hiroべの気まま部屋

日ごろの出来事を気ままに綴っています

仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>(その4、完)

2018-02-13 09:36:55 | 仏教思想
 仏教の思想その第十二巻<日蓮>の(その3)「2.日蓮の主な著作と思想」(過去記事)の続きです。

2.日蓮の主な著作と思想(つづき)

(7)『観心本尊抄』とそれにみる日蓮の仏教思想
 ①慈悲に立つ永遠論と内省の克服
 『開目抄』にみられるように、永遠に向かって日蓮の眼は開かれたのであり、その永遠に向かって盲いる衆生の眼を開かせたのは、彼の慈悲なのです。
 『開目抄』はこのような慈悲の上に立った永遠論ですが、一方で再三再四、「自己とは何か」、そういうお前は天下一のえせ者ではないか、という問いが日蓮を妨げます。が、やがて、この内省も日蓮のありあまる生命力が征服してしまします。
 日蓮は自問自答します。「日蓮とは何か。自分はすでに法華経の一行者にとどまらないのではないか。自分こそ、末世に仏が、『法華経』の流布のためにおつかわしになった上行菩薩ではないか。」と。ここに日蓮は自己に対する懐疑を克服するのです。
 上行菩薩への自信は『開目抄』から『観心本尊抄』になるともっとはっきりしてきます。

 ②『観心本尊抄』とは
 この著作の正式名称は『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』とあり、釈迦が死んで五五百年後つまり二千五百年後にはじめて、心の本尊を観る抄だというわけです。二千五百年後とはまさに日蓮の生きている末法です。末法においてはじめて心の中にある本尊心を見るという仏教が起こったといっているのです。それは日蓮独自の仏教です。

 ③天台智顗の一念三千とは
 ここからは『観心本尊抄』の内容に入っていきます。最初に日蓮は天台智顗の『摩訶止観(まかしかん)』(中国天台宗の修行法を著したもの)から「一念三千」(一念、つまりわれわれの瞬間の心や生命に三千世界、あらゆる存在が宿っているという天台宗の根本原理)について説明します。
(三千世界の構成)
 
 ここで、日蓮は「三世間」について重視します。三世間がなくてはたんなる観念論だ、三世間、つまり衆生・五蘊・国土にも心がある、生きとし生けるものばかりか、物質や国土にも心がある、そこにおいてはじめて非情の成仏が示されている。非情の成仏がなかったら、木で作った像や紙に書いた僧を本尊として拝むことが無益になる、と説いているのです。ここには新しい本尊論の伏線がみられます。

 ④「南無妙法蓮華経」、事の一念三千
 一念三千の世界を知る、特に仏の世界を知る、そのための方法(観法)においても、日蓮は智顗とは違った方法をあみ出します。
 智顗の観法では、直接おのれの心を見ます。心を澄まして、おのれの心を見よ、そうすれば、地獄から仏までがおのれに心に現ずるとしています。
 しかし、日蓮は、この方法はわれわれ末法凡夫には難しくてできない、われらが仏を見るには「南無妙法蓮華経」ととなえることではじめて可能になると。
 「南無妙法蓮華経」は日蓮にとって、たんなる経典の名ではないのです。それは宇宙の実在で、それが永遠の仏なのです。日蓮は智顗の一念三千論に、彼独自の観心の方法論、実践的な方法論を付け加えたのです。それは理の一念三千に対して、事の一念三千とというものでした。

 ⑤日蓮、上行菩薩の誕生
 日蓮は『法華経』そのものが、末法の衆生のために書かれたとみています。そして、法華経の行者は苦難にあうと経にある。日蓮自身が苦難にあって法華の行者であることを証した、としています。
 また、上行菩薩をはじめとする菩薩が、末法の初め、地上に出現し『法華経』を流布する。日蓮こそあの『法華経』に予言された受難を一身に受けた、この上行菩薩だとしているのです。

