食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

パネットーネを食べました

2021-12-19 16:56:49 | 世界の料理を食べてみよう
パネットーネを食べました
本日は朝食に妻の作ったパネットーネを食べました。

パネットーネについては、本ブログの「ミラノのヴィスコンティ-ルネサンスと宗教改革と食の革命(5)」で取り上げたことがあります。その一部を転載しておきます

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ルネサンス期ミラノで誕生したお菓子としては「パネットーネ(Panettone)」がある。パネットーネはスフォルツァ家が支配した頃のミラノで、クリスマスに欠かせないものとして作られるようになったと言われている。
パネットーネはドライフルーツが入った発酵菓子パンだ。材料は小麦粉、砂糖、卵、バター、酵母、そして干しブドウなどのドライフルーツだ。砂糖とバターが入ると小麦粉の生地は発酵しにくくなるが、初乳を飲んだ子牛の腸から採った特殊な酵母を用いてゆっくりと発酵を行うことでパネットーネは作られる。
一方、ドライフルーツが入っていないものは「パンドーロ(Pandoro)」と言い、ロンバルディアの西にあるヴェローナの銘菓だ。現代ではパネットーネとパンドーロはイタリア中でクリスマスに食べるお菓子の定番となっている。また、パネットーネはイタリア移民によって南米に伝えられ、そこでもクリスマスに欠かせないお菓子となった。
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こんな感じの生地をパネットーネの紙製の方に入れてオーブンで焼きます。


焼き上がりはこんな感じです。


マスカルポーネチーズと一緒に食べることが多いそうです。でも、パネットーネだけでもとても美味しかったです。


最近のミラノでは、さらにカスタードクリームを添えるそうですが、そうするとすごいカロリーになりそうです。

サツマイモ・トウモロコシ・トウガラシの伝来-17~19世紀の中国の食の革命(5)

2021-12-18 17:07:01 | 第四章 近世の食の革命
サツマイモ・トウモロコシ・トウガラシの伝来-17~19世紀の中国の食の革命(5)
サツマイモトウモロコシトウガラシの原産地はアメリカ大陸です。15世紀末から16世紀初めにかけてスペイン人やポルトガル人がアメリカ大陸に到達すると、これら新大陸の作物はヨーロッパや他の地域に運ばれて栽培が始まります。そして、アメリカ大陸以外の国々でも主要な農作物になりました。

サツマイモ・トウモロコシ・トウガラシについて現在の生産量を見てみると、次のように中国が世界有数の生産国となっています。

2019年の中国の生産量(国連食糧農業機関(FAO)の統計より)

サツマイモ:5200万トン(ダントツの世界第1位、世界全体の80%を生産)
トウモロコシ:2億5000万トン(世界第2位、1位はアメリカ)
トウガラシ:1900万トン(世界第3位、1位はインド、2位はタイ)

今回は、現代中国の主要な作物であるサツマイモ・トウモロコシ・トウガラシの中国への伝来について見て行きます。

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アメリカ大陸の新しい食材をアジアにもたらしたのは、ポルトガル人もしくはスペイン人と考えられている。そのルートとしては、ポルトガル人が植民地化したインドの都市を経由するルートと、スペイン人が植民地化したフィリピンを経由するルートの2つが考えられる。

ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマは1498年にインドに到着する。そして1500年以降に、ポルトガルによるインドの都市の植民地化が始まった。ポルトガル人はこれらの都市を拠点にしてさらに東へと進み、アジアへの航路を開拓して行ったのである。

ポルトガル商人は、1517年には中国(明)の広州に到来し、1557年からマカオでの居住が認められて中国との貿易を行った。また、1543年にポルトガル商人が種子島に漂着し、1550年には平戸に商館が設立されて、南蛮貿易が開始された。

もう一方のスペインについては、世界一周を果たしたマゼラン一行が1521年にフィリピンに到着したのがアジア来訪の始まりだ。そして、1565年にフィリピンとメキシコとを結ぶ航路が開拓され、スペインによるフィリピンの本格的な植民地化が始まった。フィリピンのマニラにはメキシコやペルー産の銀が持ち込まれ、中国商人が運んできた絹や陶磁器と交換された。

