食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

オスマン帝国の誕生-中世のトルコ系民族国家の食(1)

2021-03-09 22:23:44 | 第三章 中世の食の革命
オスマン帝国の誕生-中世のトルコ系民族国家の食(1)
今回から中世の最後のシリーズが始まります。

このシリーズの主人公はトルコ系民族です。彼らは、セルジューク朝(1038~1157年)やオスマン帝国(1299~1922年)、ムガール帝国(1526~1858年)などを興し、11世紀以降のイスラム世界において中心的な役割を果たしました。

今回は、トルコ系民族がオスマン帝国を建設し、一大帝国を築くまでの概要を見て行きます(食の話は少ないです)。

************
ユダヤ教・キリスト教と同じ神を信仰するイスラム教が預言者ムハンマドによって創始されたのは7世紀のことである。アラビア半島の商業都市メッカから始まった布教活動は西アジア全域の征服活動に発展し、またたく間に領土を獲得して行った。

そしてイスラム勢力は、この地域の二大国の一つだったササン朝ペルシアを651年に滅亡させる。また、もう一つの大国ビザンツ帝国(東ローマ帝国)も重要な領土であったシリアやエジプトなどを奪われてしまった。

さらにイスラム教徒軍はビザンツ帝国内を進軍し、674年から帝都コンスタンティノポリスを包囲するに至る。しかし、「ビザンツ帝国の歴史①-中世ヨーロッパのはじまりと食(7)」でお話ししたように、ビザンツ帝国は「ギリシアの火」などを用いて抵抗を行い、678年にイスラム軍を撤退させた。
「ビザンツ帝国の歴史①」はこちら

一方でイスラム勢力は各地に侵攻を行い、東は中央アジアから西はスペインに達する巨大な世界帝国ウマイヤ朝やアッバース朝を建設することに成功した。
中央アジアに進出したイスラム勢力はトルコ民族と出会うことになる。

トルコ民族とは紀元前3世紀頃にモンゴル高原に姿を現した遊牧民族であり、チンギス・カンを輩出したモンゴル民族と始祖を同じにしている。トルコ民族は時代とともに西に移動し、6世紀に半ばには中央アジアまで勢力を伸ばして突厥(とっくつ)帝国を建設した。そして8世紀はじめウマイヤ朝が中央アジアに勢力を伸ばしてくると、その影響を受けてトルコ民族もイスラム化して行ったのである。イスラム勢力においてトルコ民族はマムルーク(所有される者という意味)と呼ばれて、兵士としてイスラム世界で大活躍することになる。



高い軍事力を有したトルコ民族はムスリム内で次第に勢力を拡大し、9世紀以降には各地で独立して王朝を築くようになった。中でも最大勢力を誇ったのが、トルコ系オグズ族によって建てられたセルジューク朝(1038~1157年)である。セルジューク朝の初代君主トゥグリル・ベグ(在位:1038~1063年)は実権を失っていたアッバース朝カリフ(イスラム世界の最高指導者)の後見役となり、彼よりイスラム世界の世俗の支配者の称号である「スルタン」を与えられた。

1071年のマラズギルトの戦いでは、1万余りのセルジューク軍が6万のビザンツ軍を打ち破り、ビザンツ皇帝を捕らえるという大勝利をおさめる。この戦いののち、西アジアの最西部のアナトリアはセルジューク朝の分家であるルーム・セルジューク朝(1077~1308年)が支配することになった。

しかし13世紀になるとモンゴル帝国の世界制覇が始まり、セルジューク朝とルーム・セルジューク朝はモンゴル帝国に隷属したのち衰退して、姿を消してしまう。その後アナトリアはモンゴル族のイル・ハーン国の支配下に入ったが、その支配も長くは続かず、多数のトルコ系民族による小国が乱立するようになった。その中の一つがオスマンによって建国されたオスマン帝国(1299~1922年)である。


