食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

古代ローマの食材(4)ヒメジ・マグロ・ウナギ・カキ

2020-06-20 17:16:32 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの食材(4)ヒメジ・マグロ・ウナギ・カキ
イタリアもギリシアも近くに海があるため、日本と同じように魚介類に慣れ親しんできた。古代ローマや古代ギリシアの時代も同じで、いろいろな種類の魚が食べられていた。今回は当時食べられていた代表的な魚について見て行こう。

・ヒメジ
古代ローマで最高級とされた魚が「ヒメジ」だ。世界各地にヒメジ科の魚はいるが、すべてに共通するのが長い口髭を持っていることで、これを使って海底でエサを探す。この風体から日本では「おじさん」と呼ばれるヒメジ科の魚がいる。日本のヒメジ科の魚は大きくなっても体長が20~30センチメートルほどだが、北大西洋や地中海のヒメジは少し大きく、40センチメートルほどになるそうだ(ストライプトレッドマレット、下の写真)。この魚は今でも高級魚としてヨーロッパで食べられている。


ローマ帝国の第2代皇帝のティベリウス(在位:西暦14~37年)は、市場で3尾のヒメジが3万セステルティウスで売買されたと聞いて嘆いたと伝えられる。当時のローマ兵の年棒が1000セステルティウスくらいなので、これを100万円とするとヒメジ1匹で1000万円という計算になる。日本人もマグロの初競りで1億円以上の値段をつけるのを考えると、古代ローマ人と似ているところがある。

古代ローマの調理法を集めた「アピキウス」には、コショウと蜂蜜、セージ・ミント・クミンなどのハーブで風味付けし、オリーブオイルとワインで焼き上げたヒメジの料理が記載されている。このように、古代ローマでは風味付けにたくさんの調味料やハーブを使っていたらしい。一方、その前の時代の古代ギリシアでは素材の味を生かした料理が好まれ、せいぜい塩とオリーブオイルで風味付けをするくらいだった。時と場所が移ることで、より手が込んだ料理が好まれるようになったようだ。

・マグロ
古代ギリシアと古代ローマで一般的だった魚はイワシやニシン、ボラであったが、マグロやカツオなどの大型の回遊魚も好んで食べられた。古代ローマではマグロは大きさによって呼び方が「コルドゥラ(マグロの幼魚)」「ペラミュス(成長途中のマグロ)」「テュンノス(成長したマグロ)」と変化し、日本で言うところの出世魚だった。

アピキウスにはマグロのためのソースのレシピがたくさんあり、出世段階での使い分けもあったようだ。例えば、ペラミュスにはコショウ、ラベージ、オルガノ、タマネギ、レーズン、蜂蜜、酢、ワイン、オリーブオイルで作ったソースをすすめている。

・ウナギとウツボ
古代ローマではかば焼きのように、甘辛く味付けしたウナギが食べられていた。ソースパンと呼ばれる小鍋にウナギの身を並べ、そこにコショウ、ラベージ、セロリの種子、シリア産スマックの実、ナツメヤシ酒、蜂蜜、酢、魚醤、オリーブオイル、マスタードを混ぜて作ったソースを注いでとろ火で煮たらしい。

また、ローストしたウナギに同じような甘辛いソースが塗られて食べられた。

なお、ウツボもウナギと同じような食べ方をされた。アピキウスではウナギよりもウツボの方が料理の種類が多いので、古代ローマではウツボの方をよく食べたのかもしれない。

・カキ
古代ローマ人のカキ好きはよく知られている。かのカエサル(シーザー)もカキが大好物で、彼がイギリス(ブリテン島)に侵攻した理由も、テムズ川の河口で採れる美味しいカキを独占しようとしたからだという説がある(一方、カワシンジュガイから貴重品だった天然真珠を採取するためと言う説もある)。実際に、ローマ帝国は美味しいカキが採れるコルチェスター(ローマ帝国ではカムロドゥノン)をブリタニアの最初の首都にしている。