 ⑥歴史的哲学の創造
 『法華経』のなかに「種・熟・脱の論理」というものがあります。日蓮は、この論理は『華厳経』や『大日経』にはないので、『法華経』がもっともすぐれているとの根拠の一つにしています。
 この論理は、過去に大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)という仏がいて、その説法が種となって、その後『法華経』成立までのいろいろな説法を聞く中でその種が成熟し、そしてついに『法華経』の「本門・寿量品」の説法を聞いて、その種が脱して、さとりを開くというものです。
 しかし、この論理の実践にはとほうもない長い時間がかかり、末法凡夫にはそうした仏の種はないのではないかと日蓮は考えたのです。そこで、その凡夫を救う方法として、種・熟・脱を一気に行う仏法が必要と日蓮は考え、それが「南無妙法蓮華経」の信仰だというのです。
 釈迦の在世時は時間をかけて脱を教えることが出来たが、末法の現在は「種・熟・脱」の一気の教え、寿量品を中心とする法門に対して、こちらは「南無妙法蓮華経」を本尊とする法門だ、というわけです。
 ここでは、一つの歴史的時間論が確認されたことに注意が必要です。末世の現在(日蓮の時代)は、釈迦在世時への還帰であると同時に、釈迦来世時を「題目の法門」においてすでに凌駕しているのです。ここに、まさに、日蓮の現在の肯定があるのです。
 末法の時代、五六億七千万年の間の闇の世界、法然は未来の彼岸にその期待を投げましたが、ここでの未来はまさに希望豊かです。浄土がこの世に実現されるのです。

 ⑦価値創造者への転換
 日蓮は『観心本尊抄』において新しい仏教の宣布者になったのです。新しい仏教には新しい本尊が必要でした。日蓮が『観心本尊抄』を書いたのが文永十年(1273)四月でしたが、その年の七月、はじめて本尊を図に描いてそれを「大曼荼羅」と名づけました。
 「南無妙法蓮華経」の文字が塔の形で空中にかかっています。そして、第一グループとして「釈迦・多宝仏・上行菩薩など」、第二グループとして「文殊・普賢・舎利弗・日天・月天・天照大神など」、さらに第三グループとして「天台大師(智顗)、伝教大師(最澄)」が続いています。
 もし、日蓮が自ら宣言したように末法の上行菩薩なら、第一グループとなり、智顗や最澄も及ばないことになります。ここにおいて日蓮は、はじめて、天台教学を超克したのです。(日蓮宗の立宗宣言と言えそうです。この言葉は本文にはありません。)
 
3.身延時代の日蓮とまとめ
 佐渡における日蓮の教説がほぼ完成した文永十年三月二十六日、突然の赦免の令が下り、日蓮は鎌倉に下り、1か月半後身延へ向かい晩年をここ身延で過ごします。
 佐渡において教説を完成していた日蓮は、身延においてはその教説の布教に力を注ぎます。その方法は特に彼の弟子や保護者に多くの手紙を書くことだったのです。そして、その新しい思想の保護育成活動は成功し、多くの門下が育っていきます。そして日蓮の門下は、師日蓮同様、多くは戦闘的な布教者でもありました。
 身延にとどまること9年、体のおとろえを感じた日蓮は弘安五年(1282)九月に身延を下山、故郷での保養に旅立ちます。しかし、九月十八日池上まで来て動けなくなり、十月十三日池上にて亡くなりました。
(おわり)

 以上、今回も長々としかもうまくまとまりせんでしたが、「仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>」の整理ノートよりの抜き書きの整理結果でした。

 熱情の人、日蓮、それは非常な自信家でもあり同時に内省の人、まさに多感な人でもあったわけです。それはおそらくは彼個人の性格でもあったのでしょうが、同時に、多くの思想家同様に彼の生い立ちが大いに関係していそうです。
 平安、鎌倉仏教の開祖といわれる人たち、そのほとんどが身分の上下はあるもののいずれも、当時の支配階級に属する家系の出身でしたが、一人日蓮だけは千葉の漁師の息子という、自らも語っているように下賤の生まれでした。
 このため、多くの開祖が自己実現のための出家の道を選んだのに比べ、日蓮は親の期待を一身に受けての「立身出世」の手段としての出家であったわけです。
 そのことが、誰にも負けられない、特に恵まれた家のインテリには絶対負けたくないとの気負いが彼にあったとしても、当時の身分社会の中では当然の結果だったのではないかと思われます。叡山の大天才といわれた法然に対する異常なまでの対抗心は、もっとも具体的なそのことの現れと思われます。
 その日蓮の熱情は、その弟子に、そして現代までも続いているように思われます。ということで、本著の著者の一人、梅原猛氏の最後のことばをご紹介して、締めとしたいと思います。

 『とにかく、この熱情の人は死んだ。この熱情の人が死んで、七百年になんなんとするが、まだその熱情は、世界に大きな波乱を投げようとしている。』

 (ご参考:仏教の思想12は昭和44年(1969年)に初版が角川書店から出版されました。)





 
 



 

仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>(その3)

