺本堂

         
                     仲見世通り中央西側にある旧如来堂跡地藏尊。
        

 

  世尊院釈迦堂;釈迦堂とも呼ばれているこの寺は、本尊は釈迦涅槃像を安置して
    いる。釈迦涅槃像というのは、お釈迦様が入滅する姿を表したもので、寝釈迦とも
    呼ばれる。鎌倉時代の作といわれる世尊院の釈迦涅槃像は、全長1・66m、重さ
    約487kg のわが国唯一の等身大銅像。

   仲見世通り旧如来堂跡地蔵尊の前の道を東に30m程入った所にあり、善光寺
 御開帳の際はここにも回向柱が建つ。

 

 

       
    山門の西側にある仏の足跡、山門にジョギング等運動する方お参りすると御利益があると立て看板があった。
 

         
     親鸞聖人像 本堂前大香炉左側にある、本堂外陣びんずる像の左にある植木鉢の松がお花松

  

            

 

 

 
    本堂前両側にある道具塚、何の石なのか見落としそうである。 

         
                     濡れ仏  山門の手前右側にある。
    

      大勧進外堀の蓮;大賀博士により発見された2千年前発見された蓮の種子を発芽
    させ開花させたものので、昭和45年十日町観蓮会が寄贈された蓮。
     大勧進の入口の付近くで主催者は忘れたが葉のついたの蓮の茎(空洞になってい
  る)の葉に酒を注ぎ50cm~1m程の茎の先で飲む行事があった。数年前飲んだ
  記憶があるが変わった趣向である。
      京都三室戸寺の蓮は有名で「蓮酒を楽しむ会」があり毎年旬にハスの葉を杯代わり
  にお酒を注ぎ、茎をストローにしてお酒を飲んでいるという。古代中国から伝わる
  客をもてなす最高のお酒として知られ、象鼻酒・象鼻杯と称され、不老長寿、暑気
  払いに効ありと伝えられます


     御開帳後の回向柱;
   御開帳が終了すると経堂の裏手にある小さな林の中に移されている。
   一番左が前回平成二十一年御開帳の回向柱、年々根元が腐朽して短くなって
   行く。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


秩父札所34観音巡りー2回目

2014年06月16日 | 神社・仏閣巡り

今回葉2回目である。前回と同じ長野駅東口6時40分に出発、11番から21番まで11ヵ所回った。先達は先達会の小泉さん、86歳と云うが矍鑠としており18番札所で同乗した。巡拝した順序は、18番―11番―15番―12番―13番―14番―16番―17番―19番―20番―21番であった。天気予報の通り長野県は曇りだったが、群馬県には入ると雨となり巡拝中雨であった。

*18番 白道山 神門寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;曹洞宗 所在地;秩父市
    
要旨;この札所はもと修験寺で神戸山長生院"といい今宮坊に属して栄えたと云われている。
多くの建物があったが江戸中期寛政の頃焼失し、その後再建されたが今の堂宇は天保の頃造
られたものと云われている。堂は宝形銅瓦葺きで三間4面小さいながら整った建築であり、
本尊は、聖観世音菩薩立像で、両手に蓮の花を持つ珍しいもので、高さ102糎室町時代の
作と云わられている。昔、ここは神社で大きい榊があり、その枝が左右に分かれて空に伸び
て結びあい、楼門のようだったので神門と称したと云う。年を経て木も枯れ神社のすたれる
のを見て里人はこれを再建しようと神様に伺うと不思議にも巫女を通じて"寺にせよ"とお告
げがあり、里人はお堂を建て聖観世音菩薩を安置し国家の安泰を祈り永久霊場にしたと云う
縁起がある。
        昭和40年1月25日      秩父市教育委員会指定

        
                  本    堂                回 向 柱            中央前向き先達さん            

*11番 南石山 常楽寺 本尊;十一面観世音菩薩 宗派;曹洞宗 所在地;秩父市


     要旨:この札所は、江戸時代には観音堂、仁王門庫裡を備えた立派な寺だったが、明治
 11年秩父大火で全てを類焼した。本尊は11面観世音で、ほかに釈迦如来もまつって
 ある。その昔、この寺の住持、門海上人は、仁王門建立を志し、多年勧化に心をくだい
   たが、普請なかばにして重い病となり、本願の達しがたいことを憂い、本尊に快気を祈念
 すると、ある夜、黄面の老僧、金銅神を従いてあらわれ、「門海の病気吾能治すべし」と
 いい、金銅神に上人が肩を引き立てられるところにて夢さめ、たちまちに病い全快し、
 仁王門建立の本願を遂げたという縁起がある。またこの寺は明治初年までは天台宗の寺で
 あった。比叡山中興の祖元三慈恵大師をお祭りし、曹洞宗になっても一月3日には大勢の
 参詣でにぎわっている。
          昭和40年1月15日      秩父市教育委員会指定 


        
 観音堂(現在の観音堂は明治一三年に再建されたものだという。)         参  道

 *15番 母巣山 少林寺 本尊;十一面観世音菩薩 宗派;臨済宗建長寺派 所在地;秩父市
  札所十五番は、草創期より、江戸幕府末期までは、母巣山蔵福寺と呼ばれ、秩父妙見宮(秩父神社)の別当寺として栄えてきたようだ。
  明治の世になり、排仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響で廃寺となったが、その後、同地 柳島(現東町)にあった五葉山少林禅寺が、
  民衆信者の誓願によって民制役場の許しを得て、札所として母巣山少林寺とみとめられ、信仰を集めているそうだ。

        
                回向柱と本堂                    本    堂
  

  ← 天上に無数の納札

 昔、お寺にお参りした遍路は金属や木でできた札を、参拝した印に山門や本堂に打ち
 付けて行った。このことからお寺を“札所”と呼ぶようになったという。

  

 

   

                               

