南蛮菓子の伝来-近世日本の食の革命(2)
前回は南蛮料理のお話でしたが、今回は「南蛮菓子」についてお話します。
1541年のポルトガル人来訪から始まる南蛮貿易によって、さまざまな菓子を作る技術が日本に伝わり、南蛮菓子の歴史が始まりました。
南蛮菓子には、「カステラ」「ボーロ(ぼうろ)」「ビスケット」「金平糖」「有平糖」「カルメラ」などがあります。これらの南蛮菓子の特徴は、砂糖と卵を使うことで、特に砂糖の甘さは当時の人々を魅了しました。このため、ポルトガルやスペインの宣教師が布教活動を行う上で、これらの南蛮菓子が大いに役立ったと言われています。また、安土桃山時代以降に茶の湯が流行しますが、砂糖を使った南蛮菓子は茶菓子として珍重されました。
今回は、日本における砂糖と卵の簡単な歴史とともに、「カステラ」「ボーロ(ぼうろ)」「ビスケット」「金平糖」の歴史について見て行きます。
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最初は、砂糖の歴史だ。
日本における砂糖の最初の記録は825年の正倉院の目録に見られることから、平安時代には中国から日本に伝来していたと考えられる。しかし、その頃の砂糖は薬の一種とみなされていた。
鎌倉時代末頃になると、中国との貿易が盛んになり、砂糖の輸入量も増加した。そして、ポルトガル人が来訪する室町時代末期には、砂糖は生糸や絹織物に次ぐ重要な輸入品となっていた。
江戸時代になると、薩摩藩が支配下に置いた琉球や奄美でサトウキビの栽培と砂糖の製造が始まった。これらの島々からの砂糖と、海外から長崎に運ばれてきた砂糖のほとんどは物流の中心であった大阪に輸送され、そこから日本の各地に出荷された。このため、南蛮菓子の多くが大阪やその隣の京都で作られてきたという歴史がある。
18世紀になると砂糖の国産化が推奨され、18世紀の終わりには讃岐での和三盆作りが軌道に乗った。
次は卵の歴史だ。
卵はニワトリが産む。ニワトリは神聖な生き物とされ、675年の天武天皇の詔で、ウシ・ウマ・イヌ・サルとともに、ニワトリを食すことが禁じられた。卵については食べることは禁じられていなかったが、食べるとたたりがあると信じらたため、日本人は卵を食べることを避けてきた。
しかし、室町時代末期に来訪した南蛮人が卵を食べていても平気なのを知って、卵を食べる習慣が日本国内に広がる。そして、卵の生産量も増加した。
江戸時代になると、卵を使った菓子だけでなく、さまざまな卵料理が考案されて広く食べられるようになった。天明年間(1781~1789年)に出版された料理本『万宝料理秘密箱』には、103種の卵料理が記載されている。
なお、南蛮菓子に使用する小麦粉については、奈良時代から日本で作られてきたと考えられている(詳しくは、本ブログの「うどん・そうめん・石臼-中世日本の食(8)」をご覧ください)。
それでは、それぞれの南蛮菓子について見て行こう。
・カステラ
カステラは、小麦粉に泡立てた卵と砂糖を加えて作った生地をオーブンで焼いた菓子だ。
カステラの語源は、イベリア半島にあったカスティーリャ王国(Castilla)と言われている。しかし、カステラと全く同じ菓子はポルトガルやスペインには無く、これは日本の調理器具で作られたために別物になったからだと考えられる。
カステラに最も似ているポルトガルの菓子が「パン・デ・ロー」と呼ばれるものだ。これは、キリスト教の祭りや結婚式などの祝い事に食べられるお菓子で、角形のカステラと異なり、円形をしている。また、カステラのように中まで火が通ったタイプと、中身が半熟でとろとろしたタイプがある。
・ボーロ(ぼうろ)
ボーロは小麦粉に砂糖、卵、水を混ぜ、小さく丸めたものを焼いて作る。ボーロ (bolo) とは、ポルトガル語で「丸い菓子」を意味し、ボーロという特定の菓子があるわけではない。
日本にボーロの作り方が伝わると、小麦粉の代わりに、ソバ粉や片栗粉を使った菓子も作られるようになった。
・ビスケット
ビスケットは、小麦粉に牛乳やバター、砂糖を入れた生地を焼いて作った菓子だ。
ビスケットの語源は、フランス語で「二度焼いた」という意味の「ビスキュイ(biscuit)」だ。二度焼くことで水分が非常に少なくなって、保存性が高まる。大航海時代には、船に乗せる保存食として使用されていた。
日本に来訪した南蛮人が日本人に紹介したところ、好評を得たという話もあるが、長崎などでわずかに作られるだけだった。ビスケットが日本国内で食べられるようになるのは明治になってからのことだ。
・金平糖
金平糖はご存知の通り、表面に凸凹がある小型の砂糖菓子だ。語源はポルトガル菓子の「コンフェイト(confeito)」だと言われている。
1569年にルイス・フロイスが京都の二条城で織田信長に謁見した時の贈り物の中に、金平糖が入ったガラス瓶があったとされる。日本で最初に金平糖が作られたのは長崎で、1680年代になってからと言われている。
金平糖を作るのは大変で、斜めに傾いた回転する大きな釜に核となるケシ粒を入れ、少しずつ砂糖蜜を回しかけて作る。この作業には2週間以上かかるため、手作業で行っていた近代までは、きわめて高価なお菓子だった。
茶道で使用する「振り出し」と呼ばれる菓子入れには、保存食として金平糖などの砂糖菓子を入れておくのが習わしとなっている。