私は昭和30年生まれで、ものごころついたときにはラジオしかなかった。その割りにラジオ番組については何も憶えてない。
白黒テレビ、カラーテレビになり、ラジオから離れていた。それが昭和43年に中学校に入り、ラジオの深夜放送を聴くようになった。最初の自分専用のラジオは、父が取引先からもらったPANSONICの上蓋をあけたらタバコを置くようになっている小型卓上ラジオだった。ボリュームとチューニングの小さなつまみしかなく、周波数をあわすのにずいぶん苦労した。
地元ラジオの番組では「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」がちょうど夕食・入浴が済んで机に向かう時間帯だった。
深夜放送はまだ地元局はやっておらず、東京の電波を小さなつまみで探り、TBSの「パックインミュージック」をよく聞いた。そろそろ高校を卒業というころまでその小さな卓上ラジオだった。
あれから何十年も経ち、最近はカーラジオしか聞かないけれど、あのころの小さなラジオを通じて別世界に導かれるような感覚だけは一瞬よみがえってくることがある。あの小さな卓上ラジオは「何処でもドア」だったかもしれないし、またそこに戻る日が来るような予感がする。
白黒テレビ、カラーテレビになり、ラジオから離れていた。それが昭和43年に中学校に入り、ラジオの深夜放送を聴くようになった。最初の自分専用のラジオは、父が取引先からもらったPANSONICの上蓋をあけたらタバコを置くようになっている小型卓上ラジオだった。ボリュームとチューニングの小さなつまみしかなく、周波数をあわすのにずいぶん苦労した。
地元ラジオの番組では「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」がちょうど夕食・入浴が済んで机に向かう時間帯だった。
深夜放送はまだ地元局はやっておらず、東京の電波を小さなつまみで探り、TBSの「パックインミュージック」をよく聞いた。そろそろ高校を卒業というころまでその小さな卓上ラジオだった。
あれから何十年も経ち、最近はカーラジオしか聞かないけれど、あのころの小さなラジオを通じて別世界に導かれるような感覚だけは一瞬よみがえってくることがある。あの小さな卓上ラジオは「何処でもドア」だったかもしれないし、またそこに戻る日が来るような予感がする。