   ← 秩父事件で殉職した警察官の墓
 
     明治17年の秩父事件は、生糸相場の大暴落や繭の不出来によって現金収入が断たれた
   農民たちが武装蜂起し高利貸しなどを襲撃した事件である。

 

 


*12番 仏道山 野坂寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;臨済宗南禅寺派 所在地;秩父市
  この札所には、その昔、甲斐の商人種々の具を商い来て秩父の山路に至り賊に遭い、命も危ないとき一心に観世音を唱えるに不思議や
  賊難を免れたという。商人は、後に、観音の利益を敬い甲斐より秘蔵の聖観世音の立像を安置し、この野坂寺を建立したという縁起が
  ある。山門は重層入母屋造りで左右の花頭窓の内に十王像が安置され保元年(1741)の建立と云う。

     参道を行くと重層楼門造りの山門が立ある。山門の左右の花頭窓の中には、閻魔大王をはじめとする十王像が並んでいる。

      
         参  道                       山  門

      
                   山  門  内  観  音  像                

    
          本  堂                  拝向の3頭の巻龍

秩父札所境内に十三佛が祀ってあり、両親供養に訪れる人が多いという。また、十二支の守り本尊として深く信仰されているようだ。
空蔵菩薩・丑寅歳・不動明王・酉歳・文珠菩薩・卯歳・大日如来・未申歳・普賢菩薩・辰己歳・千手観音菩薩・子歳・阿弥陀如来・戌亥歳

      
        
                    十  三  尊  仏  像                                                    

      
                    境  内  の  庭  園 

*13番 旗下山 慈眼寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;曹洞宗 所在地;秩父市

 要旨;この札所の本尊は聖観世音菩薩で、お堂は、三間四面、表軒唐破風つきの流れ向拝
 をふして、入母屋づくりの屈指の建物です。明治11年3月の秩父大火に類焼し、再建さ
 れた。屋根の正面に千鳥破風、唐破風様の流れ向拝を付け、うす肉彫の枝輪、絵画
 のある格天上は荘厳です。県指定旧跡で、文政明治之徳行家井上如常の墓も境内にある。
 街の中心の一角にあるこの地は、昔より霊地としてその名も高く、日本武尊東国征伐の
 おり、この地に旗を立てさせた故、ハタノの下といわれ、年を経てハケノ下と呼ぶように
 なったという。また、薬師如来は「あめ薬師」といい、眼病平癒に功徳あらたかで、
 七月八日の縁日は、多くの参詣人で賑わい秩父の夏の風物詩となっている。
        昭和40年1月25日      秩父市教育委員会指定

 

               
                      山    門                       本   堂(観音堂)
  
  

    薬師堂 
      慈眼寺の本堂のすぐ右にある薬師堂は、目の守り本尊として有名で、「め」と書かれ
      た絵馬が奉納されている。毎年7月8日の“あめ薬師”と呼ばれる縁日は、境内に飴を売
      る露天商が並ぶという。

 

 


             
  ←  経蔵
   薬師寺の右側に経蔵がある、市の文化財となっている一切経が奉納されている。
   経典は輪蔵という、押すと心柱を中心にして回転する六角形の棚に入っている。
   この棚を回転させると全巻を読んだと同じ功徳を得ることができる、といわれて
   いる。            

 

 


 

       
          経蔵内の輪造                     経蔵内の仏像                 
 
*14番 長岳山 今宮坊 本尊;聖観世音菩薩 宗派;臨済宗禅寺派 所在地;秩父市
   
  
  要旨;この札所は、秩父札所信仰に深い関係をもった修験道場の大宗今宮坊が
     あり、その中心的建物は今宮神社でした。本堂は三間四面表流れの向拝、
     方形造りの建物です。本尊は、聖観世音木造漆箔、半跏座像で像高57.
     7糎江戸初期の作です。このほか、市指定有形文化財飛天像は,像高33
     糎跪座して雲にのる姿で曲線美にとんだ異色ある見事な仏像です。
     本尊は雲中出現の霊像と称され、弘法大師霊像を刻まんとして雲中より大
     悲の像現れしを喜び、ついに菩薩の像を得てこの地に安置したという縁起
     もある。
           昭和40年1月25日   秩父市教育委員会指定

近隣の今宮神社は龍神様を祀る古社で、100mほど離れた場所にある観音堂までが今宮坊の寺域であったらしい。
明治維新の神仏分離令により現在の形になったとのことである。今宮坊は、「長岳山正覚院金剛寺」と称し、修験道の本山で有名な京都聖護院の直末寺であったとのこと。

         
   観音堂;今宮坊は秩父札所でも古い格式のあるお寺で、        境内にある樹齢500年の欅
       元は今宮神社内に観音堂があった。

*16番 無量山 西光寺 本尊;千手観世音菩薩 宗派;真言宗豊山派 所在地;秩父市
     昔、円比丘という僧がいた。ある夜、月を眺めていると老婆が現れ、「観音様をまねくからどうか私の菩堤を弔ってほしい」と
     言って姿を消した。円比丘がさっそく霊を供養すると、約束どおり観音像を授かり御堂を造つて納めた。それが西光寺の千手観
     音様といわれているそうだ。秩父霊場には真言宗寺院が3ヶ寺あるがその一つだ。他の観音霊場に比べると極めて少ないらしい。

      
        山     門                   本     堂
   。
       
    

   住職は仏画を書いており、巡拝が訪れると両手で同時に一気に描き上げる技を見せて
   くれた。勿論それを売っており、早速買い求めた方もいた。多くの仏画が展示されて
 おり、なかなかユニークな住職である

 ←両手で同時に描いている。

 

            

       
           特別霊場; 四国八十八ヵ所の本尊の模像が祀られている廻廊
   天明三年(1783)の浅間山噴火により、秩父地方は降灰で農作物や家畜は大被害を被り、多数の犠牲者が出た。
   時の住僧 法淳はその供養と天下泰平を祈願し、四国八十八ヶ所の写し本尊を勧請し寛政七年(1795)廻廊堂を建立した。
   昭和51年(1976)には解体修理し、現在に至っているとのことである。

