hiroべの気まま部屋

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仏教思想:中国華厳思想概要(その7)

2021-03-10 07:58:36 | 仏教思想
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 中国華厳思想概要の7回目です。3回目までの序に続いて、4回目から本論に入り、まずは『華厳経』について、その意味と構成・主要な章(品名)を取り上げました。そして、前回までで主要な三つの品名のうち「十地品」「入法界品」についてみてきました。(過去記事はカテゴリー「仏教思想」から遡及できます。)
 今回は、主要三品名のうち残る一つ『華厳経』の中心思想ともいえる「性起品」を取り上げ、「性起」について説明します。


2.4.性起とは
 『華厳経』三四品の中で重要な品名のうち「十地品」「入法界品」についてみてきました。最後に『華厳経』の中心思想ともいえる「性起品」の「性起」についてみたいと思います。
2.4.1. 性起の意味
①性起の意義
 「性起説」は華厳の宗教的生命の分野を説明するもので、天台宗の「性具説」に対するものです。「起」は華厳を、「具」は天台を表わします。
 ・性とは:どんな人間にも本質的にそなわっている心性(しんしょう)・仏性(ぶっしょう)のこと
 ・起とは:「顕現(けんげん)」「挙起」「発起(ほっき)」の意味であり、仏性の現起すること

②二祖智儼の説
 智儼は、『華厳経捜玄記(そうげんき)』にて、「性とは体なり、起とは心地に現存するのみ」と定義しました。
 如来が衆生個々の心地に現在していることを言っています。「長い間かかって修行し、ついに清らかなるほとけの心になる、ということではない。「起」といっても、本来そなわっている仏性が起こるというのではなく、起はすなわち不起なのである。不起そのもの自体、その根本においてみるのが性起なのである。」としています。

③三祖法蔵の説
 法蔵は、『探玄記』にて、「不改を性と名づけ、顕用を起と称する。すなわちブッダの性起である。また真理を如と名づけ、性と名づけ、顕用を起と名づけ、来と名づける。それは如来を性起とすることである」と述べています。
 「不改」を性と名づけるのは、人間の本性が清浄で真実で、善そのものであり、しかも変化することがない、人間の本性の不変性を不改といい、性という。それを歴史的な人物としてもっとも典型的に具現したものがブッダであるから、如来もまた性起であるといわれる、というわけです。

2.4.2. 性起と縁起、性起の発展
①性起と縁起の関係
 性起と縁起は一つのものの見方の相違にすぎない。両者の関係は以下のように整理できます。(下表17参照)
 

②性起唯浄とは
 「性起唯浄」とは、人間の有るべき相(すがた)は善性(ぜんじょう)であり、本来的自己は清浄であることを表わした華厳のことばのことです。
 縁起は浄縁起と染縁起(ぜんえんぎ)の二面より成立し、善にも悪にも向うが、性起は絶対善の世界でなければならない。華厳においては無尽縁起の実相が善であり、無尽縁起はほとけのいのちの顕現、すなわち性起というわけです。
 性起には人間のあるべき相、本来的自己の相であるから、「性起唯浄」は真の自己を知ることだといえ、真の善はまさにここにあるのです。
 では、真の自己とは何か?それは、ほとけのいのちであり、宇宙の生命です。真の自己を知ることによって、真の善と合致できるのです。

③性起の発展
 性起の発展は『華厳経』の次の言葉によります。
「一切衆生悉(ことごと)く皆如来の智慧徳相(とくそう)を具有す、ただ妄想執着(もうぞうしゅうじゃく)あるが故に証得せず」
 これは衆生は本来からいえば、如来の相をそなえていること、本来的自己はすなわちほとけのいのちだということを表わしています。われわれ衆生の現実の心にほとけが存在している(赤肉(しゃくにく)団上に結跏趺坐(けっかふざ)している)ことが性起であるのです。
 われわれの悪業や煩悩や無明などすべてが「性起」であり、それは実体をもつものではなく、ほとけの世界からみれば、それらは非存在となる。現実に悩む心のなかにも、ほとけの光明が貫徹しているのです。

