食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

オスマン帝国初期の食(1)-中世のトルコ系民族国家の食(2)

2021-03-12 18:04:04 | 第三章 中世の食の革命
オスマン帝国初期の食(1)-中世のトルコ系民族国家の食(2)
日本とオスマン帝国・トルコとは昔からとても良い関係を続いています。そのきっかけとなったのが、1890年に日本に親善使節として派遣されたエルトゥールル号が和歌山県沖で座礁沈没した際の救出・支援活動と言われています。この事故では和歌山県紀伊大島の住民が総出で救出活動を行い、69名の船員の命を救うとともに、死者を手厚く葬りました。また、全国から義援金が寄せられ、生存者や死亡した人の遺族に贈られました。

それ以来オスマン帝国・トルコは親日政策を取り続け(例えば、日本に対して第二次世界大戦の戦勝国としての賠償金請求を一切行わなかった)、日本も友好国として信頼を寄せてきました。

1985年イラン・イラク戦争では、イラク大統領のサダム・フセインが宣言後48時間以降にイラン上空を飛ぶ機体については撃墜を行うとした中で、トルコはイランに取り残された日本人救出のために自国の航空機を出動させ、200名以上の日本人が救われることになりました。タイムリミットのわずか1時間15分前の脱出劇と言われています。

このように近しい関係にあるトルコですが、あまり日本人はトルコのことを知らないように思います。そこでこのシリーズでは、オスマン帝国の料理を少し詳しく見て行きたいと思います。

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オスマン帝国の料理、すなわち現代のトルコ料理の源流はセルジューク朝(1038~1157年)で作られた。セルジューク朝を建てる以前は、トルコ民族はモンゴル民族のような遊牧民族の暮らしを送っていた。つまり、ヒツジ・ウマ・ウシなどの遊牧を行い、農業はほんの少ししか行わなかったのだ。このため食べ物も肉や乳がメインで、移動が頻繁なため手の込んだ料理は作られなかった。セルジューク朝になると、このような生活にイスラム教と農業が持ち込まれることで新しい食の世界が誕生したのである。

まずイスラム教が浸透することによって、戒律によって食べられるもの(ハラル)と食べられないもの(ハラム)が明確になった。口にすることができないのは、豚肉、アルコール、そしてイカなどの特定の種類の魚介類だ。

また、農業が始まることによって、セルジューク朝では新たにコメ、コムギ、オオムギ、キビ、リンゴ、ブドウ、スイカなど、オスマン帝国でもよく食べられていた作物を栽培し始めた。しかし、農業を始めたからと言ってもトルコ民族の好きな食べ物は肉だった。

セルジューク朝では羊肉が一番喜ばれたが、これはかなり贅沢なごちそうだった。このためヒツジをつぶした時にはあらゆる部位を食べ尽くしたという。ヒツジ以外には鳥の肉などがよく食べられた。ウシは肉よりも労働力と牛乳を得る方が重要だったので、あまり食べられなかった。

肉はそのまま焼いたり、油で揚げられたり、鍋で煮られてシチューにした。揚げ物には羊からとった油や乳から作ったバターを使った。香辛料はあまり使われず、使用されてもせいぜいコショウとシナモンくらいだった。セルジューク朝の料理はあまり手が込んでおらず、質素なものだったと言われている。

トルコ料理の中で日本人になじみの深いものに「シシュ・ケバブ(シシカバブ)」があるが、これもセルジューク朝から食べられていたものだ。実は、この料理名は違う民族の言葉が組み合わされたものである。つまり「シシュ」はトルコ語で「串」もしくは「剣」の意味で、一方の「ケバブ」は「焼き肉」を意味するアラブ語である。このことからもトルコ料理が、トルコ民族の料理にイスラム教を創始したアラブ人たちの料理が組み合わされることでできたということよく分かる。

オスマン帝国のごく初期の頃の料理は、セルジューク朝の頃と同じように質素なものだったと言われている。周辺諸国との戦いが激しく、食のことを考えている暇はあまりなかったからと思われる。

しかし、オスマン帝国の勢力が拡大し生活が安定化してくると、食の世界は上流階級を中心に徐々に豊かになって行った。すなわち、オスマン帝国の宮廷料理は、第6代皇帝のムラト2世(在位: 1421~1444年、1446~1451年)の代から本格的なものになって行ったと言われている。

トルコでオスマン帝国時代から好んで食べられている料理として、具材を葉っぱや小麦粉の生地で包んで調理したものが有名だ。そのうちの一つの「ドルマ」はコメ、タマネギ、挽肉や香味野菜などを混ぜたものをブドウの葉で包んだ料理だ。同じような料理に「サルマ」があり、これはブドウの葉の代わりにキャベツの葉を使ったものだ。

小麦粉の生地は「ユフカ」と呼ばれ、非常に薄いのが特徴だ。ユフカはギリシア語では「フィロ」と言い、日本ではこちらの呼び方の方がよく知られている。ユフカ(フィロ)は常に小麦粉をふりながら少しずつ延ばすことで作られるが、この方法はオスマン帝国のトプカプ宮殿が発祥と言われている。

ボレク」は何層にも重ねたユフカで肉や野菜などの具を包み、表面にバターやオリーブオイルを塗って焼き上げたり、そのまま油で揚げたりしたものだ。

また、トルコの有名なデザートである「バクラヴァ」は、溶かしバターを塗りながら何層にも重ねたユフカ生地の上にアーモンドやクルミなどのナッツ類を砕いたものと砂糖・シナモンをのせ、さらにユフカ生地を重ねてオーブンで焼き上げたものだ。バクラヴァはオスマン帝国宮殿で遅くとも15世紀から食べられていたとされる。


バクラヴァ(DevanathによるPixabayからの画像)

当時の記録から、1453年にビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領後に魚を食べる量が劇的に増加したことが分かっている。その理由の1つは、オスマン帝国が周辺の海域を完全に支配したことによって漁業が活発になったからだと考えられる。とは言っても、やはり肉がオスマン帝国での一番の御馳走であったことは間違いない。