        
  招福・樽大黒;境内の左側に、茅葺き屋根をのせた      札堂;この札堂は、現在の本堂が建てられるまでは、
   大きな酒樽があり、1日3合、30年分の酒が入るという。    本尊が安置されていた観音堂だった。柱には納札(木札)を
   中にこぶりの大黒天が祀られている。            打った釘や釘跡が無数残っている。

*17番 実正山 定林寺 本尊;十一面観世音菩薩 宗派;曹洞宗 所在地;秩父市
  昔はここが1番寺で檀家の人が守っているのだそうだ。

 要旨;  
  この札所は四間四面の簡素で均斉のとれた堂です。内陣は古風な阿弥陀堂のように 
 念仏回廊が回っている。本尊は十一面観世音立像で、像高55糎の寄木造り、願主
 武州武国郡法印元暁の銘があり、文禄2年発丑3月23日開眼の墨書がある。
 梵鐘は、日本百番観音霊場の本尊とご詠歌を鋳物出した珍しいもので、工芸品都市て
 昭和39年3月県指定の文化財になっている。又、安政、明治の徳行家、井上如常の
 父青岳の描いた狩野風な絵の掲額もある。縁起には、壬生の良門の忠臣林太郎定元は
 主の無道を諌めかえって家財を没収され、当地に来て没した。その遺子空然はこの地
 に養われ成人の後、父の菩提之ため当寺を建立したとあります。
           昭和40年1月25日     秩父市教育委員会指定

      
       本    堂                     梵   鐘
 
 要旨; 埼玉県指定有形文化財  銅鐘
   この鐘はその周囲に秩父・板東・西国の霊場百ヶ所百観世音の御本尊像が浮彫に
   鋳出され百ヶっ寺の御詠歌が刻まれてある、精巧な作で貴重な工芸品として、
   有形文化財の指定を、受けております。(昭和39年3月27日)
        宝歴8年正月16日(1758年)
   施主 武州大里郡上新田住  柴田信右衛門藤原豊忠
   鋳師 武州比企郡上小用村  清水武左衛門清長 作
       

 

*19番 飛淵山 龍石寺 本尊;千手観世音菩薩 宗派;曹洞宗 所在地;秩父市
    この札所は、大きい一面の岩盤上に建てられている。観音堂は七間半四面表流れの向拝をふした宝形造り(ほうぎょうづくり)だが、
    屋根が傷み、雨もりがひどくなったので、諸仏を他の寺に預け地元観光協会の青年部が中心となり、浄財を募り昭和47年解体復元
    された。

 ←  三途婆堂の前にある龍石寺之立札
 要旨; この札所は大きい一面の岩盤上に建てられている。7間半、4面表流れの向拝
  をふした方形造りの大きな観音堂。近年寺の荒廃を憂い広く浄財を募り、昭和47年
  解体復元が成り、その折宝永2年の墨書が発見さた。薄暗い堂内には閻魔を始め、十
  王像など冥途の恐怖を強調するもの、三途の川の脱衣婆をまつる三途婆堂もあって
  仏教の暗い一面をみせる札所でもある。本尊は、千寿観世音座像で像高49糎寄木造り
  で室町時代の作です。昔、この地方に大旱魃があり,弘法大師は天皇の勅により雨を祈
  られたところ、この大盤石二つに割れ、神泉苑より竜が昇天し、雲を呼びたちまち雨降
  り人畜草木みなよみがえり大豊作を得たという縁起があります。
          昭和40年1月25日     秩父市教育委員会指定

          
        岩盤の上に建つ龍石寺                      観 音 堂

   ← 三途婆 (右前の立札は冒頭の説明文)
       三途婆(さんずば)堂には、死者の衣を脱がせる奪衣婆(だつえば)と
       閻魔大王(えんまだいおう)、賓頭廬(びんずる)尊者の三尊が祀られ
       ている。

        

 

 

*20番 法王山 岩之上堂 本尊;聖観世音菩薩 宗派;臨済宗南禅寺派 所在地;秩父市
    岩之上堂は、その名のとおり荒川河岸の崖上にある。観音堂は三間四面方形造りで流れ拝向を付けている。
 
 ← 秩父市教育委員会・秩父市文化財保護審議委員会が昭和32年
     2月8日指定した有形文化財指定の立札。内容は左の史跡指定立札と同じ。 

 ← 史跡指定立札 
 要旨;この札所は3間四面方形造りで他の堂における指折りの建築で、延宝初年、内田家
 先代、内田武左衛門尉政勝の再建によるものといわれております。現在の堂はエド中期の
 造営と思われますが、元禄年間に内陣の補修、宝永年間に彫刻の補修を経てきたもので、
 唐模様系統の建築で優秀な造りとされております。本尊h聖観世音立像でたかさ71糎、寄木漆箔、藤原時代の作と言われ、市指定有形文化
 剤になっています。昔、人皇72代白河院の勅によって建立された荘厳な堂であったといわれ、応仁の頃から次第にすたれ、本尊のみ岩の上
 にさらされた時もあったと云われ、幾多の伝説もあります。札所にまつわる孝子話、乳水場の霊験も縁起とされております。内陣には見事な
 春日厨子の形式による厨子があって、33身と日天、月天像、風雷神像などの像がはられ、札所の中でも優れたものと共に貴重なものです。
                          昭和40年1月25日         秩父市教育委員会指定

      

 岩之上堂(観音堂)
    札所20番は秩父札所中最古の建物で境内は荒川に臨む断崖の上にある。
          昔、川向こうに住む母の安否を尋ねて増水した荒川を渡ろうとした孝行息子を、
           この岩之上堂の聖観音が童子に化身して舟を漕ぎ渡してくれたという。        

