古代ローマの農業の発展と衰退(3)
ギリシアやカルタゴなどに勝利することで進んだ農耕技術を手に入れた古代ローマ人はさらに独自の研究を重ねることで、輪作などの卓越した技術を発展させていった。
彼らは、土壌にはいくつか種類があり、それぞれの土地や土壌に適した植物があること発見した。例えば、穀物は十分な降雨量または灌漑設備が行き届いた低地が良かった。また、ブドウは砂地を好むし、オリーブは岩がちの地面で良く育った。ナッツの木は高い斜面に好んで生えた。
また、古代ローマ人は、どの家畜の糞が肥料として最適であるかも研究した。その結果、一番効果が高かったのは鶏糞で、ヒツジやヤギの糞も良いことが分かった。一方、牛糞は良くなかった。また、馬の糞は穀物の収穫には適していなかった。
現代でも鶏糞は最も良い肥料になるとされており、古代ローマ人の発見は現代の知識から見てもとても正しいと言える。鶏糞が良い理由は、鳥は糞と一緒に尿をするのだが、この尿の中に植物の三大栄養素の一つの窒素が大量に含まれているからだ。また、残りの二つの栄養素であるリンとカリも多く含まれている。一方、牛糞は窒素とリンの含有量が低い。これが、牛糞が肥料として良くない理由だ(と言っても、牛糞は大量に手に入るので、現代では多くの有機肥料に使用されている)。
なお、海鳥の糞や死体、エサの魚などが積み重なってできた化石はグアノと呼ばれ、最高級の肥料として19世紀には各国の争奪戦が繰り広げられた。この熾烈な戦いの末に生まれたのがハーバー・ボッシュ法(窒素固定法)で、この技術が世界中に浸透することによって食物の大量生産が可能になり、世界人口が爆発的に増加した(この物語を本ブログで詳しくお話しするのはかなり先のことになります)。
以前に「古代ローマの食材(6)ローマは果物の帝国」でお話ししたように、ローマ人は接ぎ木の技術を格段に進歩させ、美味しい果物を大量に作り出す方法も開発している。
ローマは果物の帝国はこちら⇒「古代ローマの食材(6)ローマは果物の帝国」
さらに古代ローマ人は、農作業を効率よく進めるための新しい農具をいくつも開発した。そのうちの一つが下の写真のような穀物の収穫機だ。西暦1世紀以降に使用され出したこの機械には車輪が付いた本体の前面に鉄製の歯があり、人がロバ(もしくはウシ)を使って畑に押し込むことで、穀物の穂を刈り取って行くのだ。刈り取られた穂は後ろの木枠の中にたまっていく。
古代ローマの刈り取り機
また、古代ローマ人はトリビュラム(tribulum)という脱穀用の農具を使っていた。これは下図のように小さな石が埋め込まれ板だ。石のある面を下にしてムギの穂の上に乗せ、さらにその上に人が乗った状態で動物に引っぱらせると、地面とトリビュラムに挟まれたムギが簡単に脱穀されるのだ。
古代ローマの脱穀機(トリビュラム)
脱穀されたムギはもみ殻が取り除かれ乾燥させたのちに石臼で粉にされる。この作業をムギが少量の場合は人手で行ったが、多い場合は大きい石臼を家畜に回してもらったり、さらに大量の場合は水力を利用したりした。ローマには水力を利用した大規模な製粉工場が建てられていた。
以上のような技術革新によって食料生産量が増えるにしたがって帝都ローマの人口は増加していった。西暦の初めころのローマの人口は75万人ほどで、2世紀になるとピークを迎え、100万人以上もの人が住んでいたと推定されている(この頃のローマ帝国の総人口は6500万人と見積もられている。これは当時の世界人口の約2割を占める)。100万人もの人口を養うためには大量の食料が必要で、市民権のある男性のみを養うだけでも、週に5000トンのコムギが必要だったと見積もられている。
ローマ周辺の農村地域は紀元前3世紀末まではローマが必要とする食料を供給できていた。しかし、それ以降はローマを養うことが次第に不可能になり、他の地域から食料を運んでくるしかなかった。食料の主要な供給元となったのがエジプトと北アフリカで、1年間に約40万トンの穀物がこれらの地域から100万のローマ市民のために運ばれた。これはローマの消費量の約3分の1にあたる。この状況が安定して維持できれば帝国は安泰であったと考えられるが、実際にはそうならなかった。
(まだ続きますが、次回で終わりそうです)