④性起と無心
 華厳の第二祖智儼は曇遷の『亡是非論』を全面的に引用して、是非の対立をなくすため「無心」を強調しました。
 人間の本来的自己とは本来なにもないということにつきる。だから性起という華厳の思想を実践的に展開させれば「無心」となってゆくのです。→実践仏教としての中国禅と哲学仏教としての華厳の接点がここに生じることになります。(詳細後述)


 本日はここまでとします。本日までで、中国華厳思想の土台となった『華厳経』の中心思想についてみてきました。次回からはいよいよ中国華厳思想のそのものについてみていくこととします。そこで、先の系譜においても少しふれましたが、まず初めに中国思想と他思想・他宗派との関係について取り上げます。
 次回は、荘子と中国華厳との関係をみてみます。しばらくお待ちください。




 (本日コメント欄お休みをいただいております。)






 


仏教思想:中国華厳思想概要(その6)

2021-02-24 07:45:34 | 仏教思想
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 中国華厳思想概要の6回目です。3回目までの序に続いて、4回目から本論に入り、まずは『華厳経』について、その意味と構成・主要な章(品名)を取り上げました。そして、前回は主要な三つの品名のうち「十地品」についてみてみました。(過去記事はカテゴリー「仏教思想」から遡及できます。)
 今回は、「十地品」に関連して「三界唯心」について、そして引き続き主要三品名のうち「入法界品」を取り上げます。


2.3.4.三界唯心とは
 三界唯心は十地の第六地(現前地)を特徴づける思想となっていますが、「三界は虚妄にして、但是の心の作なり」という一句に尽くされています。
 そこで、「三界」と「心」について、仏教ではどう解釈されてきたのかをみてみます。
①三界と五趣
 インド仏教においては、あらゆる生きものは、その生存期間中に積み重ねられた行為(業ごう)の如何によって価値の異なる生存様式のあいだを上昇したり下降したりしながら生死をくりかえす(「輪廻転生」)と考えられました。
 三界は、それぞれの生存様式を異にするさまざまな生きものの生存の場(生存領域)の総括した名称であり、それぞれの生きものの生存様式を「五趣」と呼びます。
 小乗仏教・部派仏教の理論学者ヴァスバンドゥ(世親*)の『倶舎論』では、以下(図3)のように説明しています。
 
*世親:部派仏教有部の代表的な理論家であるが、その後兄とともに、「唯識」思想を唱え、「空」思想を体系化した龍樹(ナーガールジュナ)とともに、大乗仏教の代表的な理論家の一人となった。

②「心」:五位と五蘊
『倶舎論』によれば、「心」(意識)は五位や五蘊に分類されています。(下図4参照)
 ・五位:全存在(一切法)の基本的な分類原理
 ・五蘊:五位のうち有為法のみにかんする分類原理 
 

③「三界唯心」のまとめ
 以上をまとめると、以下のように整理できます。
 ・三界に輪廻転生する生きもののあり方は心の所産である
 ・その心は貪欲から生じたまよいの心である
 ・輪廻転生のすがたはまよいの心の所産であるから、まよいの心をなくしさえすれば輪廻から脱却できる
 これらは、アーガマ(原始仏教)、アビダルマ(『倶舎論』)に説かれた仏教の基本テーゼであり、華厳思想の特徴とはいえません。ポイントは、これらのテーゼの『華厳経』における位置づけということになり、それは十地の第六地(現前地)で説かれているということになります。(前回・その6参照)