 

 

 

         
          参 道 入 口                      参     道 

*21番 要光山 観音寺 本尊;聖観世音菩薩    宗派;真言宗豊山    所在;秩父市 
  
    要旨;
  この堂は、通称矢の堂と称し、本尊は聖観世音で他に幾体かの仏像がある。
 大正12年小学校火災により類焼後、今の堂が作られた、焼失前は三間四面の堂であった
 といわれ、境内には聖観世音立像、百満遍念仏塔、弁財天石塔、芭蕉句碑等があり盛時が
 偲ばれる。堂前の道端には地芝居役者の座頭中村十九十郎の墓もあって地芝居隆盛の昔を
 偲ぶ民俗資料としても貴重です。昔この地は、元八幡宮の社地で神託により観世音の霊場
  になったという。邪神悪魔を除き仏地にせんと八幡大菩薩の放出る神矢がここに落ち、
 悪魔退散したるため名づけて矢の堂をなすという縁起がある。
         昭和40年1月25日    秩父市教育委員会指定
 

  ←観音堂
  
   その昔、行基菩薩がこの地を訪れ、八幡の社地に「聖観音」の像を刻み、祀ろうとし
  た。これを伝え聞いた所の悪鬼共が、観音像の開眼の日に火の雨を降らせて妨害した。
  その時白馬にまたがった八幡神が現れ神矢を放ち悪鬼を打ち払ったという。      


秩父札所34観音巡りー1回目

2014年05月28日 | 神社・仏閣巡り

昨年の信濃33番札所巡りは、社長自ら先達を務める巡礼専門の観光会社「はと観光」で巡拝したが、当然ながら秩父34観音巡りも「はと観光」に企画があった。又、何時も利用している観光会社「ちょこTrip」にも企画があった。多分今年は秩父34観音すべての霊場が午年御開帳とあって企画したのだろう。今回は地元の秩父先達会の先達人の案内があるという「ちょこTrip」にした。

観音霊場の中で秩父34観音は西国33観音、坂東33観音と共に日本百番観音と称され、百観音にするため秩父の札所に1霊場を追加34観音としたいう。御開帳は秩父札所34ヶ所の本尊が、普段、秘仏として扉が閉じられており、観音様の御眷属の馬にちなみ、昔から12年に1度の午年に扉を開いていた。

 秩父34観音霊場
           1 番四萬部寺  2番真福寺  3番常泉寺  4番金昌寺  5番語歌堂  6番卜雲寺  7番法長寺     8番西善寺     9番明智寺  10番大慈寺  
       11番常楽寺  12番野坂寺 13番慈願寺 14番今宮坊 15番少林寺 16番西光寺 17番定林寺 18番神門寺 19番龍石寺  20番岩之上堂
  21番観音寺  22番童子堂 23番音楽寺 24番法泉寺 25番久昌寺 26番円融寺 27番大淵寺 28番橋立堂 29番長泉院  30番法雲寺
  31番観音院 32番法性寺  33番菊水寺 34番水潜寺

第1回は1番から10番まで10カ所の札所を先達の案内で1番ー3番―10番ー9番ー昼食―9番ー8番―7番―6番―5番―4番ー2番の順序でまわった。秩父札所の先達を検索したら、秩父札所連合会があって、連合会には秩父先達会・霊場案内人会・札所温もり案内人があった。今回の先達は秩父先達会で、案内人の苗字がなんと「秩父」だった。信濃33札所巡りには先達の組織はなかった。
秩父34観音霊場は殆どが秩父市・横瀬町内に存在しており、これ程一か所に纏まっている札所は珍しいと思うのだが?。
秘仏の御開帳なので、すべての霊場とも厨子内は勿論堂内も撮影禁止で、写真に残せなのは残念だが致し方ない。観音像の右手から5色手綱で堂外の回向柱に
結ばれている。

10時半頃、秩父菓子処「栗介」(秩父市黒谷 和銅鋼泉旅館経営)駐車場で先達さんが乗車し、10分程で1番札所札所に到着。以下10番札所まで1っか所およそ30分程かけて巡拝した。

*1番 誦経山四満部寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;曹洞宗
 所在地;秩父市
    50cm 程の美しいふっくらとした一本造り江戸時代の観音菩薩像で行基作といわれている。観音
堂の欄間には地獄の図、極楽の図
    が彫刻されていた。昭和33年3月県指定文化財になっている。境内に建つ施餓鬼堂では毎年八月二十四日、「四萬部寺の大施餓鬼
    会」が行われているそうだ。

   
      
       四満部寺入口と千達の秩父さん                 観音堂と回向柱

                                       
                           四満部寺山門                   施餓鬼堂  中に八角輪蔵がある

3番 岩本山常泉寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;曹洞宗 所在地;秩父市
           明治三年、秩父神社にあった薬師堂を移築したもので、一番四萬部寺の観音堂を作った秩父の名匠、藤田徳左衛門吉久の造営と伝わ
   っている。本尊は聖観世音、立像一木造り、高さ約97センチメートル、室町時代の作であるという。札所の周囲には、長命水の
   井戸、眼病を祈る不瞳の石、子持ち石などの伝説がある。
                                                                                                            
       

      市指定史跡札所三番 岩本山常泉寺 秩父のアジサイ寺
要約;この札所は三間四面、表に一間の大唐は破風の向拝をふし、建築彫刻として繊細をきわめています。特に竜の彫刻をほどこした向拝の海老虹梁のかごぼりの細工は実に見事です。彫士は飯田和泉と云われるもので明治三年、秩父神社の薬師堂を移築したもので
江戸後期の建築物であります。(以下本尊やこの堂にまつわる伝説が記されている)
                                                  昭和40年1月25日秩父市教育委員会指定