古代ローマ人はカキの養殖も盛んに行っていた。現在の日本ではカキを海中にぶら下げる方法(垂下法)が主流となっているが、ローマ人は干潟に小さな貝をまいて成長させる「地蒔き」という方法でカキを養殖した。美味しいカキに育てるには海水中の養分(プランクトン)が重要で、そのために美味しいカキが採れる地域が限られてくる。ナポリの15㎞西にあるルクリヌス湖(現在のルクリーノ湖)は最適地で、まるまると太ったカキがローマに運ばれたという。また、ブリテン島東部や対岸のブルターニュ地方でも美味しいカキが採れ、はるばるローマまで運ばれた。

生食をほとんどしないヨーロッパでも、カキは生で食べるのが普通である。古代ローマ人も酢で洗った生のカキに、コショウとハーブ、蜂蜜、酢、魚醤で作ったソースをかけて食べたとある。私も、カキフライよりも生カキの方が好きだ(食中毒が少し心配だが)。

ところで、古代ローマ人が食べていたカキはヨーロッパヒラガキで、日本でメジャーなマガキとは違う種類だ。ヨーロッパではずっとヨーロッパヒラガキが食べられてきたが、1970年代以降に寄生虫により激減したため、日本産のマガキを輸入して養殖するようになった。このため、現在はフランスなどヨーロッパで流通するかなりの部分はマガキになっているという。

古代ローマの食材(3)ハムとソーセージ

2020-06-18 22:10:21 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの食材(3)ハムとソーセージ
古代ローマでよく食べられた肉と言えば豚肉になるだろう。ブタは繁殖力が強く、エサを与えておけばたくさん子供を産んでどんどん増えていく。そして、みんな知っている通りとても美味しい。宗教上のタブーはなかったし、農耕や輸送には使用できないので食べるしかない。豊かになった古代ローマではブタとともに、近縁のイノシシも捕まえられ、肥育されて食べられた。

冷蔵庫や冷凍庫が無かったので、すぐに食べない食材は長期保存するために塩漬けにされた。これを専門用語で「塩蔵」と呼ぶ。現代でも私たちが食べている、塩鮭や塩サバ、イカの塩辛、塩数の子、塩たらこ、明太子、塩わかめはすべて塩蔵品だ。大豆などに塩と麹を混ぜて作る醤油や味噌も塩蔵品の一種と言える。塩づけによって食物の長期保存ができるのは、塩が微生物の生育に必要な水を奪うために腐らなくなるからだ。また、塩には肉の繊維を壊して柔らかくする効果もある。

ブタやイノシシのモモ肉を塩漬けにしたのが「ハム」で、それ以外は正式にはハムとは呼べない。しかし日本では、ハムに似せた塩漬けの加工肉を何でも「ハム」と呼んでいる(魚肉ハムも存在する)。また、日本人は豚肉のハムの代表は背肉のロースを使ったロースハムと思っていることが多いが、これはロースハムの方がモモ肉のハムより日本人の口に合うからだ。なお「ボンレスハム(boneless ham)」は骨(bone)を抜いた(less)モモ肉のハムのことを言う。

塩漬けをしたモモ肉は、そのまま乾燥させる場合と加熱や燻製をする場合があり、日本では前者のそのまま乾燥させたものを「生ハム」と呼んでいる。

ハムが世界のどこで最初に作られたかは定かではないが、紀元前3500年頃のオリエントや紀元前4000年頃の中国では既に生ハムが作られていたと考えられている。オリエントの生ハムはその後、古代ギリシア人や古代ローマ人に伝えられた。古代ローマでは、塩漬けしたモモ肉は乾燥させ、酢と油を塗って完成としたらしい。現代のイタリアではハムのことを「プロシュット(prosciutto)」と呼ぶが、これは「とても乾いた」を意味するラテン語の「prae exsuctus」が語源だと言われている。

