食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

フランス王の戦い-戦争と宗教改革と食の革命(2)

2021-06-05 17:50:23 | 第四章 近世の食の革命
フランス王の戦い-戦争と宗教改革と食の革命(2)
前回はハプスブルク家の始まりのお話をしました。今回はハプスブルク家と激しい戦いを繰り広げたフランス王家のお話です。

フランスの歴史が分かるように、少し時代をさかのぼって、ゲルマン民族の大移動後から話を始めたいと思います。なお、今回も食の話は少なめです。

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4~6世紀のゲルマン人の大移動の後、ゲルマン人の部族ごとに複数の国家が形成された。それらはお互いに覇権を競い合ったが、最終的にフランク王国が戦いに勝利する。

フランク王カール大帝(在位:768~814年)の時代には、フランク王国はイベリア半島とイタリア南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域を支配した。なお、カール大帝はキリスト教を国教とし、ローマ教皇より帝冠を授けられたことから初代の神聖ローマ帝国皇帝ともみなされている。

カール大帝の後継者ルートヴィヒ1世(ルイ1世)の死後にフランク王国は西・東・中の3王国に分割され、3人の息子に引き継がれた。西フランクはフランス、東フランクはドイツ、中フランクはイタリアのもととなる。

カール大帝の一族はカロリング家と言うが、西・東・中フランク王国はいずれも男系の王位継承者が9~10世紀中に途絶えてしまった。このため、987年に西フランク王国はカペー家のユーグ・カペーに引き継がれ、西フランク王国は「フランス王国」と呼ばれるようになった。なお、カペー朝以後のフランス王朝(ヴァロワ朝、ブルボン朝、オルレアン朝)はすべてカペー家の分家によるものである。

カペー家がフランス王を引き継いだ時には王の領土は狭く、権力も小さかったが、12世紀頃から順調に領土を拡大して行った。特にフィリップ2世(在位:1180~1223年)の時代には、イングランド王がフランスに持つ広大な領土の大部分を奪うとともに、フランス北部の諸侯の力をおさえ、さらにフランス南部の影響力も拡大させた。

14世紀にフィリップ4世(在位:1285~1314年)がイギリスとの戦いの戦費を得るために教会や修道院に課税した結果、ローマ教皇と対立することとなる。ローマ教皇はフィリップを破門しようとするが、逆にフィリップの配下の者が教皇を襲い、その結果教皇は病死してしまう。フィリップ4世は新しい教皇をフランスに強制的に移住させた。こうしてローマ教皇の権威は衰えて行った。

1328年にカペー朝最後の王シャルル4世が亡くなると、その従弟のヴァロワ家フィリップ6世(在位:1328~1350年)が即位した。これに対して、フィリップ4世の娘の子であるイングランド王エドワード3世(在位:1327~1377年)がフランスの王位継承権を主張し、フランスに侵入して戦争を始めた。いわゆる100年戦争(1339~1453年)の始まりだ。

100年戦争はジャンヌ・ダルクの登場などによって最終的にフランス側が勝利する。そしてこの戦争の副産物として、国王による絶対王政がフランスとイングランドで成立した。その要因となったのが封建領主の没落だ。これは戦争に参加した封建領主が経済的に疲弊するとともに、ペストで人口が減少する中で農民や商人の地位が向上して領主による徴税が困難になったことによる。

フランスでは、没落した封建領主は王に領土を差し出す代わりに剣の貴族と呼ばれる軍人となって給料をもらうようになった。また、官僚として働く新しい貴族(法服貴族)が生まれた。さらに国王は、商人に商業特権を与える代わりに税金を徴収するようになった。こうして王に権力が集中する絶対王政が確立して行った。一方、イギリスではフランスと異なる形で絶対王政が成立するが、それは別の機会にお話しします。

絶対王政によってフランスは国王の命令一つで大きな軍隊を動かせるようになった。100年戦争によって経済的に疲弊していたフランスは、豊かな国に攻め入り、自国の領土にしようともくろんでいた。ハプスブルク家のマクシミリアンがブルゴーニュ公国の跡継ぎになった際にフランスが介入したのはこのような理由からだ。

フランスにとって経済的に発展していたイタリアは魅力的な土地だった。フランス王シャルル8世(1470~1498年、在位:1483~1498年)は1494年に5万の軍勢を率いてイタリア半島を南下した。そして、いともたやすく南イタリアのナポリを占領したのである。この時フランス軍は小銃と大砲を他国に先駆けて大量に使用したが、これが近代的な戦争の始まりとなった。重い甲冑を身に付けた騎士の一騎打ちの時代は終わりを告げようとしていたのである。

