スマートフォンやタブレット端末、そしてデジタルカメラ、
はてはプリンターまで無線LAN、WiFi接続になってきた。
配線をする必要が無いので、物理的にも心理的にも安直ではある。
使い始めるのに、装置同士の設定が必要だが、
一度確立すれば次からは自動化され、装置同士が相手を認識して動作し始める。
携帯機器からパソコンへデータを渡したり、携帯からパソコンのデータを取り出したり。
安直で便利だけれど、そういうことが出来てしまうことに、素直に喜べない、一抹の不安もある。
こんなに簡単に「中に入れてしまう」感触が、なんとも空恐ろしい。
もしかして、他の誰かも、こうやって「中に入れてしまう」のではないかしら。
この不安、怖れ、をどこか別の場所、別の風景で感じたことがある。
子どもの頃、便意をもよおし、便所へ辿りつかず失禁したとき。
あるいは、道中、よその家の壁や敷地内で放尿したとき。
誰かに見られている。
誰かは、誰か。
この感じは、雰囲気は、他でも。
ふだん祭礼や神事でにぎわう神社寺院に、
ひとりで、誰もいない時に行き合わせ、
堂の奥に潜む、誰か。
暗がりを目を凝らして、見る。
その方向からかはわからないが、
やはり見られていることを感じる。
その場にいるのはひとりではない。
随分、昔だったような、
つい先ほども同じ気配を感じたような。
手のひらの中の端末が、
遠い、深い闇に、
つながってなければ、よいが。
ふぉん。
また何かの着信音。