   オスマン1世

オスマン帝国はビザンツ帝国の領地を浸食するとともに周辺諸国を併合することで勢力を拡大し、第4代バヤジド一世(在位:1389~1402年)の代には全アナトリア、エーゲ海岸、地中海岸、ユーフラテス川上流を含む広大な地域を支配するに至る。

一方、その頃の中央アジアでは、モンゴル族のチャガタイ・ハン国の将軍であったティムールがティムール朝(1370~1507年)を興し、支配地をまたたく間に拡大していた。そして1402年にアナトリア中央部のアンカラ近郊でオスマン帝国軍と激突する。このアンカラの戦いに勝利したのはティムールであった。

オスマン帝国はいったんティムールの属国となるが再び勢力を盛り返し、メフメト一世(在位: 1413~1421年)の代にはアンカラの戦い以前の旧領をほぼ回復させた。そして1453年にはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領し、ビザンツ帝国を滅亡させる。

さらにオスマン帝国は、エジプトを支配していたマムルーク朝(1250~1517年)を1517年に滅ぼす。なお、マムルーク朝もオスマン帝国と同じようにトルコ系民族が建てたイスラム国家である。マムルーク朝にはイスラム教の最高指導者であるカリフが保護されていたが、マムルーク朝滅亡後はオスマン帝国のスルタンがカリフも継承することとなった。つまり、オスマン帝国がイスラム世界の盟主となったのである。

最盛期となる16世紀には、オスマン帝国は西アジアから東ヨーロッパ、北アフリカの三大陸に及ぶ広大な国土を支配した。そしてたびたびヨーロッパに侵入し、1529年には神聖ローマ帝国の主要都市ウィーンを包囲した。冬の到来によってウィーンの陥落は免れたが、その後の講和条約でハンガリーの南半分はオスマン帝国領となってしまう。なお、オスマン帝国のこのような軍事的脅威がヨーロッパにおいてルネサンスや宗教改革、航海時代が始まるきっかけになったと言われている。

さて、最後にオスマン帝国の食について簡単に触れておこう。

オスマン帝国の料理は様々な料理がミックスされたものと言うことができる。つまり、出身地の中央アジアの料理、イスラム教徒が食べていたイラン料理やアラブ料理、そしてオスマン帝国が支配したギリシアやハンガリーなどのヨーロッパの料理である。これらの料理がミックスされるとともに、地域特有の食材が調理されることで世界四大料理の一つトルコ料理が生み出されたのだ。

そして、オスマン帝国の飲料としてはずすことができないのが「コーヒー」である。コーヒーは15世紀以前から知られていたが、世界中に広まる上で重要な役割を果たしたのがオスマン帝国だったのである。

以上のようなオスマン帝国の料理と飲み物についてはこのシリーズで詳しく見て行きます。

「ツバメの巣」「北京ダック」「フカヒレ」の始まり-10~17世紀の中国の食(10)

2021-03-05 20:20:15 | 第三章 中世の食の革命
「ツバメの巣」「北京ダック」「フカヒレ」の始まり-10~17世紀の中国の食(10)
皆さんは高級中華料理と言えば、何を思いつくでしょうか。

ツバメの巣のスープ、北京ダック、フカヒレなどが一般的に高級中華料理と言われていますが、これらはすべて明の時代に本格的に食べ始められたと言われています。

今回は、ツバメの巣・北京ダック・フカヒレ料理の始まりを通して明代の食について見て行きます。

************
明王朝(1368~1644年)の最初の首都は南京だったが、1421年に永楽帝によって北京に遷都された。

明王朝を興した朱元璋(洪武帝)(1328~1398年)は倹約家だったと言われている。彼は子孫が美食にふけって怠惰な生活に溺れないように、できるだけ質素で健康に良い食事をとるように心がけていたという。例えば、普段の朝食と夕食には豆腐をできるだけ食べるようにしていた。また、宮廷では肉や魚よりも野菜や果物をよく食べたという。