        常泉寺本堂

       
         観音堂                        伝説の子持ち石

*10番 満松山大慈寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;曹洞宗
                  室町中期に東雄禅師が再建し開山したという。本堂は玄関風の向拝、奥中央が内陣で配し江戸時代の建築であるそうだ。山門には
     左右に仁王尊を安置されている。この寺には本尊の外多くの仏像があり、特に子育て観音(金銅仏)は庶民的に親しみ
のもてる
     仏像で素朴な彫刻に特徴があるという
。他に地蔵菩薩の寄木造り十一面観音等が安置されている。

          
          山門へと続く参道                       本  堂

         
          山門(仁王門)奥に本堂                  玄関風の向拝

      
*9番 明星山明智寺 本尊;如意輪観世音菩薩 宗派;臨済宗南禅寺派
              明智寺は、1191年明智禅師の開創と伝えられ観音堂は明治16年焼失したという。現在の建物は民家風の観音堂で右手納経所、左に
    庫裡が、ある。またこの寺は安産子育ての観音として有名であり、1月16日の縁日には各地より女性参詣者で賑わうという。
    観音堂の境内には室町時代のものと思われる三基の青石板碑や、その昔女性の願いを納めたと云うふみ塚があるそうだ。
    
山門もなく開けっ広げの境内に、柱や扉の朱色と白壁の観音堂が建っている。観音堂は二間六面の六角堂形式である。 平成2年
   (前回の丑年開帳)に再建された六角堂である。住職はおらず近隣の人がお堂のお世話をしており、安産・子育て、眼病治癒の
    観音様であるという。

   町指定文化財 昭和48年1月31日指定
 秩父観音霊場札所九番 明智寺  横瀬町教育委員会   本尊 如意輪観音
 要約;建久2年(1191)明智禅師の開祖。3間5尺4面で建立、明治16年(1833)
    落雷により焼失した。その後長く民家風の仮堂であったが、平成2年現在の観音
    堂が再建された。安産子育ての観音として知られており、1月16日縁日には
    各地より女性参詣者で賑わう。境内には室町時代の板石塔婆3基や、女性の願い
    を納めたという石碑「文塚」がある。

    六角の観音堂

*8番 清泰山西善寺 本尊;十一面観世音菩薩 宗派;臨済宗南禅寺派
    境内の庭いっぱいに枝を張った1本の巨木がある。樹齢約600年の「コミネモミジ」の巨木で東西に20m、南北に18m
も枝を張り,
              
樹高が1mあるという。西善寺は「ボケ封じ延命長寿の寺」「嫁・姑円満成就の寺」といわれているそうだ。西方浄土の阿弥陀三尊
    を祀るかららしく、三尊のご利益により、この世を去るときは安楽往生できるということのようだ。毎月15日には「ボケ封じ長寿祈
    願会」も行われているという。本堂は軒唐破風の向拝をもっており、外陣は土間になってい。 

    
       
              西善寺山門                       本堂                       

       
          本   堂                   樹齢約600,年の「コミネモミジ」

*6番 向陽山卜善寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;聖観世音菩薩
    卜雲寺の寺宝として清涼寺式釈迦像、縁起絵巻があり、観音堂は明治9年の火災で全焼現在の建物はその後のものであるという。
    「卜雲寺」という珍しい寺名は、この寺の開基とされる嶋田与左衛門の法号が「卜運源心庵主」である事が由来らしい。

      
      卜善寺観音堂            境内の聖観音石仏像;行基策と伝えられ古くは武甲山頂の蔵王権現社に祀られていた。
   

*7番 青苔山法長寺 本尊;十一面観世音菩薩 宗派;曹洞宗
             法長寺の観音堂を、別名牛伏堂(うしぶしどう)と呼ばれており、牛伏堂はもと根古屋(牛伏)にあったが江戸時代札所再編の折、
     法長寺に移されたという。本堂は平賀源内の原図によって建てられたと伝えられ、間口10間奥行き9間瓦葺入母屋造りで札所一の大き
    な建物だという。 内陣のまわりには極彩色の彫刻欄間、格天井には花鳥が画かれている。観音堂は別棟にあったが天明2年(1782)
     焼失し、
それ以来観音像は堂内には安置されている。

        

  山門;   山門に「不許葷酒入山門」の石柱が立っている。酒は心を乱すので、
    
清浄な寺内に入ることは許されないという意味の石塔である。
       










             
   本堂;江戸の科学者平賀源内の設計によるものと              庭    園  
       伝えられ、秩父札所の中で一番大きい建物である。         
       
   
*5番 小川山語歌堂 本尊;
胝観世音菩薩 宗派;臨済宗南禅寺
    本間孫八という人が、慈覚大師の作と伝えられる准胝観世音菩薩を安置するために観音堂を建立したと云われている。
              「語歌堂」の名は、本間孫八が、一人の旅僧と和歌の奥義を談じ合ったとき、本間孫八は、旅僧が観音の化身であったと悟り、
               旅僧が訪れた堂を歌を語る堂(語歌堂)と名づけ、准胝観音を安置したと云われている。

          
           語 歌 堂                       山    門

*4番 高谷山金昌寺 本尊;十一面観世音菩薩 宗派;曹洞宗
    県指定民俗資料石仏群のある寺として知られ、本堂は、三間四面、様式は唐風の江戸中期の建築であるという。本尊は、十一面観世
    音立像で、像高107センチメートル、室町時代、行基菩薩の作といわれている。大きな草鞋(わらじ)がかかった朱塗りの山門を
    くぐると、境内の斜面は1300体余りの石仏で埋め尽くされている。

        
         観 音 堂              石仏;
石仏の寺として有名である。1300余体あるという。

       
       山門;大草鞋がかかっている                参道のつつじ

*2番 大棚山真福寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;曹洞宗
    真福寺は、無住で標高665mの高篠山の中腹、約300mの高所に建っており、今回の札所巡りでは麓の納経所の光明寺の参拝で
    すました。
長享二年の秩父札所番付には、真福寺は入っていなかったが、その後、西国・坂東・秩父で合計百ヵ寺とする際に加え
    られたという。