2018-02-06 07:55:36 | 仏教思想
 仏教の思想その第十二巻<日蓮>の(その2)「2.日蓮の主な著作と思想」(過去記事)の続きです。

 (その2)では、鎌倉時代の主な著作とそこにみられる日蓮の思想について取り上げましたが、今回は佐渡流罪時代に書かれた、2つの著書を取り上げ、そこから彼の思想の根本を探りたいと思います。
 (その1)の日蓮の経歴(過去記事)でもわかるように、日蓮の佐渡流罪の期間は3年程度でした。したがって、この3年間で彼の思想のすべてが作られたわけではないでしょうが、冬の厳しい環境に置かれて、それまでとは違ったより深い思想が形成されたのは、この環境とは無縁ではなさそうです。

2.日蓮の主な著作と思想(つづき)
(4)受難を説く『法華経』と常不軽菩薩
 ①なぜ迫害を受けるのか
 日蓮の人生は苦難と迫害の連続でしたが、佐渡においてそれは頂点に達しました。この苦難、迫害が頂点に達した時、彼の宗教的情熱もまた絶頂に達し、彼の理論活動もまた絶頂に達しました。
 なにゆえ、法華経の行者である日蓮が難にあわなければならないのか。法華経の行者は、神仏にによって守られるべきではないか。
 この問いに対して、ほかならぬ『法華経』の経典のなかに、彼の受難の真の理由を見出したのです。

 ②『法華経』の構成と菩薩の苦難
 『法華経』(28品)は「迹門(しゃくもん)」(14品)と「本門」(14品)の大きく二部構成となっており、その前半部分の迹門のなかの後半部分、法師品(ほっしほん、第10品)から安楽行品(あんらくぎょうほん、第14品)までは、迹門の他の部分と多少違った内容を持っています。そのテーマは「菩薩の苦難」ということです。
 ここでは、菩薩、すなわち人類救済のために働くリーダーはどうあるべきか。そのような菩薩は、仏の使いとして正法流布の大使命をおびてこの世に生まれた。それゆえに、さまざまな菩薩、迫害にあうというのです。特にこのことは「観持品(かんじぼん、第13品)にもっともはっきりと書かれています。
 この観持品では、受難にあっても、なお忍んで仏さまに精進せよとしています。「身命を愛せず、無上道を惜しむ」、さまに思想家がいつもおのれの心に、絶えず言い聞かせなければならないことばなのです。「身命を惜しまず、真理が世に行われないことを悲しめ」なのです。

 ③常不軽菩薩
 日蓮は言います。「日蓮一人之読めり」と。この観持品のことばの意味をかって正確に読んだ人はいない。「日蓮なくんば、仏の言は虚言するべし」、まさに釈迦の予言が、日蓮の受難によってはじめて真理とされた。日蓮がなかたったなら、釈迦はウソつきだというわけです。何ということばでしょうか!
 こういう考えにより、日蓮の受難は正当化されます。日蓮は佐渡に流される途中で、ある思いを持ちます。それは、「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」です。この菩薩は、『法華経』本門の第20品「常不軽菩薩品」に登場する菩薩で、自分をいじめる人間に対してもその内なる仏性を礼拝する、という菩薩です。この時期の日蓮は常不軽菩薩を自らに投影していたのです。
 しかし、佐渡への途中で語ったこの常不軽菩薩を、日蓮はその後はあまり語らなくなります。日蓮の姿は忍ぶというような消極的なものではなかった。もっと実践的な、もっと積極的な苦難に対する対処のし方が彼の本来の生き方であったのです。

(5)苦難の喜びと佐渡での二つの著作
 日蓮は、積極的な苦難に喜びを感じる。そしてその喜びは、苦難が徐々に激しくなってゆけば、ゆくほど、強くなっていきます。
 
 これは、日蓮が佐渡流罪が赦免される1年ほど前に書いた『正法実相鈔』のことばです。日蓮は多情多恨の人ではあるが、それは『法華経』のためであったのです。受難の生活で多くの涙を落とす彼でしたが、その涙は悲しみより喜びの涙、法悦の涙だったのです。
 佐渡の生活について日蓮はいろいろと書いています。特に文永八年の十一月から文永九年の四月、一ノ谷へ移るまでの塚原はひどいところであったようです。
 そんな佐渡において日蓮は多くの手紙を書いています。すべてが遺言のつもりでした。その多くの手紙の中から、日蓮生涯の傑作『開目抄(かいもくしょう)』と『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』が生まれたのです。