古代ローマで有名だったのがパルマの生ハムで、紀元前100年頃の記録によると「豚の後足に少量の脂をぬって乾燥すると全く腐敗することなく熟成される。それは美味なる肉となり、その後しばらく食べ続けることができ、芳しい香りも衰えない」とパルマで作られていたハムについて記されている。現代でもパルマは生ハムの産地としてとても有名で、「プロシュット・ディ・パルマ(パルマハム)」は世界三大ハムの一つに数えられる。とにかく、イタリアの人々は古代ローマの時代からはハムが大好きなのだ。


一方、ソーセージも古代ローマ人が大好きな食べ物だった。四世紀の中頃にキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝が贅沢だと言ってソーセージが禁止する法律を出したが、ソーセージの密造がいたるところで行われ、全く効果が無かったそうだ。

ソーセージも、刻んだ肉と塩を混ぜて袋状の物(ケーシング)に詰めて作られる塩蔵品の一つだ。ソーセージの語源は「塩漬けして貯蔵された肉」を意味するラテン語「salsus」だと言われている。

ソーセージもいつどこでつくられ始めたかははっきりしないが、紀元前8世紀頃に成立したとされるホメロスの「オデュッセイア」に「脂身と血をつめた山羊の胃袋」とあり、これはブラッドソーセージの一種だと考えられている。ブラッドソーセージは家畜を余すところなく食べるために、血液をひき肉や内臓、脂肪などとともに腸に詰めたもので、現代でも人気がある(よく食べられているドイツではブルートヴルスト(Blutwurst)と呼ばれている)。

古代ギリシアのポリスでは、広場に並んだ出店でソーセージが売られていたと言われている。古代ローマになると、ソーセージの種類が増えるとともに、それまでは焼くだけだったのが、ゆでるや煮るなど新しい食べ方も登場した。

古代ローマの調理法を集めた「アピキウス」にはブラッドソーセージを始めとする複数のソーセージの作り方が記されている。材料には血やひき肉、脳(よく使われていた)のほかに、西洋ネギやコショウ、松の実、ローリエ(月桂樹の葉)も使われており、今食べてもとても美味しいに違いない。

古代ローマの食材(2)オリーブオイル

2020-06-16 20:25:00 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの食材(2)オリーブオイル
イタリア料理やギリシア料理に欠かせないのがオリーブオイルだ。オリーブオイルはオリーブの実を絞って採る。オリーブオイルは古代ギリシアや古代ローマで大量に生産されていた。今回はこのオリーブオイルについて見ていこう。



オリーブは中近東から東地中海沿岸の地域が原産のキンモクセイの仲間の植物で、高さは10メートルにもなる(写真参照)。とても生命力が強く、地中海沿岸には樹齢2000年をこえる古木が今でも元気に実をつけている姿が見られるそうだ。ちなみに、日本の小豆島にはスペインのアンダルシア地方から運ばれてきた樹齢1000年のオリーブの樹が移植されている。

オリーブは初夏になると白色の小さな花を咲かせる。その後、丸い緑色の実をつけ、成熟するとともに実の色が赤→紫→黒へと変化する。実はそのままだととても渋いので、しぼってオリーブオイルを採るか、塩漬けなどにして渋みを抜いて食べる。

完熟したオリーブの実には油が15〜30%含まれ、その主成分はオレイン酸である。オレイン酸は不飽和脂肪酸だが、炭素間の二重結合を1つしか持たないため酸化されにくい。このためある程度の長期保存が可能である。また常温では固まりにくいため、運びやすいし使いやすい。このような優れた特徴から、オリーブは広く栽培されるようになったと考えられる。

一説によると、オリーブの栽培は遅くとも紀元前3000年頃には地中海の東部で始まったとされる。その後、栽培地域は徐々に西側に広がり、紀元前1200年頃にはエーゲ海の島々で栽培が始まり、少し遅れてギリシア本土にも伝わった。また、イタリア南部には、北アフリカのギリシアの植民地を経由して紀元前500年頃に伝わった。また、同じ頃にスペイン南部でも栽培が始まった。