    
           光明寺本堂

    


        


熱田神宮初詣

2014年01月25日 | 神社・仏閣巡り

 1月17日「熱田神宮初詣とセントレア散策」の日帰りツアーに行って来た。熱田神宮は参詣したこがなかったので、1度は行ってみたいと思っていたが、丁度ツアーの企画があった。マイカーや交通機関の利用は高齢者には大変、目的地に連れて行ってくれるツアーが大変便利だ。自由に自分の時間が取れない難点はあるが我慢する。今回は熱田神宮の参詣が目的で中部国際空港セントレアはどうでもよかったが、ツアーなので仕方がない。

1人での参加者男性2人・女性5人、夫婦7組14人の計21人だった。普通この種のツアーは4~5名の団体客等添乗員・バスガイド之説明など全く聞かずにぎやかなだが、今回は夫婦と1人での観光客のためか全く静かであった。休憩時添乗員と話をしたら、全く同感でしゃべるのも悪いのかなと思うほどだと言っていた。

*熱田神宮
 11時頃到着、初詣と思われる参詣客で賑わっていた。添乗員の話では年間650万人の参詣客が訪れるそうだ。
 
善光寺と同程度の参詣客だ。三種の神器の一つ草薙剣がまつられていることは承知しており、旅行会社の栞にもあったが
 いわれは「素戔鳴尊が退治したやまたのオロチの尾より出た剣と言われている。その後日本武尊が野火の難の際にこの
 剣で草を薙ぎ難を逃れた事から草薙剣に変わった。」ということのようである。
 
  ・熱田神宮の御祭神などに関しては、旅行会社の栞や百科事典Wikipediaによれば次のようだ。

  [日本武尊のお妃の宮簀媛命が草薙ぎの剣を熱田の地に祀った事が起源で、伊勢神宮に次ぐ別格に尊いお宮として、
   
式内社名神大社)で尾張国三宮である旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社である。  
   
宮中の 四方拝で遥拝される一社で、国家鎮護の神宮として「熱田さま」「宮」と呼ばれ、したしまれているそうだ。
   神紋は「五七桐竹紋」である。又
、剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも、熱田神宮に保管されたままともいわれている

     ○主祭神
       ・熱田大神

         三種の神器の1つ・草薙神剣(くさなぎのみつるぎ、草薙剣・天叢雲剣とも)を神体とする天照大神指す
        としている。

      ○相殿神
       ・
天照大神(あまてらすおおみかみ)
        ・素盞嗚尊(すさのおのみこと)
        ・
日本武尊(やまとたけるのみこと)
        ・
宮簀媛命(みやすひめのみこと)
        ・
建稲種命 (たけいなだねのみこと)

   御祭神の熱田大神とは草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解は、熱田大神は草薙剣を
   御霊代・御神体としてよらせられる天照大神のことであるとしている。 しかし、創建の経緯などからすると日本武尊
   と非常に
かわりの深い神社であり、熱田大神は日本武尊のことであるとする説も根強い。]

古事記による神話に出てくる、やまたのオロチ・草薙剣・因幡の白ウサギ(大国主命)など小中(旧制)学生(戦時中の事)の頃、面白く聞いた記憶があるが古事記は読んだことがない。現代語釈が青空文庫(インターネット上の電子図書館)にあったので読み始めたが、A4で85頁、現代語といっても非常に解りにくい文言で未だ読み切れない。古事記の神話は戦中戦前に育った者にとってはいろいろと思い出が深い。

   
          正      門                           本        殿

 

   南新宮社
     御祭神は素盞嗚尊で境内唯一の朱塗りのお社

 

 

 

 

   ←佐久間燈籠  
     佐久間大膳亮勝之が寄進した高さ約8m の大石燈籠

                   
              南    神    池
 

           
                      二十五丁橋
       板石二十五枚を持って造られている名古屋最古の石橋 

   

   

  ←大楠

          
                   信   長   塀   
   日本三大塀の一つ。織田信長が桶狭間の合戦で戦勝のお礼に
   奉納したもの

 

 *中部国際空港 セントレヤ
  12時半ごろ中部国際空港に着く。4階スカイタウンに行き自由散策。名古屋名物きしめんで昼食をとる。
  展望デッキに行き離発着する飛行機を見る。広いデッキだが観客は数人、真冬で潮風が冷たい早速スカイタウンに降り散策。
  飛行機の乗降客以外の観光客が多かった。男一人ではショッピングもせず身の置きどころがなく、15時出発まで1時間半程度、唯ぼんやり
  べンチに腰掛け休んだ
り散策したり退屈で困ったが仕方がない。展望風呂があったので入ればよかったと思うが、天然温泉ではないので
  敬遠した。

       
                                展 望 デッキ か ら 

15時頃出発長野駅東口19時45分ごろ到着した。たいくな時間もあったが有意義なツアーだった 。   

 

 

 


信濃33番札所めぐり第5回最終回

2013年11月20日 | 神社・仏閣巡り

11月2日「信濃33番札所めぐり」今回5回目で再終回である。

 長野東口7:00───飯山小菅・19番菩堤院───須坂・10番高顕寺───長野(昼食)───中条・30番正法寺
         ───中条・31番広福寺───小川・32番西照寺───小川・33番高山寺───長野駅東口18:00

*19番小管山菩堤院  真言宗  本尊 馬頭観世音菩薩
  戸隠山、飯綱山とともに 北信濃の三大修験道場のひとつで、小管山大聖の一つだったが廃物希釈の際小管
  神社となった。その際寺院の一つ桜本坊が仏教寺院菩堤院として残されたものだという。

   
                 参      道                                観 音 堂

   
  