(6)『開目抄』とそれにみる日蓮の仏教思想

 ①自己への問い『開目抄』
『観心本尊抄』は日蓮得意の問答体であり、大変論理的な形をもっているが、『開目抄』は論理的に整理するのが大変難しいのです。
 二つの問いが『開目抄』を貫きます。二つの問いとは『法華経』とは何かという問いと、日蓮は何かという問いで、前者の問いは、しばしば後者の問いにかき乱されます。
 宗門では『開目抄』を人開顕(にんかいけん)といって、法開顕(ほうかいけん)の書である『観心本尊抄』と区分するようです。人開顕とは、法華経の行者としての日蓮の本質が明らかになったことを意味するようです。
 日蓮が自己の教説を語ろうとするとき、執拗におのれはどれほども者だ、という問いがおそってくるのです。この『開目抄』書いた時期の日蓮は、客観的な教説と、自己とは何かという問いの間で大きく揺れ動いていたのです。それが、解決されるのは『観心本尊抄』を書く時期ですが、それは後述します。

 ②もっともすぐれた経典は『法華経』-「五重相対」
 『開目抄』で日蓮は、『法華経』が最も優れた経典であることを評価した五分類について説いています。それが「五重相対(ごじゅうそうたい)」です。
 

 ③「二乗作仏」の思想
 日蓮は天台智顗(中国天台宗の開創)の教説を通して獲得した釈迦の正法は『法華経』であるという信念に、もう一度理論的吟味をかけます。『法華経』の独自思想は何か?日蓮はそれを二乗作仏(にじょうさぶつ)と久遠実成(くおんじつじょう)の思想だというのです。
 二乗作仏とは、二つの小乗の徒(*声聞と縁覚)でも仏になれるという説です。
 大乗仏教では、山にこもってさとりにふける仏教徒は、山を下り大衆を救わねばならないと主張します。このため、声聞・縁覚の代表者である舎利弗(しゃりほつ)や迦葉、目犍連(もつけんれん)たちはひどく批判されます。その代表経典が『維摩経(ゆいまぎょう)』で、二乗は永遠に成仏できないとされています。
 しかし、『法華経』では、二乗に対する見方が変わります。二乗もまた成仏できるというのです。特に第一品(序品)から第九品(授学無学人記品)に至る九巻は釈迦の説法で、声聞・縁覚がしだいに仏になることが約束されています。
 さらに『法華経』では悪人や、それまで説かれなかった女性の成仏を初めて説いており、全ての人間が成仏する教え、平等慈悲の教え、いわゆる「一乗の教え」が説かれている。このことを、日蓮は独特の手法で実に見事に分かりやすく説いています。
 *声聞(しょうもん):釈迦の教えを直接聞いてさとった弟子たち
  縁覚(えんがく):釈迦の教えを直接聞かずにさとった小乗の徒たち

 ④「久遠実成」の思想
 久遠実成とは、『法華経』で語る釈迦がけっして歴史的人間としての釈迦でなく、永遠不滅の法身仏としての釈迦であるという思想です。この思想は『法華経』の後半本門の第十六品「寿量品」ではじめて語られます。
 日蓮はこの久遠実成の思想はただの永遠論でなく、この娑婆世界がそのまま永遠である、現世肯定の永遠論だとしているのです。

 ⑤「久遠実成」の思想と日蓮の本家中心主義
 『法華経』にみられる永遠論は密教にも、浄土教にもあります。しかし、このことを日蓮は認めません。その理由の一つに日蓮の中にある本家中心主義のようなものがあったといえます。
 全仏教の本家は明らかに釈迦である。その釈迦をあがめなければならない。それゆえ、釈迦より大日や阿彌陀をあがめている諸宗は本家本元の仏を無視することであり本末転倒だ、と日蓮はしているのです。
 日蓮が密教や浄土教に反対したのは、この本家主義ばかりでなく、他の経典はこの世とは別の所を浄土とすることにもありました。日蓮が『法華経』ではじめて久遠実成という思想が語られたとみたのは、現世肯定の永遠性がそこで初めて語られたとみたからです。

 ⑥天台智顗の五時の思想解釈と「久遠実成」の思想
 日蓮は、智顗の五時(過去記事、2.日蓮の主な著作と思想(2)『守護国家論』①天台教学思想-天台智顗の五時八経、参照)についても、智顗とは別の解釈をします。
 智顗の解釈:華厳でみごとな形而上学的思想を釈迦は語ったが、人々はそれを理解できなかったので、分かりやすい阿含にうつった。
 日蓮の解釈:華厳は釈迦の説ではないとする。それは前仏から釈迦が学んだもので、独自の思想ではない。独自思想は『法華経』で始められた、とする。
 つまり、五時の思想の真実はともかく、永遠の仏のあらわれとしての現世肯定、そのような叫びが浄土教はおろか、密教にも華厳にもない、と日蓮はいうのです。
 生がどんなに苦難の中にあっても、永遠を、永遠の法楽を含むとすれば、生はすばらしいことなのだ。日蓮は、その生のすばらしさを実践と理論においてみごとに果たしたのです。