2.3.5.「入法界品」の意義と十地・八会・三四品の関係
①「入法界品」の意義
 入法界品(にゅうほっかいぼん)は、十地品(じゅうじぼん)とともに菩薩の修行の段階を説いています。会座の第八会に位置し、各会座は複数の品名により構成されていますが、第八会は入法界品のみで構成されています。
 入法界品は、毘盧舎那仏とよばれる法界に充満する真理の場において、その真理を衆生に説き明かそうとする普賢菩薩の願望にもとづき、文殊菩薩の指導に従って、善財童子が菩薩道の師を求めて南方へ遍歴をつづけたあげく、「灌頂地に住する諸仏の長子」として彌勒菩薩にめぐりあうことによって目的を達する、という構成になっています。
 このように、讃仏文学ないし仏伝文学を手がかりとする点では、十地品と軌を一にしながら、十地品のように菩薩の修行段階を論理的に解明するのでなく、菩薩道の構造を比喩的に描き出す形になっています。
 ↓
 『華厳経』の成り立ちはまず入法界品と十地品との巨視的な対応関係が確立されたうえで、十地品の構成にしたがって、全巻の構成がつくられたのではないかと考えられます。(「③八会と華厳三十四品、十地との関係」にて詳細後述)

②「入法界品」にみられる『華厳経』の世界観
 善財童子は五三人の善知識(先生)をたずね仏法の真理を求めました。
 五三人の職業は「海師(かいし)・長者・賢者・婆羅門・外道(仏教以外の宗教を信じる人)・王・道場地神・天・夜神・仙人・比丘尼・女性 など」です。
 ここでは、あらゆる職業の人に参究しています。これは、「人間の価値は出家や在家などの外形の区分になるものではなく、ただ菩薩心の有無によるものであるという『華厳経』の思想を表わしており、思想的にはわれわれ凡人であっても、宗教的願心をもつときには、たとえ日常生活のどんなささいなことでも、社会生活のふとしたできごとであっても、宗教的向上の道に役立たないものはない。」ことを示しています。
「菩提心という立場からは」世間から忘れられ、見捨てられているよう人々の生活や態度にも、無限の精神的教訓が含まれていることを述べているわけです。
 善財童子は、最後に彌勒・文殊・普賢の三菩薩を尋ねて、菩薩行を求めるのに必要な心がまえを問うています。
 弥勒は「浄き真心と知恵がたいせつである」と答える。さらに善財童子は彌勒に求め楼観(ろうかん)の門に入ることを許されます。
→これは『華厳経』の世界観の広大無辺にして、円融相即しているのは、見仏(*)という宗教的体験によって開かれる点を述べたものです。
*見仏の体験とは:『華厳経』に現れた無辺広大の世界観は、単なる夢物語や空想の世界ではない。ほとけの境地に入る三昧である海印正覚(かいいんしょうがく=悟り)の内容を説いたものである。われわれの心が浄(きよ)らかな仏心になりきるとき、ほとけを見ることができる。浄心になりきる方法は=「自我を空ずること」

③八会と華厳三十四品、十地との関係
 六十華厳は三四品から成り立っているが、この三四品は八会(はちえ)にまとめられています。
 八会の「会」とはブッダ(毘盧舎那仏)の説法の場所を意味し、第一会と第二会はブッダが悟りを開いた場所として伝えられているマダカ国の仏蹟、第三会から六会は欲天、第七会(マダカ国)、八会(コサラ国)は再び地上となっています。
 八会と華厳三十四品、十地の果報との関係は(下表16)のとおりとなっており、第一会から六会と十地の初地から七地は軌を一にしています。
 

2.3.6. 十地品・入法界品の意義
 後述のように、『華厳経』の中心思想は「性起品」にみられるように、ほとけの生命の現れを説くが、それだけで本来衆生はほとけ、などということになると、修行はいらないことになります。
 本来ほとけであるところのわれわれ衆生が、無限向上の修行を続けていくのだ、と説いたところに十地品などの意義があるわけです。


 本日はここまでです。本日は、「十地品」の第六地「現前地」の補足説明としての「三界唯心」と六十華厳のまとめとしての第八会・第三四品「入法界品」についてみてきました。
 次回は、『華厳経』の中心思想ともいえる「性起」について取り上げます。しばらくお待ちください。