とは言え、やはり美味しい食べ物は大好きだったようで、彼の好物の「焼きハマグリ、エビいため、カエルの肢、干しシイタケ、ナマコ、アワビ、ニワトリ、ブタのアキレス腱の煮込み」を美味しそうに食べていたそうだ(劉若愚『酌中志』より)。

なお、中華料理では「アワビ」も高級食材だが、明代以降の宮廷料理にアワビが取り入れられたのは朱元璋の好物だったからと言われている。

朱元璋は江南の人間であったため、宮廷で出される料理はだしのきいた薄味の江南風だった。それにならって、その後の明の宮廷料理も基本的に江南の味付けだったと言われている。

「ツバメの巣」が宮廷で食べられるようになったのも朱元璋の代からである。それについて次のような逸話が残っている。

朱元璋が王位に就いてすぐのことである。彼は杭州の港に100歳を越える男性がいると聞き、宮廷に呼びつけて長寿の秘訣を尋ねたそうだ。すると、健康に良い食べ物と飲み物を教えてくれたのだが、その中に「ツバメの巣」が入っていたという。こうしてツバメの巣はそれ以後、皇帝と一部の特権階級で不老長寿の薬として食べられるようになったのである。

ツバメの巣は東南アジア沿岸部などに生息する「アナツバメ」の巣で、そのほとんどがツバメの唾液からできている(海藻からできているという話は間違い)。東南アジアではツバメの巣は健康に良い食材として古くから食べられていたそうだ。老人が住んでいた杭州は対外貿易港の商業都市として栄えていたため、東南アジア産のツバメの巣が手に入りやすかったと考えられる。

明代になってメジャーになったもう一つの料理がアヒルのあぶり焼き、つまり「北京ダック」の原型である。

北京ダックは太らせたアヒルを丸ごと窯で焼き、その皮の部分を薄餅(ポーピン)呼ばれる小麦粉で作った皮でネギやキュウリ、甜麺醤(テンメンジャン)と一緒に包んだものだ。アヒルの皮を客の目の前でカットしてくれるパフォーマンスが印象的で、これが日本人に有名な理由かもしれない。なお、北京ダックは日本では高級料理として知られているが、本場の中国ではそれほど高級なものではないそうだ。

アヒルはカモを家畜化して、肉や卵、羽などがたくさん摂れるようにしたものだ。アヒルによく似ている鳥にガチョウがいるが、これはガンを同じように家畜化したものだ。アヒルもガチョウも飛ぶ力はほとんどない(『ニルスの不思議な旅』では、飛べないと馬鹿にされたガチョウの「モルテン」がニルスを乗せて一緒に旅をする)。

江南ではアヒルの飼育が古くから盛んで、南京ではアヒルを焼いた料理がよく食べられていたという。1421年に南京から北京に遷都するが、この際に宮廷の料理人も北京に移った。そして、南方の料理をベースにした宮廷料理が発展して行くのだが、ここにアヒル料理も持ち込まれたのである。

江南のアヒルの焼き物は、下茹でして柔らかくしたアヒルを短時間火であぶって作っていたが、北京ではイスラム世界やインドから伝わった「窯」を用いてアヒルを焼くようになった。窯で焼くことによって、肉はジューシーなって皮はパリッとする。北京は元の首都だったが、対外貿易が盛んだったこの時代に窯を用いた炙り焼きの技術が伝わっていたのである。

ところで、北京ダックを北京語で「北京填鴨」と言う。「填鴨」とは強制的に餌を与えることで短期間のうちに太らせたアヒルのことだ。つまり、北京ダックに使うアヒルはこのようにして飼育されているのだ。この填鴨の飼育方法も明代の北京の郊外で始まったと言われている。

アヒルのあぶり焼きは宮廷でのみ食べられていたが、16世紀には民間の専門店が北京にオープンした。そして、その後も多くの店で出されるようになった。現代のような皮を切り取って食べる北京ダックは1896年に老舗の便宜坊が作り始めたと言われている。



