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明治大学登戸研究所資料館

2016-07-15 19:04:12 | 原爆詩の朗読
7月13日(水)、登戸研究所へ行ってきました。
近くにこのような資料館があるとは知りませんでした。
登戸研究所は、戦前に旧日本軍によって解放された研究所です。
ここでは防諜(スパイ活動防止)・諜報(スパイ活動)・謀略(破壊・かく乱活動・暗殺)
宣伝(人心の誘導)のためのさまざまな秘密戦兵器が開発されました。
正式名称は大九陸軍技術研究所ですが、決して外部にその研究・開発内容を
知らされてはならなかったために、「登戸研究所」と秘匿名でよばれていました。
登戸研究所は、アジア太平洋戦争において秘密戦の中核を狙っており、軍から
重要視された研究所でありましたが、敗戦とともに閉鎖されました。
その後、1950年に登戸研究所跡地の一部を明治大学が購入し、明治大学生田
キャンパスが開設され現在に至っています。

弥心神社


登戸研究所跡碑が建てられ、研究所が存続していた事実を忘れまいとする
元所員の心情を後世につたえています。
登戸研究所後碑の裏面には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という
句がきざまれています。
「すぎし日」とは、かつて登戸研究所に勤めていた人たちが誰にも話してこなかった
研究所での日々を意味します。そして、一度は「墓場まで持っていこう」と決意し胸の奥にしまい
込んでいた記憶を、戦後数年を経て再びこの丘に立ち、ようやく話し込んでいた記憶を
戦後数十年を経て再びこの丘に立ち、ようやく話し合うことが許された、
という気持ちが詠われています。
    










■偽札作り 登戸研究所産の偽札は精巧にできており、中国の5円札、10円札といった
額面紙幣を45億円分も製造。
偽札作りの目的は、中国経済の撹乱、現地での日本軍兵士のための食糧や物資調達、
日本軍に雇われた中国人傀儡軍の給与支払いなどに使われた。








■風船爆弾 最後に風船爆弾について―球皮は、コウゾの長繊維を用いた和紙を、
コンニャク糊で張り合わせて作る。
球体の直径は10メートルという巨大なもので、そこから19本の麻縄を垂らしてまとめ、
高度保持装置を付けて、最下部に15キロの爆弾と4キロの焼夷弾2個を下げた形になっている。
この作業には、女子挺身隊令によって勤労奉仕を義務づけられた13~16歳の女学生たちがあたった。
この風船爆弾は1944年11月、日本がいよいよ追いつめられた戦争末期に、
千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の三基地から9,300個がアメリカに向けて放球されたが、
太平洋9.000キロもの長距離を飛行しました。



   



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