台湾か華南に上陸を予定していた米軍は
サイパンや硫黄島が早く片付いたことから、
目標を沖縄に変えました。
台湾に援軍を出して、手薄になった沖縄司令部が、
陽動作戦にも翻弄され、
いとも簡単に、北谷、読谷付近に米軍の上陸を許し、
2つの飛行場を放棄してから、軍民混合の地上戦になりました。
ここからの地獄の戦いは“鉄の暴風”で知ることができます。
沖縄本島の一番細い部分、恩納、石川を結ぶ線で南北に分断され、
司令部は住民の壕を摂取しながら、
本土決戦へ時間かせぎのため、
捨て石となって南へ逃げて行きます。
南部、糸満に戦跡が多いのも、
集団自決などの最後の戦いが多かったからです。
今でも歴史教科書問題で
沖縄戦で、軍命令による集団自決はなかったとする軍国思想が、
はびこっていますが、言語道断です。
ご存知のように、沖縄が米軍に占領されてから、
27年間は、米軍の統治下にありました。
1972年5月15日に本土並みに復帰したことになっています。
以来、36年。
今なお、米軍兵士の刑事事件の報道を聞くと、
基地にさえ逃げ込めば治外法権下にあり、
現行犯逮捕でない限り、
米軍との関係は日本の法律が運用されない不公平なものです。
復帰36年、経済的発展も思うようにいかないのも事実です。
那覇空港に降り立つと、
一見、明るい、華やいだ雰囲気を感じます。
島内をドライブすると、米軍基地が
予想以上広く、多い感じがします。本島面積の20%弱あるそうです。
本土の米軍基地は旧陸軍の用地であったのに対して、
沖縄は民間地が多いのです。
信号を間違えて右折をすると、基地だったりします。
和尚も間違えました。
屋根の尖った検問所がありました。
産業と言えば、製造業が少なく、
農業も稲作が不適で土地も少ないことから、
自給自足するまでには至っていません。
漁業も寒流魚のようにはいきません。
重労働のさとうきび畑も担い手が減り、
楽なフルーツ畑への転換が見られます。
造船業も天然の良港がない沖縄では無理でしょう。
やはり、観光産業が抜きん出ています。
しかし観光立県といって喜んではいられないのです。
観光デベロッパーは本土の資本だし、
マリン産業の若者も沖縄出身ではなく、
本土の都市出身者が多いと聞きます。
観光、基地収入、公共事業にたよる沖縄の経済は
厳しいものがあります
そういったことを頭に入れながら、
島内を見て巡りました。
中でも、旧海軍司令壕は沖縄戦の実態を実感するための絶好の跡地でしょう。
和尚が行った時、通訳を連れた米兵がきていました。
那覇空港近くの小禄にある旧海軍司令壕入口です。地上部は資料館になっています。
司令官室です。
地下に迷路のように掘られた壕内には,
司令官室や作戦室・通信室・発電室などがそのままの状態で保存されており,
戦争の悲惨さと平和の尊さを実感できます。
司令官の太田実小将(後中将)は海軍次官に宛てた最後の電文で
沖縄戦の実態を訴え「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜ることを」と結んでいます。
太田少将はその後、自決しました。
県民を配慮したこのような公式電文は、
珍しかったに違いありません。
ひめゆりの塔です。
ひめゆり部隊は師範学校女子部と県立第一 高等女学校の生徒、教員で結成された従軍 看護要員で
「ひめゆり」とは、2つの学校に あった校友会誌「乙姫」と「白百合」を合わせ たもの。(説明文より)
摩文仁の丘です。沖縄地上戦終焉の地です。
この丘の平和の礎(いしじ)は世界の恒久平和を願い、
国籍を問わず、沖縄戦で犠牲になった全ての人が慰霊されています。
今回の沖縄の旅はとりあえず終りにします。
沖縄を後にする前日、
「沖縄戦記 鉄の暴風」沖縄タイムス社を借りました。