以上のようなポルトガルとスペインの貿易ルートを使って、サツマイモ・トウモロコシ・トウガラシがアジアに伝えられた可能性が高いと考えられている。
それでは、それぞれについて中国への伝来と広まりについて見て行こう。

・サツマイモ

サツマイモの中国への伝来について最も有力な説は、明代(1368~1644年)の1594年にフィリピンから中国の福建省に伝えられたというものだ。1594年と伝来年が明確になっているのは、この年に大規模な飢饉が発生し、その対策のためにサツマイモの導入と栽培が奨励された記録が残っているからだ。

ただし、1578年に執筆され、1596年に出版された李時珍の薬学書『本草綱目』にサツマイモの記述があることから、1594年より以前に中国で広まっていた可能性も指摘されている。いずれにしても、スペイン人あるいはポルトガル人がアメリカ大陸から運んできたサツマイモが16世紀に中国に伝来したのは間違いない。

なお、中国の一部の学者は、サツマイモは中国が原産地だと主張している。広東省と福建省に昔から自生していた「甘薯(かんしょ)」と呼ばれた食物が、サツマイモのことを指しているというのだ。他の学者は、これは山芋の一種で、サツマイモとは別の植物だと考えている。

トウモロコシ

15世紀末にコロンブスがアメリカ大陸からスペインにトウモロコシを持ち帰った。これが世界各地に運ばれて広まったというのが現在の通説になっている。しかし、トウモロコシがいつ、どのように中国にもたらされたかについては明確になっていない(日本へは1579年にポルトガル人が伝えた)。

サツマイモと同じように福建省に伝えられたという説と、シルクロードを通って中国の内陸部に伝えられたという説、そして、インドと接する雲南省にインドから伝えられたという説などがある。1596年に出版された『本草綱目』にトウモロコシの記載があることから、16世紀中に伝えられたのは確かだ。

清代(1644~1912年)になると社会が安定し、人口が増え始めた。そのために食物の増産が進められたが、コメやコムギが育ちにくい荒地ではトウモロコシやサツマイモなどの栽培が推奨された。特に、華北の東三省と呼ばれる、現在の遼寧省・吉林省・黒龍江省の森林地帯や山岳地帯の開発が進み、木材を切り出した跡地にトウモロコシなどが栽培され、増え続ける人口を支えたのである。なお、余談であるが、トウモロコシに加えてダイズも栽培され、油を搾り取ったあとのカスは江南地方に運ばれて桑や綿花栽培の肥料となり、輸出品生産の一助となった。

トウガラシ

16世紀までの中国における香辛料としては、コショウ、ショウガ、カラシ(芥子)、サンショウ(花椒)、ハッカク(八角)、チョウジ(丁子、クローブ)、シナモン(桂皮)などがあった。このうちコショウやチョウジはインドなどから大量に輸入されていた。このように、中国人は香辛料をよく使用していたことから、トウガラシもすぐに利用されるようになったと思われるかもしれないが、トウガラシが中国で料理に使用されるのは18世紀末になってからのことだ。

中国へのルートとしては、インドを経由するルートとフィリピンを経由するルート、シルクロードを通るルートなどが考えられているが、いずれであるかは明らかになっていない。

トウガラシがインドに伝来したのは1540年以前だと考えられているが、インドでもトウガラシの利用はすぐには広まらず、17世紀になってから料理に使用されるようになった。一方、フィリピンへの伝来は16世紀後半と言われている。

これらのことから、16世紀中に中国へもトウガラシが伝えられていた可能性があるが、1596年に出版された『本草綱目』にはトウガラシの記載はない。明朝は1683年に海外貿易を事実上自由化したが、トウガラシはこれ以降に中国に本格的に伝わったとする説が有力となっている。

四川料理の麻婆豆腐にはトウガラシが欠かせないし、四川料理でよく使用される調味料のトウバンジャン(豆板醤)もトウガラシとソラマメを発酵させて作る。四川料理でトウガラシが本格的に使用されるようになったのは19世紀に入ってからだと考えられている。

