隋と大運河-古代中国(8)
中国史において古代とは後漢の滅亡までとすることが多いが、このブログでは唐朝の崩壊(907年)までを古代中国として扱う。
隋(581~618年)は581年に楊堅(文帝)(541~604年)が建国し、589年に南朝の陳を滅ぼすことで中国を統一した。隋は、均田制・租庸調制・府兵制を整えた中央集権国家を築いた。これは、農民に土地を等しく与えることによって生活を安定させ、同時に租庸調などの税と府兵制での兵役を農民に負担させて国家の財政と軍備を維持しようとするものである。
また、文帝は仏教を篤く信仰し、仏教を重視した政策をすすめた。さらに、彼は官僚を登用するための試験である「科挙」を始めた。科挙は隋王朝までの1300年にわたって継続されることになる。
このように国家の体制が固まったことで隋の国力は充実し、後漢以降の戦乱の世で激減した人口も回復して行った。文帝の最晩年には隋の建国時に比べ世帯数が倍増し、全人口も4600万人に達していたと推定されている。これは後漢の頃の人口にほぼ匹敵している。
農耕について見てみると、隋の時代までに中国南部の開発がかなり進んでおり、大規模な灌漑設備と牛耕、そして肥料の使用によって穀物の単位面積あたりの収穫量は大幅に増加していた。コメは年に2回栽培する二期作がすでに行われており、コムギやダイズなどの北部の作物も南部で栽培が始まっていた。また、水力を利用した脱穀機などの機器も普及していた。文帝の課題は、このような南部の豊富な食料を効率よく北方に運んで来る方策を生み出すことだった。
そこで彼は、黄河、淮河、長江などの大河を結合する大運河の建設を開始する。中国の大河は基本的に西から東へと平行に流れている(下図)。この東西の大河を南北の運河でつなぐことによって、物資や人を効率よく輸送しようと考えたのだ。
まず、584年に長安と黄河を結ぶ広通渠(こうつうきょ)が完成し、587年には淮河(わいが)と長江を結ぶ山陽瀆(さんようとく)が作られた。文帝は604年に崩御するが、2代皇帝の煬帝(ようだい)(在位:604~618年)が事業を継承する。彼は、605年に黄河と淮河を結ぶ通済渠(つうさいきょ)を、608年には黄河と北京を結ぶ永済渠(えいせいきょ)を、そして610年には余杭と長江を結ぶ江南河(こうなんが)を建設し、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河が完成した。これは北京と余杭(杭州)を結ぶことから「京杭大運河(けいこうだいうんが)」と呼ぶ。
大運河によってそれまで北と南に分かれていた中国が真の意味で統一されたことになり、流通面だけでなく、社会的にも歴史的にも極めて大きな意味を有する大事業だった言える。しかし一方で、大運河の建設に女性を含む100万人以上もの多大な労働力を動員したことから、当時の民衆の不満は大きかった。また、煬帝は豪奢な生活を好み、自分のために作らせた豪華船に乗ってたびたび南部に遊びに出かけたため、民衆の評判も悪くなった。
隋を滅ぼす大きな要因となったのが、表面上友好関係を築いていた朝鮮半島の高句麗への遠征である。膨大な人員と物資を投入して行われた三度に及ぶ遠征によって民衆は疲弊し、王朝の権威も失墜する。その結果、各地で反乱や暴動が勃発し世の中は大混乱に陥った。最終的に、煬帝の従弟の李淵(りえん、566~635年)が皇帝に即位し、唐(618~907年)を建国した。
なお、小野妹子が遣隋使として派遣され「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」という聖徳太子の国書を手渡した相手は煬帝である(607年)。煬帝は無礼と思ったが実利を取って使者の行き来を認めたということだ。