オリーブの栽培を大きく拡大させたのがローマ帝国だ。ローマ帝国が支配地を拡大するにあたり、各属州にオリーブを持ち込んで栽培を奨励したのだ。こうして、ローマ帝国はローマを中心にオリーブオイル文化圏と呼べるような様相を呈するようになる。「油」を意味する英語の「oil」とフランス語の「oile(古語)/huile(現代語)」も、その語源は古代ローマ公用語のラテン語でオリーブオイルを意味する「oleum」であることからも、古代ヨーロッパにおけるオリーブオイルの浸透度が分かる。

また、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教では、オリーブオイルは宗教儀式で「聖油」として用いられるようになった。旧約聖書のノアの箱舟の話では、ノアの放った鳩がオリーブの枝をくわえて帰ってきたことから、平和が訪れたこと(悪い人間が一掃されたこと)が分かったとされている。この話から、オリーブの枝はハトともに「平和の象徴」となった。

古代のギリシアやローマの料理では、オリーブオイルの特有の油くささを抑えるために酸っぱい酢がよく使われていた。やがて大航海時代になって酸味とともに旨味のあるトマトが新大陸からヨーロッパに持ち込まれると、酢に代わってギリシア料理やイタリア料理に使用されるようになる。

古代ローマの食材(1)フォアグラとイチジク

2020-06-14 10:58:09 | 第二章 古代文明の食の革命
古代ローマの食材(1)フォアグラとイチジク
古代ローマは美食で有名だ。その食卓には様々な食材から作られた色とりどりの料理が並べられたという。ここでは、そのような食材の歴史や背後にある逸話を探っていこうと思う。

その最初はフォアグラについてだ。
フォアグラは世界三大珍味の一つとされているが、フランス語では「Foie(肝臓)Gras(脂肪の)」と書くように、ガチョウやアヒルに高カロリーの餌を大量に与えることによって、肝臓を「脂肪肝」にしたものだ。私たちも毎日高カロリーの食事を摂りつづけていると、比較的たやすく脂肪肝になることができる(脂肪肝の次は脂肪肝炎、肝硬変、そして肝がんに至ることがあるので要注意)。

フォアグラの起源は古代エジプトと考えられており、紀元前2500年頃の古代エジプトのリトグラフにはガチョウの肥育の様子が描かれており、人がエサをガチョウの口に突っ込んでいる様子が分かる(下図参照)。こうして太らせたガチョウのフォアグラを古代エジプトのファラオや、この方法が伝えられた古代ギリシアの王侯貴族たちの舌を喜ばせてきた。



特に古代ローマ人はフォアグラを好んで食べた。彼らはフォアグラを作るのに甘い干しイチジクをガチョウに与えた。実は、Foie(肝臓)はイチジクを意味するラテン語の「Ficatum」を語源とする。もともとローマ人たちはフォアグラのことを「Jecur(肝臓)Ficatum(イチジク)」と呼んでいたのだが、ガリアへ伝えられるときにJecur(肝臓)が省略されてしまい、イチジクのはずのFicatumが肝臓を意味するようになったそうだ。それがいろいろと形を変えて最終的にフランス語のFoieになったという。

イチジクは南アラビアが原産のクワの仲間の植物だ。メソポタミアでは紀元前4000年頃から栽培されていたと考えられている。野生種のイチジクには雌雄異株が多いが、メソポタミアやエジプト、地中海沿岸部では雌雄同株になったものを古代から栽培品種として育てていた。イチジクはブドウのように挿し木で増えて育てやすかったことから、オリエントや古代ギリシア、古代ローマではありふれた果物だった。また甘くて高カロリーだったため、家畜のエサに使用されたのだろう。古代ローマ人はブタも干しイチジクで太らせて肝臓を食べたらしい。

ところで、アダムとイブが食べた「禁断の果実」はイチジクだという説がある。旧約聖書によると、エデンの園で神から食べてはいけないと言われていた知恵の樹の実(禁断の果実)を、イブが蛇にそそのかされて食べ、続いてアダムも食べてしまう。その結果、善悪の知恵がついたアダムとイブは裸であることを恥ずかしいと思い、お互いの恥部をイチジクの葉で隠すのである。

