空気から肥料を作る-近代の肥料革命(3)
植物の必須の栄養素は窒素(チッソ)(N)、リン(P)、カリ(K)の3つですが、今回は窒素の話です。
窒素は生物の体を作っているタンパク質の構成要素の一つで、窒素が無いと生命は存続できません。窒素は身近な物質で、空気の約78%は窒素です。ところが、ほとんどの生物は空気中の窒素を利用できません。マメ科の植物と共生する根粒菌などの一部の微生物が、空気中の窒素から窒素化合物を作ることができるだけです。
また、自然界では、雷によっても空気中の窒素から窒素化合物が生成されます。放電のエネルギーによって空気中の窒素と酸素が結びつき、窒素化合物ができるのです。雷が落ちると作物が良く育つと昔から言われていますが、その理由はこうして生まれた窒素化合物が肥料になるからだと考えられます。
このように、微生物や雷によって空気中の窒素から窒素化合物ができることを「窒素固定」と呼びます。微生物によって1年間 に1.8 億トンの窒素が、また、雷によって1年間に 0.4 億トンの窒素が窒素固定されると見積もられています。
産業革命以前であれば、このように自然界で起こる窒素固定と有機肥料によって必要量の作物を育てることができていました。ところが、産業革命による技術革新や、グアノやリン鉱石の利用によって作物の生産量が増加したため、ヨーロッパやアメリカ合衆国の人口が急増しました。この急増した人口を養い続けるためには、グアノやリン鉱石を使用し続けなければなりません。しかし、窒素源であるグアノは近い将来枯渇するであろうことが予想されていました。
人類はこの問題をどのように解決したのでしょうか?
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1898年、英国科学振興協会の会長に就任したウィリアム・クルックスは、文明諸国は十分な食料が無くなるという未曽有の危機に瀕していると演説した。そして、この食糧危機を解決する責任は化学者にあると呼びかけた。
実際に、1890年から1900年にかけて、多くの化学者が大気中の窒素を固定化しようと奮闘していた。1895年、ドイツの化学者アドルフ・フランクとニコデム・カローは、高温にした炭化カルシウムと窒素を反応させることによって、石灰窒素(CaCN2)と呼ばれる窒素化合物の合成に成功した。この方法はフランク・カロー法と呼ばれ、1905年には工業化が開始され、1918年には年間33万トンの窒素を固定するようになった。しかし、フランク・カロー法は高温化のために大量のエネルギーを消費するという欠点があった。
アメリカの電気化学者のブラッドリーとラブジョイは、放電を利用した窒素固定法を開発し、この方法による窒素酸化物(硝酸)の工業的な製造が1902年に開始された。また、ノルウェーのクリスチャン・ビルケランドも、1905年に放電によって空気中の窒素を窒素酸化物として固定するビルケランド・エイデ法を開発した。放電を利用する方法では大量の電力を必要とするが、ノルウェーでは水力発電によってこの電力をまかなうことができた。1911年には、水力発電と窒素固定を組み合わせて肥料を生産するノルスク・ハイドロ社が設立され、1913年までに年間12000トンの窒素から肥料を生産するようになった。
しかし、これらの方法はすべて、より安価な「ハーバー・ボッシュ法」に取って代わられる。ハーバー・ボッシュ法を簡単に言うと、「触媒を利用することによって、高温・高圧化で窒素と水素からアンモニアを化学合成する方法」だ。ドイツのフリッツ・ハーバーとカール・ボッシュによって開発されたことから、この名前で呼ばれている。
フリッツ・ハーバー
フランスの化学者アンリ・ルシャトリエの研究によって、窒素と水素からアンモニアを化学合成するためには高圧が必要であることが明らかになっていた。また、反応を高速で進めるためには、触媒の利用も不可欠と考えられた。
フリッツ・ハーバーは1903年頃から研究を開始し、1909年 7 月にオスミウム触媒を使って550℃、175 気圧の条件でアンモニアの合成ができることを見出した。ちなみに、この成功にはハーバーの研究室に在籍していた田丸節郎の貢献も大きかったと評価されている。
ハーバーがアンモニアの合成に成功したと言っても、1時間に80グラムほどのアンモニアを作るだけの、まだ研究室レベルの生産量だった。工場で大量のアンモニアを生産するためには、さらなる技術開発が必要だったのである。そこで活躍したのがドイツの化学会社 BASF 社のカール・ボッシュとアルヴィン・ミタッシュだ。
当時の工場では、550℃、175 気圧という過酷な条件で稼働できる装置は存在しなかった。このような新しい装置の開発を担当したのが化学者・技術者のカール・ボッシュだ。装置の素材や構造について様々な試行錯誤を繰り返すことで、アンモニアの合成に耐えられる装置の開発を行ったのである。
一方、技術者のアルヴィン・ミタッシュは触媒を担当した。ハーバーが当初使用していたオスミウム触媒は高価で扱いが難しかった。そこでミタッシュは、3年間をかけて2万回以上の試験を行うことによって、酸化鉄を主体とし、酸化アルミニウムと酸化カリウムを含む最適な触媒を開発することに成功したのである。
こうして1913年には、BASF 社の工場で1日あたり30トンのアンモニアを合成することに成功する。
肥料を作るために開発された窒素固定法だったが、窒素化合物は爆薬の原料にもなる。BASF 社の工場が建設された翌年には、第一次世界大戦(1914~1918年)が始まった。その結果、BASF 社の工場は爆薬の原料の生産に利用されるようになるのである。ドイツは最終的に敗北するが、BASF 社の工場がなければ、もっと早く終戦になったと言われている。
終戦後、ドイツはハーバー・ボッシュ法を秘密にしようとした。しかし、終戦交渉でドイツの交渉団の一員であったボッシュが、工場の建設に必要な情報を提供してしまったのである。こうして、1920年代以降、フランスやイギリス、アメリカをはじめとする世界各国で次々とアンモニアの生産が行われるようになる。
生産されたアンモニアからは肥料が作られ、世界中の食料生産を支えることになった。20世紀以降に世界人口が急増しているが、その要因の一つがハーバー・ボッシュ法なのである。また、現代でもハーバー・ボッシュ法は窒素固定に無くてはならない技術であり、もしハーバー・ボッシュ法が無いと、20億人以上が餓死すると言われている。
なお、ハーバーは、アンモニア合成法の開発が評価されて、1918年にノーベル化学賞を受賞した。また、ボッシュも、高圧化学における業績が評価されて、1931 年のノーベル化学賞を受賞した。