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仏教思想:中国華厳思想概要(その5)

2021-02-17 08:33:01 | 仏教思想
 『今朝の天気』


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 中国華厳思想概要の5回目です。3回目までの序に続いて、前回から本論に入り、まずは『華厳経』について、その意味と構成・主要な章(品名)を取り上げました。(過去記事はカテゴリー「仏教思想」から遡及できます。)
 今回は、主要な三つの品名のうち「十地品」についてみていきます。


2.3.「十地品」、「入法界品」の概要と意義
2.3.1. 『華厳経』における「十地品」の位置づけ
 十地品は『華厳経』の巻末をかざる善財童子求道遍歴を描いた「入法界品」とともに、『華厳経』のなかでも成立年代の古い部分に属します。『華厳経』に組み入れられる以前は、それぞれ『十地経』、『不可思議解脱経』として独立した経典として流布されていました。
 つまり、両経は『華厳経』でもっとも重視された部分であり、まず、『華厳経』の構成における十地品の位置づけを明らかにする必要があります。
 前述の表11(その4)において、『法華経』全体としては、「十地品」を中心とする(二)十地系諸品を中心として、その前後に文殊経典と普賢経典とが連結したものが、華厳の胴体にあたる部分です。これに序文と入法界品を結合するとき完全なる大華厳となります。
 文殊経典では理論智の文殊菩薩を主役として「歴史的に華厳思想に先行する般若の空の思想の再確認が」され、普賢経典では、実践智の象徴たる普賢菩薩を中心として、「華厳独自の菩薩行の理想」が述べられており、両者の中間にある十地系経典では、「菩薩の修行道にかんする考察が、般若の十地思想を踏まえながらも、それを克服する華厳独自のものとして」展開されています。

2.3.2.「十地」の構成と意義
①「十地」の構成
 十地とは、大乗仏教における修行の階梯をさし、「覚り(さとり、菩提)を得ることを予め確定されている主体(有情)」を意味する菩薩(菩提薩埵(ぼだいさった))が、覚りを求める気持ちを生ずる段階(発菩提心)から出発して覚りを得る段階にいたるまでを、10段階に分けたものです。(下表12参照)
 

②十地の果報にみる十地の二段構造
 菩薩の十地の果報(修行の結果得られる善い報い)をナーガールジュナの小論『ラトナーヴァリー』(宝のつながり)にみることができます。(下表13参照)
 
 上表にみるように、初地~七地には十地の果報が以下のように割当てられています。
  初地・二地:地上の王位
  三地~七地:欲天
  つまり、欲界(*)の人と天が割り当てられています。これは、煩悩によって汚されているわけではないが、煩悩を超えてはいないことを表しています。
 さらに、八地~十地の果報では、色界(*)の諸天(梵天が住む世界)が割当てられており、この段階では、煩悩を超えていることを表しています。
*三界:無色界・色界・欲界(詳細は後述)


2.3.3.十地のかなめ
①第七地の意義
 前述のように、七地までは悟りを得たいという欲望にとらわれて、煩悩をすっかり離脱してしまったとは言えない。その悟りの欲望の頂点に達したのが七地で「遠行」の名が与えられています。これは、遠くに旅することを意味し、迷いの此岸から悟りの彼岸へとはるばる赴くことを意味します。
 つまり、第七地が、十波羅蜜(*)と十地とを具足し、それによって「一切の阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみょくさんぼだい:無上のさとり)を助くる法」を具足するということは、大乗菩薩の修行道であり、菩提を助ける法である十地の核心があることを意味するといえます。
*十波羅蜜: 「十波羅蜜」も菩薩の修行道を意味するが、十地との関係では、十地の一つの段階(第七段階)に位置づけられ、「十波羅蜜」と「十地」の10のカテゴリーは1対1の対応を示しておらず、両者の性格はいささか異にしている。
「戒・定・慧」(三学)に『般若経』では「布施・忍辱・精神」を加えて「六波羅蜜」とよび、『華厳経』ではさらに「方便・願・力・智」を加えて「十波羅蜜」とよぶ。