聖書にはアダムとイブが何の果実を食べたかは書かれていないため推測するしかない。候補としてはリンゴが有名だが、エデンの園があったとされるのはペルシア湾岸でリンゴは育たないことから現在ではその可能性は低いと考えられている。そこで、その地域で良く見られたイチジクではないかと言うのだ。また、ブドウだったと言う説や、バナナだったのではないかと言う説もある。

ワインの歴史(5)キリスト教とワイン

2020-06-12 18:36:20 | 第二章 古代文明の食の革命
ワインの歴史(5)キリスト教とワイン
ワインの歴史の中でキリスト教とワインの関係は特別である。このことをよく示しているのが、イエス・キリストが処刑される前日の「最後の晩餐」の席上でイエスが12使徒に話した内容だ。

その時イエスはパンを裂き、これは私の体であると言って皆に配った。また、ワインは私の血(契約の血)であると言って皆に飲ませた。そして、自分の記念として今後もこれを行うようにと命じたのだ。こうしてパンとワインを分け合う儀式が、キリスト教ではもっとも重要な儀式のひとつとなっていくのである。

現在、人類の約3分の1はキリスト教徒と言われている。このようにキリスト教が世界中に広まるきっかけを作ったのが古代ローマだ。

もともと古代ローマは多神教であった。キリスト教もその一つとして認められた時代もあったが、ネロ皇帝(在位54~68年)の時代からたびたび迫害を受け、宗教として認められないことが多かった。

しかしキリスト教は、貧民層を中心に次第に信者の数を増やして行ったため、ローマ帝国もその影響力を無視できなくなった。そして、ついに西暦313年にコンスタンティヌス帝はキリスト教を公認することになる。さらに西暦380年にはキリスト教が国教として定められ、392年に他の宗教が禁止されることによってローマで唯一の宗教となった。

ちなみに、古代オリンピックは紀元前776年からギリシアとその後ギリシアを属州にしたローマによって開催が続けられていたが、このスポーツの祭典はオリンピアの神々に奉納する儀式であったため、393年をもって終了した。

ところで、キリスト教が国教化した当時は既にイエスの時代から300年が経過し、キリスト教には様々な教派と教義が存在していた。そこで、ローマ皇帝が主催して公会議を開き教義の統一化を行った。こうして、イエスの神性を認め三位一体説を中心とする教義がキリスト教の正統なものとなったのである。

キリスト教がローマの国教となることで、キリスト教はローマが支配したヨーロッパ全土に広がってゆくとともに、多くの教会が作られていった。それにともなって、キリスト教にとって極めて重要なワインを常備するために、教会が自らブドウを栽培し、ワイン醸造を行うようになるのである。そして、このことがワインを世界中に広める大きな原動力になったのだ。

さて、キリスト教はユダヤ教から生み出された。ユダヤ教の聖書である旧約聖書はユダヤ人の歴史書と呼べるものであり、紀元前2000年頃からのユダヤ人の歴史が描かれている。その中で有名な一節に次のノアの方舟の話がある。

悪い人間が世の中に満ち溢れたのに怒った神が大洪水を起こして、彼らを一掃しようと決めた。唯一正しい生活をしていたノアには方舟を作らせ、家族と全ての生物を乗せて大洪水から逃れさせた。やがてノアを乗せた方舟はアララト山に漂着した。

ワインの歴史(1)で話した通りアララト山付近でブドウが栽培化されたと考えられている。アララト山に漂着したノアは農夫になり、なんとブドウの栽培を行いワイン造りまで行うのだ。つまり、聖書ではノアがワインを最初に作った人間とされているのである。

しかし、ある時ノアはワインを飲んで酔っ払ってしまい、裸になって天幕の中で寝てしまう。それを見た息子のハムは兄弟に告げ口をする。二人の兄弟は父の裸を見ないように布をかけた。酔いから醒めたノアは怒って、ハムの息子のカナンに呪いをかけた。

旧約聖書も飲み過ぎに警告を発しているのだろう。