 今日で終えるつもりでしたが、また長くなってしまいました。ということで、今日はここまでで。
 次回、『観心本尊抄』について説明して、今度こそ終わりにしたいと思います。






 


 
 
 
 
 
 



 
 

仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>(その2)

2018-01-16 08:26:50 | 仏教思想
 仏教の思想その第十二巻<日蓮>の続きです。

 前回の経歴(過去記事)でもわかるように、日蓮の布教活動は苦難の連続でした。それは一般的に日蓮の四大法難と呼ばれています。

 ①伊豆法難  弘長元年(1261)5月12日 40歳 伊豆への流罪
 ②小松原法難 文永元年(1264)11月11日 43歳 小湊帰省時に地頭東条景信の襲撃にあい負傷する
 ③瀧口法難  文永八年(1271)9月12日 50歳 『立正安国論』に平左衛門尉頼綱(執権の執事、御家人の筆頭)あての手紙をそえて幕府に提出するも、激怒した頼綱にとらえられ、処刑されかけるが異変が起こって助かる。
 ④佐渡法難  文永八年(1271)10月28日 50歳 佐渡流罪 

 これらの法難は、いずれも日蓮の情熱的、過激な布教活動の結果でした。それは、『法華経』のみが正法であり、あとはすべて邪教であるという極端な他宗派の排撃によるものであり、排撃された他宗派、特に念仏信者から激しい反感をかった結果でした。
 それでは、そんな日蓮の仏教思想はどのようなものであったのか、それは鎌倉時代に書かれた主著といわれる『立正安国論』など、それと佐渡で著された二つの著書で明確に述べられています。以下その内容をみていきたいと思います。

2.日蓮の主な著作と思想

(1)鎌倉時代の主な著作
 日蓮は、出家、比叡山での修行、その後の遊学を終え、結果的に鎌倉で布教をはじめます。その鎌倉に入って五年後正嘉二年(1258)に、彼は岩本の実相寺(静岡県富士市内)に入って「一切経」(大蔵経)をひもといて読書と思索にふけったといわれています。その結果でしょうが、翌正元元年から翌々年文応元年にかけて次々と著作が生まれます。
 『守護国家論』『念仏者追放宣旨事(せんじのこと)』『災難興起由来』『災難対治鈔』『立正安国論』『唱法華題目鈔』などです。
 この中で重要と思われる『守護国家論』と『立正安国論』について、その内容とそこに表されている思想をみていきたいと思います。

(2)『守護国家論』
 この『守護国家論』は、法然の『選択本願念仏集』に対する反論の書です。梅原氏(仏教の思想その第十二巻<日蓮>の著者の一人)は日蓮の本の中でも、もっとも理論のきめ細かい本ではないかと述べていますが、そこで、日蓮が法然に反論する論法に二種類あるとしています。一つは彼が叡山で学んだ天台智顗(中国天台宗の開祖)の論法でした。今一つは、日蓮の時代に応じた彼みずからの独自の論法でした。

 ①天台教学思想-天台智顗の五時八経
 それでは、まず天台智顗の思想とはどんなものであったのか、智顗の代表的な説、「五時八教」について簡単に触れます。
 中国にはさまざまな仏教経典が同時に入ってきました。その膨大な文献を整理した大成者が天台智顗でした。智顗は教説を五時に分け、釈迦の一生の五つの時期に当てはめていったのです。(このように、経典を整理し、判定していくことを「教相判釈(きょうそうはんじゃく)」と呼び、智顗はそれを行った代表的な一人です。)
 第一期:『華厳経』を説いた。しかし難しく人々によく理解されなかった。
 第二期:分かりやすい『阿含経』(あごんきょう、原始仏教、小乗仏教)を説いた。小乗の教え十二年説いた。
 第三期:大乗の教えに導くため『維摩経』(ゆいまぎょう)を中心とする方等(ほうどう)の教え、在家仏教者中心の教えを十六年説いた。
 第四期:般若の教え、「空」の教え、大乗の中心思想を十四年説いた。
 第五期:最高の教え『法華経』を八年間説いた。
 智顗は、このような「五時」と名づけた時代考証に、「八教」と名づける価値判定表を付け加えたのです。
 教説の形式による分類ー化儀の四教:頓教(とんきょう)・漸教(ぜんきょう)・秘密教・不定教(ふじょうきょう)
 教説の内容による分類-化法の四教:三蔵教・通教(つうきょう)・別教(べっきょう)・円教(えんきょう)
 以上から、智顗は、『法華経』は釈迦が最後に説いた最も優れた円教中の円教、最上最高の仏教であるとしているのです。そして、その智顗の教説を信じ、日蓮はみずからの教説の根拠としたのです。