フカヒレの姿煮-17~19世紀の中国の食の革命(4)

2021-12-14 17:00:01 | 第四章 近世の食の革命
フカヒレの姿煮-17~19世紀の中国の食の革命(4)
フカヒレの姿煮」は、乾燥させたサメのヒレ(フカヒレ)をアヒルやニワトリのスープでじっくり煮込んだもので、濃厚な味わいととろけるような舌触りが味わえる、とてもおいしい料理です。また、「フカヒレのスープ」という、糸状のフカヒレの身が入ったスープも絶品です。

フカヒレの姿煮は満漢全席でも重要な料理の一つですが、歴史上に登場したのはそれほど古くなく、明代以降と考えられています。

今回は、フカヒレの姿煮の歴史と、近年のフカヒレにまつわる話題について取り上げます。



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フカヒレ」が初めて記録に現れるのは1596年に南京で出版された李時珍が書いた医学書『本草綱目』だ。サメのことを「背中にかたいヒレがあり、腹の下にはフカヒレがあり、味はいずれも美味しい」と書いているが、主に南方の人々が食べていたようで、まだ地方の食べ物だったようだ。

明代(1368~1644年)末期に出版された辞典である『正字通』には、フカヒレのことが「とてもおいしい」と記されており、この頃には北京などでも食べられるようになったと思われる。また、清代(1644~1912年)初めの料理書『食憲鴻秘』には、フカヒレをアヒルやニワトリのスープで煮込む調理法が記載されており、現代に近い調理法が確立されていたようだ。ただし、この頃のフカヒレは生で、乾燥させたものはまだ使用されていないと考えられている。

清代の文人であり、食通としても名高かった袁枚(えんばい)(1716~1798年)が1792年に出版した料理書『随園食単』には、フカヒレは「二日間に込んでようやく柔らかくなる」とあることから、これは乾燥させたフカヒレと推測される。フカヒレが生から乾燥ものに変わった理由としては貯蔵や運搬が容易だったことなどが考えられるが、乾燥ものへの変化は18世紀中に起きたことと思われる。なお、『随園食単』には、フカヒレの身をほぐして作った「フカヒレのスープ」のレシピも載っている。袁枚が活躍したのと同時期の書物にはフカヒレの姿煮がとてもおいしい料理としてたびたび登場することからも、この頃にフカヒレの姿煮がメジャーな料理になったのだろう。そして、満漢全席の一品となった。

清代の末期になると、高級な宴席はメインとなる料理名で呼ばれるようになる。最上級は仔豚の丸焼きがメインの「焼烤席」であり、次がツバメの巣がメインの「燕窩席」、そして、フカヒレがメインの「魚翅席」だった。最高級料理の地位をしっかりと獲得したのである。

ところで、フカヒレは日本産が質が高く、江戸時代からたくさんのフカヒレが日本から中国に輸出されていた。この背景について簡単に触れておこう。

明朝(1368~1644年)は、「北慮南倭(ほくりょなんわ)」に悩まされていた。これは、中国北部でのモンゴル人の侵入と、南の沿岸部での倭寇による略奪のことを意味する言葉で、明朝が貢物を持ってくる朝貢貿易しか認めなかったために、民間貿易によって金もうけをしたかった人々が略奪行為を行ったのである。

結局、明朝末期になると、民間貿易が認められるようになり、清朝(1644~1912年)もこの政策を引き継いだ。つまり、朝鮮半島や琉球、ベトナムとは朝貢貿易を行うとともに、日本や西洋諸国に対しては民間貿易を認めたのである。

日本では、安土桃山時代の1570年頃から、もっぱら長崎の港が国際貿易港として南蛮貿易や中国との貿易に利用された。このため、この時代の国際貿易は長崎貿易と呼ばれる。こうして、日本各地から集められた物品は長崎から海外に輸出されたのだ。