②第七地の位置づけ(まとめ)
・十地を第七地以前と第八地以降の二段階に区分できる
・第七地が十地のカナメである
・十地品が文殊系経典と普賢系経典の媒介の役割でありように、十地のカナメ第七地は第六地以前と第八地以降の媒体の役割をはたしていること
(参考資料:初地~十地の概要(表14))
 

③第六地の意義と位置付け
 第四地と第五地に代表される小乗から大乗にいたる論理的成果をふまえながら、縁起説をてことして、菩薩系実践の立脚点を確立したものと言えます。
 ここで悟った内容は「三界虚妄但是一心作(さんがいこもうたんぜいっしんさ)」(「三界唯心偈(さんがいゆいしんげ)」)であり、般若の知恵を発得することです。
 第六地までは向上面で、第七地からは向下面が現れる。第七地以降、般若の知恵は必然的に慈悲として具体的に生かされて来なくてはならないことを説いています。
 同じく十地品では、「智波羅蜜(ちはらみつ)」を説くが、第六地の慧と第十地の智とは異なるものです。第六地の慧は悟りへの知恵であり、第十地の智は世間にかえって働く知恵です。
(第六地(現前地)の偈の一部:表15)
 
 ここで「三界唯心」という用語が登場しました。「十地」を理解するうえ重要な内容のため、以下で説明しておきます。



 だいぶ長くなりました。本日はここまでとします。次回は、「三界唯心」について、それと主要三品名のうち「入法界品」の取り上げます。しばらくお待ちください。




仏教思想:中国華厳思想概要(その4)

2021-02-09 08:49:31 | 仏教思想
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(7:30頃)

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  本日の予想気温 最高気温: 9、最低気温: 2)



 中国華厳思想概要の4回目です。前回までは、序といった内容で、中国華厳思想の成立。発展の系譜、関係する思想・人物をみてきました。(過去記事はカテゴリー「仏教思想」から遡及できます。)
 今回からは、いよいよ本論に近づいていきます。ということで、まずは中国華厳思想の元となった『華厳経』についてみてみたいと思います。


2.『華厳経』の意味と構成・主な教え
2.1.『華厳経』の意味
①『華厳経』の正式名称と意義
 『華厳経』の正式名称は、『大方広仏(だいほうこうぶつ)華厳経』といいます。それは、「広大なるほとけ」という意味であり、ここでのほとけは、時間的にも空間的にも無限であるような人間の分別智をこえた、無分別智でとらえられたほとけでなければならない、としています。

②華厳という言葉の意味
 「華厳」は、サンスクリット語のgandavyûhaで、ganndaは「雑華」、vyûhaは「厳飾(ごんじき)」と訳します。雑華はすべての花、名もない花も含んでおり、雑華としての一輪の花の中には、無限の宇宙の生命が躍動している、というわけです。
 このような雑華をもつ荘厳された世界、それが「華厳」の意味です。

③『華厳経』の教主である「毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)」とは
 サンスクリット語のvairocanaを音写したことばで、「光明遍照(こうみょうへんじょう)」の意味。もともと太陽のことで、仏の光明の広大無辺なことを表わしたもの、報身仏(ほうじんぶつ、仏になるための修行を積み、その報いとしての功徳をそなえた仏身のこと)と考えられています。
→この大毘盧舎那仏を中心として、生きとし生けるものをはじめとして、あらゆるものが、無限の光明に照らされている世界こそ、『華厳経』のめざしている世界にほかならないのです。

2.2.『華厳経』の構成
 『法華経』のサンスクリット原典は失われており、漢訳本としての旧訳本(六十華厳)と新訳本(八十華厳)があります。以下、六十華厳をもとに説明します。
 六十華厳は「八会三十四品」より構成されています。
①「八会」からみた全体構成
 八会の「会」とは、会座のことで、法会・講説などで参会者が集まった場所、またその集まりのことをさします。『法華経』は、説法の進展につれて、会座の場所は上昇し、悟りを求める修行僧の進展にしたがって心が向上する過程が詳説されており、これを八段階に分けています。(下表10参照)
 