和尚の沖縄の旅は、まだ続いています。
サイパンや硫黄島が早く片付いたことから、
目標を沖縄に変えました。
台湾に援軍を出して、手薄になった沖縄司令部が、
陽動作戦にも翻弄され、
いとも簡単に、北谷、読谷付近に米軍の上陸を許し、
2つの飛行場を放棄してから、軍民混合の地上戦になりました。
ここからの地獄の戦いは“鉄の暴風”で知ることができます。
沖縄本島の一番細い部分、恩納、石川を結ぶ線で南北に分断され、
司令部は住民の壕を摂取しながら、
本土決戦へ時間かせぎのため、
捨て石となって南へ逃げて行きます。
南部、糸満に戦跡が多いのも、
集団自決などの最後の戦いが多かったからです。
今でも歴史教科書問題で
沖縄戦で、軍命令による集団自決はなかったとする軍国思想が、
はびこっていますが、言語道断です。
ご存知のように、沖縄が米軍に占領されてから、
27年間は、米軍の統治下にありました。
1972年5月15日に本土並みに復帰したことになっています。
以来、36年。
今なお、米軍兵士の刑事事件の報道を聞くと、
基地にさえ逃げ込めば治外法権下にあり、
現行犯逮捕でない限り、
米軍との関係は日本の法律が運用されない不公平なものです。
復帰36年、経済的発展も思うようにいかないのも事実です。
那覇空港に降り立つと、
一見、明るい、華やいだ雰囲気を感じます。
島内をドライブすると、米軍基地が
予想以上広く、多い感じがします。本島面積の20%弱あるそうです。
本土の米軍基地は旧陸軍の用地であったのに対して、
沖縄は民間地が多いのです。
信号を間違えて右折をすると、基地だったりします。
和尚も間違えました。
屋根の尖った検問所がありました。
産業と言えば、製造業が少なく、
農業も稲作が不適で土地も少ないことから、
自給自足するまでには至っていません。
漁業も寒流魚のようにはいきません。
重労働のさとうきび畑も担い手が減り、
楽なフルーツ畑への転換が見られます。
造船業も天然の良港がない沖縄では無理でしょう。
やはり、観光産業が抜きん出ています。
しかし観光立県といって喜んではいられないのです。
観光デベロッパーは本土の資本だし、
マリン産業の若者も沖縄出身ではなく、
本土の都市出身者が多いと聞きます。
観光、基地収入、公共事業にたよる沖縄の経済は
厳しいものがあります
そういったことを頭に入れながら、
島内を見て巡りました。
中でも、旧海軍司令壕は沖縄戦の実態を実感するための絶好の跡地でしょう。
和尚が行った時、通訳を連れた米兵がきていました。
那覇空港近くの小禄にある旧海軍司令壕入口です。地上部は資料館になっています。
司令官室です。
地下に迷路のように掘られた壕内には,
司令官室や作戦室・通信室・発電室などがそのままの状態で保存されており,
戦争の悲惨さと平和の尊さを実感できます。
司令官の太田実小将(後中将)は海軍次官に宛てた最後の電文で
沖縄戦の実態を訴え「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜ることを」と結んでいます。
太田少将はその後、自決しました。
県民を配慮したこのような公式電文は、
珍しかったに違いありません。
ひめゆりの塔です。
ひめゆり部隊は師範学校女子部と県立第一 高等女学校の生徒、教員で結成された従軍 看護要員で
「ひめゆり」とは、2つの学校に あった校友会誌「乙姫」と「白百合」を合わせ たもの。(説明文より)
摩文仁の丘です。沖縄地上戦終焉の地です。
この丘の平和の礎(いしじ)は世界の恒久平和を願い、
国籍を問わず、沖縄戦で犠牲になった全ての人が慰霊されています。
今回の沖縄の旅はとりあえず終りにします。
沖縄を後にする前日、
「沖縄戦記 鉄の暴風」沖縄タイムス社を借りました。
和尚の沖縄の旅は、まだ続いています。