このようなフランスの行為に対して、ヴェネツィア共和国・ローマ教皇・ミラノ公国・アラゴン王国(スペインの前身)・ハプスブルク家の同盟が結成され、フランス軍をイタリア半島から追い出した。フランスに帰国したシャルル8世は不運なことに、低い石門に頭をぶつけて死んでしまった。また、その後のフランス王たちもイタリア侵攻を繰り返したが、いずれも撤退を余儀なくされている。

1519年にはフランス王フランソワ1世が神聖ローマ帝国皇帝の座をハプスブルク家のカール5世(カルロス1世)と争ったが、これもカール5世に敗北してしまう。カール5世はスペイン王でもあったことから、フランスはスペインと神聖ローマ帝国に挟まれる形になり、逆にフランスが侵攻を受ける可能性が高まった。


フランソワ1世

そこで1521年にフランソワ1世は再びイタリアへの侵攻を開始した。この戦いでは王自身が最前線で指揮をとる奮闘ぶりを示したが、敵陣深く入り込んでしまったところ捕縛されてしまう。捕虜となったフランソワ1世は領土の一部をカール5世に譲渡し、カールの姉エレオノールを王妃とすることなどを条件に釈放された。

しかし、フランソワ1世はフランスに帰国すると、カール5世の勢力拡大を脅威に感じていたローマ教皇やヴェネツィアなどと結び、対カール5世同盟を結成した。これに激怒したカール5世は1527年にローマに侵攻し「ローマの略奪」と呼ばれた略奪・破壊行為を行い、ローマは完全に廃墟と化してしまう。

懲りないフランソワ1世は1535年にはオスマン帝国と手を結び、神聖ローマ帝国を挟撃する形をとった。オスマン帝国は1526年にハンガリーの中央部と南部を制圧し、1529年にはウィーンを包囲するなど、ヨーロッパの驚異となっていた。このように、ヨーロッパの敵であったオスマン帝国さえも味方に引き込むやり方にはフランソワ1世の執念が感じられる。

オスマン帝国は1537年に大艦隊を率いて地中海の制圧に乗り出してきた。これに対してカール5世は、ヴェネツィア並びにローマ教皇と同盟軍を結成し撃退を試みるが、あっさりと敗れ去ってしまう。こうして地中海の制海権はオスマン帝国に握られてしまった。

逆にカール5世は、1543年にイングランド王ヘンリ8世と同盟を結び、両方面からフランスに攻撃を加えた。これによってフランス軍は後退を余儀なくされたが、その後も戦いは続いた。

このような交戦状態が終結するのは、次代のフランス王アンリ2世(在位:1547~1559年)とスペイン王フェリペ2世(在位:1556~1598年)の時代になってからである。両国ともに莫大な戦費のために破産状態になったからだと言われている。

さて、カール5世との戦いに明け暮れたフランソワ1世だが、レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに迎えるなど、イタリアのルネサンス文化をフランスに積極的に導入したことでも知られている。イタリア・フィレンツェのメディチ家からカトリーヌ・ド・メディシスをアンリ2世の妃として迎えたのも、イタリアとの結びつきを強めるためと言われている。

既にお話ししたように、カトリーヌはフランスの食文化の向上に大きな貢献をした。それまでのフランス宮廷ではフォークを使わず、貴婦人でも手づかみで料理を食べていた。また、パンが皿の代わりで、料理の汁がしみ込んだらそのまま食べたり、下僕に下げ渡されたりしていた。このような宮廷にカトリーヌはフォークや陶器製の食器を持ちこんだのである。さらにカトリーヌは、オニオングラタンスープやシャーベット、アイスクリームなどの新しい料理をフランスに伝えたとも言われている。

またフランソワ1世の時代には、ロワール川流域にシュノンソー城、ブロワ城、シャンボール城などの名城が建てられたのだが、その近くに現代でも名声をはせるシュノンソー・ブロワ・シャンボールなどのシャトー(ワイン生産所)が作られた。この地域でのワインの消費量が増えていたことが推測される。

フランソワ1世が持ち込んだルネサンスの実証主義は次第にワイン造りにも適用されるようになり、やがてシャンパンなどの新しいワインが誕生して行く土台となった。フランソワ1世の時代にフランスは、料理とワインの大国として成長していくスタートを切ったと言えるだろう。