 ②法然の主張への攻撃
 法然は『法華経』はすぐれた教えだが、その教えでは末法に生きる凡夫は、もっとやさしい、もっと単純な救いの方法である「浄土三部経」にもとづく口称念仏によらなければ救われない、としています。
 そこで、日蓮は、この法然の主張を逆手に取って攻撃をします。
 法然は「浄土三部経」が末法時代にあって、一番最後まで残り、人々を救うとしていますが、日蓮はどの経典をさがしても、日本浄土の源信の本を読んでも、『法華経』より「浄土三部経」があとあとまで残るとの説はない、「浄土三部経」のすぐれていることは説いているが、それは『法華経』との比較においてではないのだと指摘しているのです。狂気の人との印象もある日蓮ですが、実際には鎌倉仏教の開祖の中では最も理論的な人であったということのようです。

 ③題目の発明
 法然は「末法の時代にわれわれ凡夫が救われる方法は難行ではなく、易行、つまりナミアムダブツと口でとなえる念仏行しかない」との説に対して、日蓮が発明したのが「題目」でした。つまり、もう一つの日蓮独自の論法とは、「題目」のことでした。
 「南無妙法蓮華経」と『法華経』の本の名前を、題目を唱えること、それによって『法華経』全体を通読したのと同じ利益をえようというわけです。

 ④「題目」にかくされた哲学
 法然は『法華経』難行だと言っているが、日蓮はそうではないと以下のように説いています。
 「口に読経の声を出さざれども、法華経を信ずる者は日々時々念々に一切経を読む者なり。仏の入滅は既に二千余年を経たり、然りと雖も法華経を信ずる者の許に仏の音声を留めて、時々刻々念々に我死せざる由を聞かしむるなり。心に一念三千を観ぜざれども、徧(あまね)く十方法界(じっぽうほうかい)を照らすものなり。此等の徳は偏(ひとえ)に法華経を信ずる者に備われるなり」
 「今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて、十方世界の三身(さんじん)円満の諸仏をあつめて、釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に、一仏一切仏にして妙法の二字に諸仏収(おさま)れり。故に妙法蓮華経の五字を唱(となう)る功徳莫大也。諸仏諸経の題目は法華経の所開也、妙法は能開也として、法華経の題目を唱べし」

 つまり、『法華経』は、釈迦のすべての教説の精髄であり、南無妙法蓮華経ということばは『法華経』の精髄である。したがって南無妙法蓮華経ととなえれば、『法華経』全体を通読したと同じばかりか、全経典を通読したのと同じ功徳を得るというわけです。
 日蓮の師ともいえる天台智顗は『法華玄義』という本の中で、南無妙法蓮華経という題目を解釈していますが、日蓮もこの智顗の題目重視の精神を継承したといえます。また、南無妙法蓮華経ということばに、全仏教はおろか、全存在が含まれるとしていますが、これは、一瞬の心の中にあらゆるものがふくまれる、という天台の「一念三千」の思想に沿ったものといえそうです。

 ⑤法然の影響
 日蓮の口称念仏という敵の武器をうばって、おのれの武器とする戦術は巧であったが、そのことは無意識のうちに法然の思想をうけたものであり、『法華経』という正統派仏教を標榜する彼の教説を無意識のうちにオーソドックスな天台の教説と別れさせるものとなるものでした。(このことは、佐渡流罪時代の著作とその思想といったところで、詳述することになると思います。)

(3)『立正安国論』
 ①『立正安国論』の著作理由
 『守護国家論』で法然の謗法(ほうぼう、誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の略で、 “誹謗正法”とは、仏教の正しい教え(正法)を軽んじる言動や物品の所持等の行為を指す)の正体を論理的に明らかにした日蓮は、このことに対する正法の採用を幕府に提案します。それが『立正安国論』だったのです。
 彼は北条氏にある種の親しみを感じていたようで、特に時頼は名君として噂の高い政治家でした。

 ②『立正安国論』の構成
 本著は主(僧、おそらく日蓮自身)と客(俗人、ひそかに時頼をさすか?)との間の10の対話からなりたっています。
 対話は客の嘆きから始まります。客は天災地変が頻発し、民は嘆いているが、どういう理由かと憂います。この憂いに、主は、それは「世皆正(しょう)に背き、人悉く悪に帰す」からだと答えます。
 こうした対話から始まって、主は最初は、いぶかしみ怒る客に対して、『守護国家論』で論証した説を徐々に簡明に説いていきます。すると、客もだんだん主の論理に説得され、最後はやはりこの邪法を世にもたらした念仏の徒を退治して、早く泰平の世をもたらしたいというところで終わります。