江戸時代の日本から中国(清)への主要な輸出品は、「俵物(たわらもの/ひょうもの)」と呼ばれる乾燥させた海参(ナマコ)鮑(アワビ)翅(フカヒレ)だった。いずれも中華料理の高級食材であり、俵に詰められて輸出されたことから、俵物と呼ばれたのである。

フカヒレについては、気仙沼が今も昔も一大産地になっている。目の前に魚介類が豊富な三陸の海があり、マグロやカツオに加えて、サメが大量に水揚げされてきたからだ。また、加工技術に優れていたため、気仙沼のフカヒレはとても質が高く、中国で最高級品としての地位を築いたのである。

さて、明代に高級料理として確立されたフカヒレの姿煮であるが、近年はサメの生息数が大幅に減少したことから、イギリスやアメリカなどの欧米諸国がフカヒレ漁やフカヒレの輸出入に規制をかけるようになった。その背景には、中国の経済発展によって大量のフカヒレが消費されるようになったことがある。

特に大きな問題となっているのが「shark finning(シャークフィニング)」と呼ばれる漁だ。これは、サメからヒレを切り取った後に、ヒレのないサメをそのまま海に戻すという漁法だ。価値の低いサメの本体を運ぶ必要がないため、収益性を高めることができる。しかし、海に戻されたサメは泳ぐことができずに最終的には死んでしまうため、人道的な面からもサメ資源を保護する面からも批判を集めており、多くの欧米諸国がshark finningを禁止している(ちなみに、気仙沼ではshark finningは行われておらず、サメの肉は練り物などの材料として利用されているそうだ)。

サメは生態系で食物連鎖の頂点に位置していることから、サメの生息数が変わると、生態系が大きく変化する可能性が示唆されている。人の食欲が環境を破壊する例の一つと言えるかもしれない。

満漢全席のはじまり-17~19世紀の中国の食の革命(3)

2021-12-10 21:57:49 | 第四章 近世の食の革命
満漢全席のはじまり-17~19世紀の中国の食の革命(3)
国内の反乱などにより滅亡した(1368~1644年)の後に中国を統治した(1644~1912年)は、満州族によって建国されました。当時の満州族は50万人程度しかいませんでしたが、一方の明の人口は1億人以上で、その中心は漢族でした。つまり、少数の満州族が大多数の漢族を支配していたのが清の時代です。

満州族は漢族の反発を抑えるために、明代の行政制度をほぼそのまま踏襲しました。例えば、明の官僚をそのまま登用し続け、また、科挙も継続して行いました。その一方で、漢族に満州族の伝統的な髪形である辮髪(べんぱつ)を強制するなど、文化の押し付けも行っています。このように、清代では満州族と漢族の融合が進められました。

今回取り上げる「満漢全席」も満州族と漢族の食文化が融合した最高級の料理コースとして誕生しました。つまり、「満」は満州族、「漢」は漢族のことであり、両民族の代表的な高級料理を食べつくそうという趣旨です。さて、どんな料理が出されたのでしょうか。



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満漢全席では、1回に3時間以上の宴席が数日にわたって続く。このため、途中で席をはずすのは自由であり、用事があれば帰宅してもよかった。

満漢全席は満州族の料理から始まる。満州族の方が漢族より上の立場だったので、満州族の料理が先に出るのだ。この時には、満州族に敬意を表して、服装も調度品も満州族のものが用いられた。

満州族の代表的な料理は肉料理で、調理法は単純だ。例えば、仔豚の丸焼きやしゃぶしゃぶなどが定番だった。満州族は遊牧民族であったことから、単に焼いただけ煮ただけの料理を好んだのだ。また、シューマイやなどの点心も満州族の料理として人気があり、必ず出されていた。

次の漢族の料理になると、服装と調度品が漢族のものに変えられたが、漢族の文化は洗練されていたため、満州族の時よりも厳かな雰囲気になったという。漢族の代表的な料理には、フカヒレの姿煮ツバメの巣のスープなどがあり、手の込んだ料理が多かった。