三つ目のフカヒレの姿煮は、乾燥させたサメのヒレをアヒルやニワトリのスープでじっくり煮込んだもので、濃厚な味わいととろけるような舌触りを味わえる逸品だ。

「フカヒレ」が初めて記録に現れるのは1596年に南京で出版された李時珍医学書『本草綱目』(ほんぞうこうもく)である。サメのことを「背中にかたいヒレがあり、腹の下にはフカヒレがあり、味はいずれも美味しい」と書いているが、主に南方の人々が食べていたようで、まだ地方の食べ物だったようだ。

明の末期の17世紀半ば頃になると料理書などにフカヒレが取り上げられるようになることから、この頃には広く食べられるようになったと思われる。そして現代のようなフカヒレの姿煮の作り方が考案されるのは18世紀末から19世紀にかけてのことだ。



以上のように、明の時代はツバメの巣・北京ダック・フカヒレ料理などの高級中華料理が始まった時代と言えるのだ。

最後に、明の宮廷で食べられていた料理のいくつかを紹介して今回のお話を終わりにしたいと思う。

羊肉の焼き物:羊肉をスライスし、塩水と醤油に時々浸しながら炭火でじっくり焼く。

揚げスズメ:羽をむしり、内臓・骨を取り出す。少し乾燥させてから、紹興酒、塩、タマネギのタレに漬け込む。もち米粉を表面にまぶし、ピーナッツオイルでカリカリになるまで揚げる。油をきったあと皿に盛り、その上にニンニクのみじん切り、砂糖、酢、でんぷん、ごま油を熱して作ったソースをかける。

蒸し鶏:やわらかい鶏肉を水で洗い、塩、醤油、八角で作ったタレを塗り半日置く。じっくり蒸したあと骨を取り除き、鶏肉を細かく裂いて香辛料を加える。そしてもう一度蒸す。ガチョウ、アヒル、豚肉、羊肉を使ってもよい。

卵巻き:卵をといて薄く焼き、香辛料で風味付けしたひき肉を入れて巻く。それを砂糖と醤油で煮たあとスライスする。

アワビ入りのチキンスープ:アワビを薄くスライスし炒めたものを豆腐と一緒にチキンスープに入れて煮込む。

どれも美味しそうだなぁ。

元(モンゴル帝国)の食-10~17世紀の中国の食(9)

2021-03-02 18:15:59 | 第三章 中世の食の革命
元(モンゴル帝国)の食-10~17世紀の中国の食(9)
1206年にチンギス・カンが興したモンゴル帝国はまたたく間にユーラシア大陸の大部分を征服していきました。そして中国では1271年から1368年までモンゴル民族による元王朝が統治を行います。

こうしてモンゴル帝国が西アジア・中央アジアを含む大帝国を作ったことによって、東西の様々な技術や文化が双方向に伝えられることになりました。例えば、最先端の医学や天文学などがイスラム世界から中国にもたらされる一方で、中国からは印刷技術や羅針盤などがイスラムやヨーロッパに伝えられました。

それ以外の重要なものとしては、大きな威力を有する武器が挙げられます。
元が南宋を滅ぼす際に威力を発揮した武器に「回回砲」と呼ばれる巨大な投石機があります(「回回」は西アジアの意味)。これは西アジアやヨーロッパで使用されていた「トレビュシェ」という投石器のことです。

一方、中国からイスラム世界やヨーロッパへは火薬とともに、火槍や鉄砲などの火薬を用いた兵器が伝えられました。鉄砲はその後ヨーロッパで革新的な進歩を遂げることで極めて強力な武器になり、ヨーロッパが世界各地を征服する上で大きな力を発揮することになります。

食文化も同じように東西の混合が見られましたが、食の嗜好はそう簡単に変わるものではなく、それまでの食文化に新たな要素が付け加わったものになりました。

今回は、このような元代のモンゴル民族の食について見て行きます。

************
元代の食を知る上で貴重な資料となっているのが『飲膳正要』という書物だ。これは、元王朝で飲膳太医という皇帝の栄養士兼侍医の職にあった忽思慧(こつしけい)が著したもので、その第一巻には皇帝が食べたと思われる95の料理が記されている。