 ③仏教の暴力肯定と日蓮の立場
 仏教は原始以来、暴力否定の立場をとっています。しかし釈迦以来徐々に現世肯定、世俗肯定の立場をとり、この方向は当然国家肯定へとつながります。したがって仏教が国家との関係をもつかぎりにおいて、力の問題が重要な問題となってきます。
 暴力の問題をもっとも真剣に思索した経典は『涅槃経(ねはんぎょう)』と思われます。『涅槃経』の次の言葉には明らかに暴力肯定の思想がみられます。
 「又云(いわ)く、仏の言(のたま)はく、迦葉(かしょう)、能く正法を護持する因縁を以ての故に、是の金剛身を成就することを得たり。善男子(ぜんなんし)、正法を護持せん者は、五戒を受けず、威儀を修せずして、応(まさ)に刀剣弓箭鉾槊(箭は矢、槊は槍のこと)を持すべし」
 「又云く、若し五戒を受持せん者有るも、名づけて大乗の人と為すことを得ざるなり。五戒を受けざれども、正法を守ることを為せば、乃ち大乗と名く。正法を守る者は応当(まさに)刀剣器杖を執持すべし。刀杖を持すと雖も、我是等を説きて名けて持戒と曰はん」

 日蓮は、この『涅槃経』の文句をひき、王たるものは力によって正法を世界に普及させなければならないと説いたのです。

 ④日蓮の予言
 さらに日蓮はこの『立正安国論』の中で一つの予言をしています。それは経典の中に、正法が滅びるとき七難が起こるとある、そのうち五難はすでに起こっているが、あと二難が残っているとしているのです。
 その二難とは、他国侵逼(しんひつ、侵略のこと)の難と自界叛逆(自国の叛乱)の難である、としているのです。
 つまり、『立正安国論』は、正法の採用のすすめであると同時に、採用しないことへのおどしでもあったのです。

 ただ、結局、この当時の無名の僧による上申を幕府は黙殺する結果に終わっています。これには、この上申で日蓮に対する念仏者の一層の反発が起こることを心配した、時頼の日蓮に対する温情、という見方もあるようです。

 以上で、鎌倉時代の主な二つの著書の内容を紹介し、この時期の日蓮の思想をみてきました。本日はここまでとしたいと思います。
 次回は佐渡流罪時代の二つの著書の紹介をし、日蓮の思想の根本に迫り、まとめとしたいと思います。





 
 



 

 



仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>(その1)

2018-01-06 07:50:38 | 仏教思想


 仏教の思想全12巻の最後、日蓮さんのノート整理が終わりました。この後、9巻から12巻までの日本編4巻分の最終整理(作成したノートをword化する作業)が残っており、それにも最低1年はかかると思いますので、これでお終いとはなりませんが、一応の区切りがつきました。

 そこで、日蓮さんです。日蓮さんといえば、どんなイメージをお持ちでしょうか? ともかく情熱の人、過激な人、というのが一般のイメージでしょうか。事実そういった面を多く持った人だったようです。

 正直私はあまり良いイメージを持っていません。今ではそんなことは全くないのですが、日本最大の仏教系新興宗教団体が日蓮系で、その創世期においてはかなり過激な信者勧誘活動があったことで知られています。事実子供の時には、実家の前のお宅もその被害にあったのを目にしており、日蓮さん=過激な宗教団体の教祖のイメージがついているからです。
 もっとも、仏教系の新興宗教団体といえば、2大勢力のもう1つの団体も日蓮系で、そちらにはわが母も、また義両親も入信していて、熱心な信者でした。
 つまりは、日蓮さんの情熱はこれらの新興宗教団体の力も得て現代に生きているとも言えそうです。

 では、日蓮さんの思想はどんなものだったのか、簡単に整理してご紹介したいと思います。まずは経歴からです。

1.経歴

 
 
 
 

 以上、本日はここまでです。次回には主な著書と思想についてみていきたいと思います。







仏教の思想11 古仏のまねび<道元>(その7:完)

2017-12-22 09:07:05 | 仏教思想
 前回からまただいぶ時間が経ってしまいましたが、やっと最後にたどり着きました。前回までのところは(仏教思想のカテゴリー)をご参照ください。


3.5.道元の無常観の解析(つづき)

(4)無常仏性説

 ①『涅槃経』後半の解釈
 『涅槃経』の後半「如来常住無有変易」((3)①参照)について、本来は「如来は常住にして変易あることなし」と読むべきを、道元は「如来は常住にて変易なり」、つまり如来は変易するもの、と解釈しています。ここには道元独自の思想があります。
 道元は、『正法眼蔵』「仏性」の中で、『景徳伝灯録』の六祖慧能の次の言葉「無常は即ち仏性也、有常は即ち善悪一切諸法分別心也」をとりあげさらに展開しています。道元は道元独自の説である「仏性無常論」を説いているのです。

 ②道元における三つの世界
 いったい仏性は有なのか、無なのか、常住なのか、無常なのか、道元にとって有仏性説より無仏性説の方がすぐれていて、無常仏性説は無仏性説よりすぐれていたようです。
 ではいったい、無常仏性説とは何か?それは有仏性説や無仏性説とどう関係するのでしょう?