②品名(章)からみた全体構成
 章は三四品から構成されています。(下表11参照)
 
 以上三四品の内、もっとも重要なのは性起品(しょうきぼん、ほとけの命の現れを強調(宝王如来性起品))と十地品(じゅうじぼん)・入法界品(にゅうほっかいぼん)(ともに菩薩の修行の段階を説く)の三つの品名です。
 十地品・入法界品は、龍樹以前に成立しており、龍樹以前の大乗仏教運動の高まりが菩薩の修行の過程を説こうとしたと考えられます。
 以下、これら三つの品名の概要と意義につき個々にみていきたいと思います。


 本日はここまでとします。次回は、三つの品名のうち「十地品」についてみていきます。しばらくお待ちください。





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仏教思想:中国華厳思想概要(その3)

2021-02-03 08:42:44 | 仏教思想
 『今朝の天気』


(7:45頃)

 今朝の温度(6:00) 室温 リビング:18.3、 洗面所:20.0、 湿度(リビング):34%
 (昨日の外気温 東京、最高気温:15.6、最低気温: 4.3
  本日の予想気温 最高気温:12、最低気温: 2)




 中国華厳思想概要の3回目です。前回(その2)、前々回(その1)は、序といった内容で、中国華厳思想の成立。発展の系譜、関係する思想・人物をみてきました。
 今回は、その序の部分の最後となります。中国華厳思想の影響を受けた人々、それと三祖法蔵以降の中国華厳宗の動向についてみていきます。

1.5.華厳宗の影響を受けた人々
①『華厳経』信仰グループ・斎会(さいえ)
 南北朝時代から、斎会(さいえ)といわれる僧侶と一般人の修行のための集会(元来は食事を布施する行事)として「法華斎」、「華厳斎」などがありました。
 華厳斎はやがて、規模が拡大し結社化されていきます。(下表6参照)
 
 グループ信仰の対象例としては、「入法界品」の求道者善財童子に対する信仰や、文殊菩薩・普賢菩薩への信仰、さらに文殊菩薩の霊地としての「五台山」信仰が一般民衆のなかに根付いたということです。

②法蔵以降の華厳宗
 法蔵以後の華厳宗は一時衰退しますが、四祖澄観(738-839)の時に再び盛んとなり、五祖宗密(780-839)と引き継がれます。
 (下表7参照)
 
 華厳宗としては第五祖宗密で一応、学統が途絶えます。しかし、その思想は中国史の中に深く浸透して大きな影響を与えたといえます。

③華厳宗の禅宗への傾斜と明恵上人
 華厳宗第四祖澄観、五祖宗密の時代、華厳宗に代わり禅宗が勃興、華厳思想は禅の中へ形を変えて生かされていくことになります。
 また、日本においては、中国同様、奈良時代にはもっぱら学問的関心のみであった『華厳経』に対して、鎌倉時代にはそれへの実践者が登場します。それが明恵上人(1173-1232)です。(明恵の経歴 下表8参照)
 
 明恵は、「仏光(ぶっこう)三昧観」という観法を修しました。これは、禅との関係からと考えられます。明恵の禅は栄西から受けましたが、「臨済禅」というわけではなく、「一切の求める心を捨て、ただ無所得の心をひっさげて行うところの無所得の行道こそが真実である」としています。
 また、明恵と道元(1200-1253)には多くの共通点がみられます。(下表9参照)
 
 道元の思想である「只管打坐(しかんたざ)」の仏教の中には華厳の思想が指摘でき、明恵の華厳が道元に影響を与えているのではと推測できます。


 本日はここまでです。次回からいよいよ本論に入っていきます。まずは中国華厳思想の元となった『華厳経』についてみてみたいと思います。しばらくお待ちください。




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