 金網の隙間からの撮影、中央が馬頭観世音菩薩               馬頭観世音菩薩   

 *10番妙徳山高顕寺 真言宗豊山派  本尊 千寿十一面観世音菩薩
   鎌倉時代末期の元徳年間には32堂の伽藍を配す荘厳な寺であったという。本尊の千手千眼観世音菩薩は
   鎌倉時代末期の木彫仏で、平成19年に改修された観音堂に安置されているそうだ。

    
          大谷不動尊里堂                              本  堂

  
        観音堂 大悲殿                             馬頭観世音菩薩

*9番蓑堂山蓑堂  宗派不明 本尊 十一面観世音菩薩 愛称 べべ出し観音

観音堂は蓑堂山山頂に建てられていたが、昭和40年~42年の松代群発地震によって山頂付近が崩れ観音堂も傾いた。 現在は道が寸断されて通行できない
観音様は麓の樋口政宏さん宅で預かり、納経所ともなっている。

   
   左端がが蓑堂山                            蓑堂山

 

 観音様を預かっている樋口宅
 
 
 「べべ出し観音」とも呼ばれるのは、急峻な坂や岩場をよじ
 登って参拝する際、女性の着物の裾が乱れ、後ろから登る
 男性の目に思わぬ“ご利益”があったからだとか。江戸時代
 後期、祭事で村が留守の間に火事が起きたことから「お祭
 り嫌いの観音様」としても知られているそうだ。

 




   
                        樋口家の縁側にある十一面観世音菩薩

*30番歓喜山正法寺 真言宗豊山派 本尊 聖観世音菩薩
  本尊の木造聖観音立像は、行基より時代が下がる藤原時代中期(900年代)の作という。江戸末期、日照りに
  苦しむ村人がワラでつくった龍にこの観音様が生命を与え、たちまちに雨を降らせたという伝説があり、雨乞いの
  ご利益で知られている。大悲殿の厨子に納められている聖観世音菩薩は両手首が欠損していて、格子戸の間
  から写真だけが覗き見できる。  
     

   
  観世音菩薩の写真 添乗員が借りて見せてくれた               大 悲 殿

*31番椿峯山広福寺 曹洞宗  本尊 聖観世音菩薩 愛称 乳出し観音 
  虫倉山の西南麓、山懐に包まれるように観音堂が建っている。弘化4年(1847)の善光寺地震は、善光寺の周辺
  のみならず、水内郡下の多くの場所に地滑り、山崩れなどの被害をもたらしたが、中でも虫倉山の山崩れは大規模
  で、多くの被害者が出た広福寺の背後の斜面も大崩落を起こし、土砂が村に押し寄せたが、お堂を潰したところで
  奇跡的に止まった。そこで村人たちは、観音様が山崩れから村を守って下さったと喜び、五輪塔などを掘り出してま
  つり直したという。
  お寺の本堂は無く、昭和52年(1977)再建された観音堂だけが有る。旧中条村の御山里高福寺地籍に有り、
  虫倉山の高福寺(天神城)コースの登山口でもある。 
  
          観世音観音像                               観 音 堂                                                    
*32番椿峯山西照寺  宗派 元真言宗 本尊 聖観世音菩薩
  開基や盛衰の歴史について、詳しい記録はないようだが、付近の地名に「寺屋敷」「大門」「仏迎田」などが残ってい
  ることから、地域の人々の信仰篤い大寺だったらしい。善光寺地震による崩落をはじめ、数度にわたる山崩れに
  遇って、堂宇はことごとく地中に埋まってしまったが、地域の人々の尽力で、観音像や仏像はその都度掘出され、 
  観音堂も再建されたという。現在もみごとな彫刻の施された観音堂に本尊の聖観音をはじめ13体仏像が安置され
  近隣の人々に大切に守られている。上水内郡小川村の旧椿峰村(つばみねむら)集落にある 無人の観音堂で、
  盗難に遭い現在は真新しい代わりの観音像が厨子の中に安置されているのだそうだ。 
  観音堂の屋根の鬼瓦に菊の御紋章があると見えたが、花弁の枚数が御紋章とは違い単なる菊を紋とした鬼瓦だと
  いう。

   
          観  音  堂                               菊の紋の鬼瓦
                                                
*33番宝珠山高山寺  宗派  真言宗豊山 本尊 聖観世音菩薩   
   信濃三十三観音巡拝、結願の高山寺は、北アルプスの山並みを望む展望の地にある。端麗な三重塔は建久6年
   (1195)、源頼朝の建立と伝えられるが老朽化し、元禄時代に虫倉山中で修行中の木食山居上人に勧進を願
   い、五年がかりで十数万人の喜捨を集めて再建したという。三重塔内には如来三尊が本尊としてまつられてい
   る。なお本尊は秘仏で、年に一度、8月10日に開帳している。雨乞い、火除けの観音様として名高い。

   
       二層式の鐘楼門                         県宝の三重塔

   
                              本         堂

   
                             観      音      堂

余談だが高山時の御住職は画家でもある。本堂の天井絵の他、庫裡の玄関などに大小沢山の絵画の他、天井絵の下書きも置いてあった。天井絵についていろいろ住職から説明があったが、撮影は禁止されていた。

 

 

 

 


信濃三十三番札所めぐりー4回目

2013年09月17日 | 神社・仏閣巡り

9月7日ハト観光(株)主催の信濃三十三番札所めぐりの4回目だ。7時長野駅東口を出発、17時に長野駅東口に戻った。今回は前3回の参加者に欠席者が多少あり、新たな参加者が若干名いた。布引観音の急坂の参道があるので、不順な気候が続いており天気が心配だったが、幸い午前中は曇り空で持ちこたえた。別所で昼食後降りだし最後の長谷観音の参詣が終わるまで降り続いた。帰宅後聞くと長野は午前10時頃から雨だったそうだ。