オーソドックスな満漢全席に「満漢燕翅焼烤全席」と呼ばれるものがある。満漢全席の間に「燕翅焼烤」という語句が挿入されているが、「燕」とはツバメの巣ことであり、「翅」とはフカヒレ、「焼烤」とは仔豚の丸焼きのことだ。つまり、これらの料理が出てくるものを満漢燕翅焼烤全席と呼んだのだ。

以上のような料理以外に、満漢全席では珍味と言われた珍しい食材を使った料理が次から次へと出てきたという。中国には「八珍」と呼ばれる珍味が時代ごとに定められ、珍重されてきたが、これが満漢全席で使用されたのだ。

八珍は、清代までは8種類の食材でできていたが、清代では「四八珍」と呼ばれて、四組の八珍で構成されるようになった。つまり、次のように、山八珍、海八珍、禽八珍(鳥の八珍)、草八珍の四種類、計32種類の食材が珍味として満漢全席で使用された。

・山八珍
駝峯(ラクダのコブ)、熊掌(クマの手)、猴脳(サルの脳)、猩唇(オランウータンの唇)、象攏(ゾウの鼻の先)、彪胎(ヒョウの胎児)、犀尾(サイのペニス)、鹿筋(シカのアキレス腱)

・海八珍
燕窩(ツバメの巣)、魚翅(フカヒレ)、大烏参(黒ナマコ)、魚肚(魚の浮き袋)、魚骨(チョウザメの軟骨)、鮑魚(アワビ)、海豹(アザラシ)、狗魚(オオサンショウウオ)

・禽八珍
紅燕、飛龍、鵪鶉、天鵝、鷓鴣、彩雀 、斑鳩、紅頭鷹(いずれも鳥の名前)

・草八珍
猴頭(ヤマブシタケ)、銀耳(シロキクラゲ)、竹蓀(キヌガサタケ)、驢窩菌、羊肚菌(アミガサダケ)、花茹(シイタケ)、黄花菜(金針菜)、雲香信

満漢全席が完成されたのは清の第6代皇帝乾隆帝(在位:1735~1796年)の時代であるが、そのはじまりについてはいくつかの言い伝えがある。その一つは、乾隆帝が揚州を訪れた時に、その地の豪商が、満州族と漢族の手法をとり入れた山海の珍味を満漢席と命名して皇帝に献上したというものである。

これ以外には、グルメだった乾隆帝が、珍味を108品選び、それを組み合わせて満漢全席を創作したというものがある。また、清の第4代皇帝の康熙帝(こうきてい)(在位:1661~1722年)が66歳の誕生日に北京の老人300人を招待して、漢族と満州族の料理を3日間かけてふるまったのが始まりという話もある。

さて、このように豪華な料理を食べていた清の皇帝たちであったが、それは漢族との融和をはかるための特別の宴会の時だけであり、普段の食事や生活はそれほど贅沢というわけではなかった。例えば、第4代皇帝の康熙帝が自ら語ったところによると、明の1日の宮廷費で清の1年分の宮廷費がまかなえたという。ちなみに、康熙帝は中国歴代最高の名君とされている。

北京ダックの歴史-17~19世紀の中国の食の革命(2)

2021-12-07 19:31:30 | 第四章 近世の食の革命
北京ダックの歴史-17~19世紀の中国の食の革命(2)
北京ダックは、ローストしたアヒルのパリパリした皮を、ネギやキュウリ、テンメンジャンなどのソースと一緒に薄い小麦粉の生地で包んで食べる料理です。

伝統的な北京ダックは次のようにして作ります。

まず、白いアヒルを放し飼いにした後、15〜20日間強制的にエサを食べさせます。後は、羽がむしられ、内臓は小さい穴から取り除かれます。そして、皮と肉の間に空気を送り込み、皮と脂肪を分離させます。こうすることで、ローストしたときに張りのあるふっくらとした見た目になります。次に、鴨を吊るして乾燥させ、麦芽糖のシロップをかけて皮をパリパリにします。最後に、伝統的な密閉式オーブン、もしくは、清代に開発された吊り下げ式オーブンを用いて、肉はジューシーに、皮はパリパリになるまでローストします。