この95の料理には100種類ほどの食材が使われているが、とりわけ目立つのが羊肉・羊尾子・羊肚・羊肺・羊舌・羊血・羊皮・羊蹄などのヒツジに由来するものだ。95の料理のうち実に77のものにヒツジの食材が使用されているのである。



遊牧民族にとってヒツジは最も重要な食材であり、元王朝の人々も引き続いてヒツジが大好きだったようだ。また、野菜ではネギが最も多く使用されているが、これもモンゴル民族が昔から食べてきたものだ。

このようにモンゴル民族の基本的な嗜好は変わっていないように見える。

一方、他民族の食文化の影響もところどころに見られる。例えば、コメなどが複数の料理に使われているが、これらは宋朝(漢民族)の食文化の影響を受けていると思われる。また、調味料として塩・酢・醤のほかに、コショウなどの香辛料陳皮(チンピ:マンダリンオレンジの果皮を干したもの)などが使用されているが、これらはイラン系のムスリム(イスラム教徒)によって持ち込まれたと考えられる。

モンゴル政権の中央には、モンゴル民族以外に「色目人」と呼ばれた中央アジア出身のトルコ系ウイグル族やイラン系の民族がいた(「色」とは種類という意味で、漢民族とは異なる民族という意味)。彼らは元の人口の数%しか占めなかったが、そのほとんどはムスリム商人で商才に長けていたため、モンゴル帝国の中枢で経済政策や通商政策を担当していた。彼らは故国との貿易を通じて故郷の味をモンゴル帝国の料理に組み込んだのである。

例えば、トルコ系ウイグル族から持ち込まれた料理としてはガーリック入りのヨーグルトソースであえた麺料理があり、これは現代のトルコ料理によく似ている(ガーリックヨーグルトソースはトルコ料理の定番です)。

『飲膳正要』の95の料理のうち27がスープ料理だが、これはスープがモンゴル料理の代表的なものだからだ。しかし、その調理法からも様々な民族料理の影響がうかがえる。スープに入れる食材がそれぞれで異なっているのだ。

モンゴル民族の伝統的なスープと思われるものにはヒヨコマメやオオムギの粉でとろみがつけられている。一方、漢民族のスープには、小麦粉で作った麺や団子、もしくは米粉の麺を入れられている。また、イラン系ムスリムのスープと思われるものはコメでとろみがつけられ、シナモン・サフラン・ターメリック・コショウなどの香辛料で風味付けがされている。これらを見るだけでも、宋王朝では国際色豊かなスープが食べられていたことがよく分かる。

『飲膳正要』の第2巻には様々な飲み物やジャムなどが取り上げられているが、これらも様々な民族のものが取り入れられているように見える。モンゴル民族が伝統的に好んだ飲み物が馬乳酒ミルク入りの茶であるが、このほかに、西方の飲み物であるワインやイラン系ムスリムが良く飲んだフルーツジュース、そして蒸留器(アランビック)で造った中近東の蒸留酒アラックなどが記載されている。

元には他の地域から移住して来る人がたくさんいた。彼らはブドウを育ててワインを造ったり、サトウキビを栽培して砂糖を作ったりしたという。そして、砂糖からは甘いジャムやお菓子が作られた。時にはシャーベットが作られることもあったらしい。

元以外のモンゴル帝国の支配地にも、モンゴル民族など他民族の食文化が伝えられて現地の食文化と融合した。そして、その後モンゴル民族による支配が終わった後も、その時に生まれた新しい食文化は生き残ったのである。

それは中国の箸の置き方にも見ることができる。日本では箸は横向きに置くが、中国では箸は縦向きに置く。実は元代になるまで中国でも箸を横向きに置いていたのだが、モンゴル民族が肉を切る時に使っていたナイフを縦向きに置いていたことから、それに合わせて箸も縦向きに置くようになったのだ。この箸の縦置きは元が滅んでも廃れず、現在に至るまで続いているのである。