*29番布引山釈尊寺 天台宗 本尊・聖観世音菩薩  本尊愛称・布引観音
   布引観音は今回3度目だが、千曲川沿いの県道40号線からの参道は急勾配で、石段が作られ若干整備されていた。しかし蹴上
  が高く以前より歩きにくい感じだった。多分雨水で流されて高くなったのだろう?。本堂までゆっくり20分位かけて登った。

  「牛に引かれて善光寺まいり」の伝説で有名な寺院である。僧・行基の創建で本堂の他六寺が伽藍を洞窟に造営したとい
  われている。朱塗り観音堂は建築・美術史上きわめて貴重とされており国の重文に指定されている。添乗員の説明によれ
  ば朱塗りが塗り替えてなければ国宝に指定されていたという。

        
      参 道 入 口 (県道40号線から)                       観 音 堂 宮 殿

        
         観 音 堂 宮 殿                              観音堂宮殿内部奥は洞窟                                              

         
                 観音堂からの本堂                        本堂から観音堂への道路の途中の胎内岩 

*28番龍頭山龍福寺 元天台宗 本尊;聖観世音菩薩 本尊愛称;鳥羽堂観音
   寺の開基は,比叡山の慈覚大師がこの地に来て,1本の柳の木の頭と胴と根元の部分から3体の観音像をお彫りになり、
   頭の部分で彫った観音像を鳥羽山(上田市丸子腰越地区)の岩窟に安置したが 無住になってしまったので、江戸時代中期に腰越
   近在の人々が、不便な山頂から今の地にお堂を立て観音像を祀りしたと言われ、鳥羽堂観音呼ばれている。

      
                                龍 福 山 観 音 堂 

*23番瀧洞山宝蔵寺  浄土宗 本尊;聖観世音菩薩 愛称; 岩谷堂観音
  本尊は前述の慈覚大師が彫った柳の木の胴の部分だそうです。菩薩像は当初岩窟の中に納められていたそうだが、
  岩山の中腹に食い込むよう観音堂が建てられ移されている。現在岩窟の中にも観世音菩薩の石像が安置されている。
  岩窟に安置されていたことから「岩屋堂の観音さん」と呼ばれているという。

      
             参  道                                 観音堂後ろが岩窟になっている

       
           本堂の須弥壇                              洞窟の中の 菩薩像

*客番北向山観音堂 天台宗 本尊;千手千眼観世音菩薩 愛称;別所観音
  本堂が北に向いているのは全国でも珍しいそうだ。真北に善光寺があると言われている。厄除観音としても親しまれれている。
  本坊常楽寺の住職半田考淳は天台宗総本山比叡山延暦寺の貫主で天台座主である。

     
            北向観音堂                               観音堂須弥壇

*14番姨捨山長楽寺 天台宗 本尊:聖観世音菩薩 愛称;姨捨観音
   寺の歴史は明治初期の廃仏毀釈のとき、古文書等全てを破棄してしまった為に定かではないらしい。国の名勝に指定されている
  「姨捨の棚田」を見下ろせる千曲市八幡姨捨にあり、 観月の名所である。古くから幾人もの歌人が「さらしなの地」や「おばすて山」を
  月の名所として詠んだ歌が編されている。芭蕉が月見をしたことでも知られ毎年秋には句会・観月祭が開かれている。石仏より多くの
  句碑がが立てられている。句碑 は昭和に入ってからのことらしい。観音堂の脇に大きい岩があるが「木花咲耶姫神」の姉の「大山姫
  神」が姪の「木の花姫」に諭され、この岩の上で満月を見て歌を詠み昇天したことから、姨(叔母)捨ての岩「姨岩」、この地が姨捨と呼ば
  れるようになったそうだ。

      
          観   音   堂                            姨 岩 と 観 音 堂

      
          観   月   堂                            境内にある句碑周辺にも沢山ある

*13番開眼寺 臨済宗妙心寺派 本尊;聖観世音菩薩
  本尊は聖観世音菩薩は「日不見の観音」と呼ばれ、厨子の扉を開けることを禁じられていたが、昭和46年2月、本堂の屋根のふき替え
  に際し信者一同が厨子を移動中、突然扉が開いた。金色の立像で脇侍の阿弥陀如来、地蔵菩薩像とも同じ仏師による江戸時代初期の
  の作と推定されているという。現在毎年1月1日と8月3日の年2回開帳している。

  長く無住であったが2012年臨済宗妙心寺派で元横河電気取締役の柴田文啓氏が派遣され住職となった。当時の新聞報道によれば
  柴田氏が中信となり「リクルート」活動を進めており「社会経験を積んだ企業OBこそ人間の多様な悩みに耳を傾けられる」と柴田住職は
  言っている。今回生憎住職が不在で修行僧が案内してくれた。新住職になって座禅道場が建てられており、道場で座禅の警策(きょうさ
  く)を経験した。坐禅中に眠くなったり、姿勢が悪かったり、心がまとまらなかったりした時は、警策(きょうさく)で肩を打ってもらいます。
  この警策は、聖僧(しょうそう)さまから励ましとしてi戴くのだそうです。肩を打ってもらうと心地良く、凡人には肩凝り解消に打って付け
  と思われた。

      
          開眼寺右側が座禅道場                        観世音菩薩が納めれている厨子

*18番金峯山長谷寺 真言宗智山派 本尊;十一面観世音菩薩 愛称;人肌観音・長谷観音
  信州屈指の名刹で大和・鎌倉とならぶ日本三大長谷観音の一霊場で木曽義仲の兵火に遭った後、鎌倉時代中期に再建された。
  本尊十一面観世音菩薩は秘仏で、善光寺御開帳の翌年、四月のの縁日を中心に数日間開帳されるという。前回平成22年の御開帳に
  参詣したことを思い出した。

        
           参道からの山門                      長谷寺本堂参詣は右の階段を上り、帰りは左側に降りる

        
          本堂内中央に本尊の厨子                          本堂からの鐘楼