北京ダックはその名の通り、北京を代表する料理であり、海外からの要人をもてなす料理としてよく利用されてきました。今回は、このような北京ダックの歴史について見ていきます。



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アヒルはマガモを家畜化して、肉や卵、羽などがたくさん摂れるように品種改良したものだ。その結果、体が大きく重くなり、反対に翼は小さくなって、ほとんど飛ぶことが出来なくなってしまった。

中国でアヒルの丸焼きが食べられ始めたのは、隋が中国を統一する前の南北朝時代(420〜589年)と言われている。の時代(618~907年)には、新鮮なアヒルを薪や炭火で焼いた料理は「燒鴨子」と呼ばれていた。これをもとに、アヒルのローストの調理法が改良されて行った。ただし、これは民間レベルのことだと言われている。

アヒルのローストが宮廷のメニューとして初めて記載されたのは、代(1271〜1368年)のことで、宮廷の食医(皇帝の食事と健康の管理を行う医者)であった胡思慧が書いた料理書「飲膳正要」に記されている。

(1368~1644年)の最初の首都は南京だったが、南京が位置する江南地方ではアヒルの飼育が古くから盛んで、アヒルのローストは南京の名物料理になっていた。そのため、明の宮廷でもアヒルのローストが出されるようになったが、これを皇帝が大変気に入り、「烤鴨」と名付けてよく食べられたという。なお、江南のアヒルのローストは、下茹でして柔らかくなったアヒルを短時間火であぶって作っていた。

明の第3代皇帝永楽帝(在位:1402~1424年)の時代に、首都が南京から北京に移ったが、それにともなって、アヒルのローストも北京に伝えられた。この料理は、当初は「金陵烤鴨」(金陵とは南京の古称)と呼ばれていた。

北京ではアヒルのローストに様々な工夫が施された。その一つがアヒルの品種改良だ。江南から持ち込まれたアヒルを品種改良することにより、雪のように白い羽、薄い皮、そして柔らかい肉質を持った、それまでよりもはるかに質の高いアヒルを生み出すことに成功したのだ。これが、現在世界中で広く飼育されているペキンアヒル(白いアヒル)の元となった。

また、南京ではゆでたアヒルを直火であぶっていたのが、北京では密閉式のオーブンでローストされるようになった。これは四角いレンガ造りのオーブンで、四方に扉がついている。アヒルをローストするときには、まず中で薪を燃え尽きるまで焚く。その後、それぞれの扉の内側に4羽のアヒルを吊るし、レンガからの放射熱で焼き上げるのだ。

こうして、新しいアヒルのローストは北京の宮廷の重要な料理となって行った。そして、次第に「北京烤鴨」と呼ばれるようになったのだ。北京ダックの始まりである。1416年には、北京に初めての北京ダック専門店の便宜坊がオープンし、北京市民も食べることができるようになった。

ところで、北京ダックは北京語で「北京填鴨」と言う。この「填鴨」とは強制的に餌を与えることで短期間のうちに太らせたアヒルのことだ。この填鴨の飼育方法も明代の北京の郊外で始まったと言われている。

北京ダックが全盛期を迎えたのは、の時代(1644~1912年)だ。清の宮廷では、アヒルをオーブンの中に吊るして焼くという、新しい調理法が採用された。この新しい調理法が優れていると考えられたのだ。1761年には、清の皇帝の乾隆帝は2週間のうちに8回も北京ダックを食べたという記録が残っている。

1864年には、北京に全聚德という料理店がオープンした。この店では、元宮廷料理人が雇われており、宮廷で食べるのと同じくらいおいしい北京ダックを食べることができたという。こうして、焼けた皮とジューシーな肉を持つ全聚徳の北京ダックは、瞬く間に貴族などの上流階級や文人たちの間にも広まり、学者や詩人の間で賞賛されるようになった。

なお、1978年から改革開放の政策が始まると、海外からの要人を全聚德でもてなすことが多くなり、北京ダックは中国の国家的なシンボルとなって行く。