和尚の大和路

和尚が撮った大和路写真を中心に、
旅で見つけた写真なども・・・

イナサ

2009-10-04 04:10:38 | カメラ
写真とは関係ない話ですが、
一つの言葉が連鎖反応を生んで
妄想へと発展することがあります。

時間があってヒマな人、読んで下さい。

伊那佐イナサがそうです。

伊那佐山、稲佐山、稲佐の浜、引佐町・・・

イサナは勇魚、鯨か。C・W・ニコル・・・

長崎の稲佐山と出雲の稲佐の浜と静岡県の引佐町(現浜松市)が思い浮かびます。
稲佐山は長崎港を見下ろす観光地であります。
稲佐の浜は国譲りの舞台になった浜です。
引佐町は浜名湖に近いみかんの産地です。
和尚はどちらにも行きましたのでよく憶えています。

長崎の地図を見ていて、
稲佐山の東麓にある寺院を見つけました。
その名前は悟真寺。
悟真寺・・・聞いたことある名前。
榛原区にあるしだれ桜でカメラマンには名の知られた悟真寺。
地図を見ると伊那佐山の東側に位置します。
はたして偶然かどうか、共通点はあるのか?
4カ所のいなさ。
浜松の引佐町で悟真寺を探しましたが、
見つかりませんでした。
ただ龍潭寺がありましたので、
彦根の龍潭寺が思い浮かび、
少し寄り道しました。
結果、
彦根城主井伊直弼の先祖が引佐町の出身でした。

出雲の大社に悟真寺はあるか探してみましたが、
見つかりませんでした。

長崎の悟真寺と宇陀の悟真寺を調べてみると、
宗派も創建も違うので、
ただ単に偶然のようです。

どうやらこの連想はムダなようでした。
でも、それはそれでいいのです。

和尚は宇陀の写真を撮るようになって、
安田に入るまでは、
伊那佐山は知りませんでした。
はじめて安田に行った時は、
伊那佐山は高見山ではと思ったくらいでした。

伊那佐山のある辺りは
古事記や日本書紀に出て来る地名と一致して、
神武の東征の舞台になっています。
またも妄想にかられます。

神武の東征はどこからでしょうか。
九州の日向と北九州の説がありますが、
妄想が許されるならば、
長崎を考えたら面白いのです。
和尚は天皇家は朝鮮半島から来たと思っているので、
朝鮮半島から九州に渡って来た時には、
北九州には邪馬台国などの国がありました。
諸国を刺激しないように、
松浦半島から南下して
長崎周辺に落ち着いたことでしょう。
長崎周辺の地形的特徴として稲佐山があった。
神武にとって稲佐山イナサヤマは聖地みたいな所だったのでしょう。
神武の東征は長崎から船に乗って神戸に着いたのではありません。
長崎から天草をへて阿蘇に入り、
日向に抜けて、そこで結束して、
北上して国東半島から瀬戸内海を東進して、
大阪(畿内)に入る。
大阪で何らかの抵抗にあい、
紀伊半島を南下して、熊野に行き着く。
熊野で長い間逗留したに違いない。
熊野からは十津川沿いに吉野に抜けた。
八咫烏を道案内にしたとあるが、
八咫烏は土着の山人(後の修験者)のことでしょう。
そして
吉野川の漁師(鵜匠)をつれて宇陀に入る。
そこで大和の勢力と戦うことになる。
戦場が伊那佐山(神武)と音羽山(大和)で
神武が勝って大和を平定するのです。

神武にとって伊那佐山は聖地または神南備に匹敵するところです。
伊那佐山のよく見える場所に八咫烏神社があります。
行ってみると分かるのですが、
八咫烏神社は伊那佐山の遥拝所みたいです。
稲佐山、伊那佐山、漢字は違いますが、
読みはイナサヤマ。
イナサというのは地名ではなく、
他に意味があるような気がします。
古代朝鮮の言葉かもしれない。

伊那佐山の北に鳥見山があります。
日本書紀によると、
神武は鳥見山に神の坐を設けました。
公園になっていますが、
その中に「鳥見山中霊畤跡(とみやまなかまつりのにわあと)」の石碑があります。
「霊畤」(まつりのにわ)は神のいる高台のことでしょう。

和尚は大宇陀から見ると鳥見山よりも
額井岳の方に目がいきます。
まさに山の文字の象形です。
額井岳を見ると宮崎の霧島連山にある高千穂峰を連想します。

額井岳


高千穂峰 宮崎観光写真 撮影MORIMORIさん

高千穂峰を連想しませんか。
天孫降臨にふさわしいと思いますがねー。
高千穂峰の近くに韓国岳(からくにだけ)があります。
神武が高千穂峰を見たのなら、
鳥見山中霊畤は額井岳にあったのではないか。

と、このようにして秋の夜長は妄想とともに更けて行くのであります。