 ③道元の三つの世界の図式説明
 

 それぞれの三つの世界は次のように整理できます。
 
 以上をもとに、道元の有仏性説、無仏性説、無常仏性説を考えてみます。
 

 以上、道元の無常観について、梅原氏が図式による解説をされていたため、最後に補足的に追加してみました。

4.まとめ

 道元の思想、非常に深いものがあり、非常に難解で、入門用の解説書とはいえその内容も、全12巻の「仏教の思想」の中でも特別に難しかったというのが私の感想です。
 最後に、本著の著者である、高崎氏と梅原氏両氏のまとめの言葉をそのままご紹介して、まとめとしたいと思います。

 ①高崎氏のむすび(苦・集に触れなかった道元)
 釈尊がペレナス鹿野苑(ろくやえん)においてはじめて説法したのは四諦(苦・集・滅・道)についてであったとされる。
 つまり、この四項目に仏教の人生観・世界観・目的とするところと、その手段が全部含まれているが、どうも道元は滅(さとりの風光)と道(さとりにいたる学道、功夫弁道、修行法)の二諦の理想だけ説いて、苦(人生は苦であるという真理)・集(その原因=我執や煩悩)の現実にはほとんど触れていないという、仏教における片手落ちがみられる。
 唯物与仏(*ゆいぶつよぶつ)の当体を自任し、仏祖正伝を確信する禅家の人々は道元に限らず、総じて、志気を尚(たっと)ぶあまり志気をもたぬ人々の気持ちに「同生・同修・同参・同証」できないきらいがある。この禅の<貴人>性を率直に認めることは、禅を理解し、公平に評価するゆえんである。
 *唯物与仏とは:ただ仏のみがよく仏を知っている、諸法の実相を究め尽くしている、という意味。

 ②梅原氏のむすび(永遠の循環)
 道元は慧能が用いた見性ということばをきらう。見性した人間は、何をしてもいいわけではない。見性した人間といえども修行しなければならない。さとりの証は修行の上にある。自然的人間から倫理的人間へ、宗教的人間へ、そしてまた倫理的人間へ、人間はたえず循環の中にあるというのが、彼の人生であった。
 永遠の循環が彼の人生であり、彼の思想はこの永遠循環を通じてますます深くなった。しかし、このくりかえしはまさに彼が生まれたときからの運命ではなかったか?


 道元は主に二つ経験から、彼の思想を生み出したのではないかと思います。一つは貴族の生まれでありながら、日陰の身として生まれた幼児体験、それと特に入宋後の師如浄のもとでの修行の二つの体験です。
 この二つの体験は、道元に権力におもねないという強い意志と、自己及び弟子に対しての非常なまでの厳しさ、つまりは彼の倫理観にもとづく仏教思想というものを創造させたのではないかと思います。
 しかし、その倫理性を追求することは、結果として、全ての人に仏性があるという大乗仏教の根本思想に反する結果になります。そこで彼が生み出した思想が、「無常仏性」であり、実践としての「只管打坐」であったということではないでしょうか。

 おのれにも人にも厳しかった道元、苦・集に触れなかった道元、そこには大乗仏教のある意味根本ともいえる「慈悲」に欠けているようにも思えます。
 しかし、道元は彼の体験したものを「道得」ということばで表現したように、言葉で何としても伝えようとしました。「わからなかったら坐ってみなさい!」だけでなく、何としても伝えようとした結果が『正法眼蔵』として結果した、彼の慈悲の現れだったのではないでしょうか。
 
 ただただ残念なことに、それは我々凡人には難しすぎたようです。やはり「坐ってみる!」しかないのかもしれませんね。 
 と最後に、よく分からなった私のまとまらないまとめをしてみました。

 いよいよ次は最後の第12巻日蓮さんです。
 実は、道元さまの整理でもたついている間に、日蓮さんの方は順調にノート作りが進んで、すでにそれが終わっています。
 ということで、やっと道元さまを無理無理終わらせましたので、「パンションの人日蓮」の整理をして、またご報告したいと思います。