アドベンチャーポルトガル
ポルトガルは、国内の統一を1249年に実現し、大西洋に面したリスボンを首都としたのは1260年頃である。
そして、海外の交易に目を転じるようになった。
航海王子として知られているエンリケ王子(1394-1460)がアフリカ西海岸攻略に乗り出したのは
1415年頃からで、黄金・奴隷を求めてアフリカ航路開拓が進んだ。
しかも、1488年には、バルトロメオ・ディアス(1450?-1500)により
アフリカ南端の喜望峰にまで到達しており、東廻りインド航路開拓は着々と進んでいた。
一方のスペインは、
現在のスペインを二分していたカスティーリャ王国のイサベルとアラゴン王国のフェルナンドとの結婚により、
両王をいただくスペイン王国が誕生したのは、1479年のことである。
ハイリスクハイリターンの海賊事業(利益率の高い領域)に進出
ポルトガルと較べてスペインは、国内統一で約2世紀、海外交易進出で約1世紀遅れた。
この遅れを取り返すのが、ポルトガルへの挑戦であり、ポルトガルからの学習でもあった。
ポルトガルから学んだことは、海賊行為であり捕虜(奴隷)・戦利品の獲得が危険ではあるが
利益率が高かいということであった。
遅れて参入した者は、信頼・商流(物流と商いの仕組み)・販売などのネットワークを新たに構築する時間が足りない。
短期間に収益の高いところで儲けるには、搾取・略奪・戦争であることを学んだ。
国は、これらに5分の1税と高い税をかけビジネスとして認知した。
ビジネス初期のハイリスク・ハイリターンは、山賊ではなく海賊行為であった。
山賊は元手が要らないが、海賊の場合は、優秀な船(速い、大きい、攻撃の武器が優れている)と人への巨額な投資が必要となる。
イサベラ女王は、600トン級の大型船建造には助成金を出し奨励するなど海外進出を助成し、
結果として、短期的な収益獲得としての海賊産業を助成・育成することになる。
このスキームが、スペインを短期間で世界No1の帝国にし、
No1になってからこのスキームを切り替える人材・エネルギー不足から
崩壊のスピードを速めた。と考える。
この当時のポルトガルの人口が150万人、スペインの人口を500万人と見ると、
(1500年頃のヨーロッパの総人口は14世紀のペスト、百年戦争などでの人口減があり
56百万人と見られている)
命がけでハイリスク・ハイリターンを追及する少数精鋭でなければ冒険行為は出来ない。
その少数精鋭の征服者といわれる略奪産業の初期の軌跡は以下のようになる。
(出典)カリブ海の地図

『スペインの植民地探索と開発』
1. エスパニョラ島の金の開発
・ シバヨ、サン・クリストバル地方で有望な砂金が見つかる。16世紀に入ってから年産2トンの実績を上げる。ゴールドラッシュは1515年頃まで続き、エスパニョラ島には8,000人のスペイン人が集まった。
2. 香料諸島に通じる海峡の探検
・ 1505年1508年専門家会議を行い、探検船の派遣を決定。北アメリカ、南アメリカ、ラ・プラタ河口までの地域を探検。
3. 南の大陸の探検
・ 1499年アロンソ・デ・オヘーダ、ペロランソ・ニニョ、アメリゴ・ヴェスプッチがベネズエラに航海
・ 1500年ファン・デ・ラ・コサ、ロドリーゴ・デ・バスティダスがパナマ地峡地域の探検と植民の糸口を作る。
・ 1501年9月スペイン国王は、ニコラス・デ・オバンドを総督として派遣。1509年まで統治。オバントは、植民地政策の基本となるエンコミエンダ(encomienda)(注1)を実施する。
・ 1504年頃コサは、ベネズエラ沿岸からウラバ湾に入り金を手に入れる。また、奴隷狩りを行う。(致命的な失敗で、先住民の敵対心をあおる)
・ 1509年コロンブスの子ディエゴが総督として着任。
・ 1511年ディエゴ・ベラスケスがキューバを征服。金が発見され、1518年までゴールドラッシュで沸く。征服者にエンコミエンダで住民を与えられ、強制労働などにより人口が激減。
・ 1512~1513年ポンセ・デ・レオン、フロリダ探検を行う。
・ 1513年パスコ・ヌニェス・デ・バルボアたちは、パナマ地峡を横断し太平洋を発見。ただし、太平洋とは知らず、大きな湾だからサン・ミゲル湾と命名。
・ ペドラリアス・ダビラは、1519年太平洋岸にパナマ市を建設。
・ 1517年ユカタン半島マヤの神殿都市を偶然発見。
・ 1518年キューバ総督ベラスケスは、未知の国探検をフェルナンド・コルテスに命じる。コルテスメキシコ上陸後ベラクルス市を建設。
・ 1518年カルロス1世(Carlos I, 在位:1516年 -1556年)アフリカ人奴隷をインディアスに輸送する許可を与える。カリブ海諸島での先住民が絶滅などしたので、労働力不足を補うために実施された。1519年以降サント・ドミンゴはカリブ海での奴隷市場としてにぎわう。
・ 1520年アステカ帝国首都テノチティトランを征服しここにメキシコ市を建設。これ以降、カリブ海諸島での金ブームが去りまた人口減もあり関心は内陸部に向かう。
(注1)エンコミエンダ(encomienda)
新大陸植民地での初期の原住民統治制度。原義はスペイン語で“信託”。1503年の国王命令により、インディアス統治官オバンド(Nicolas de Ovando)によって制度化され、09年の国王政令で追認、12年のブルゴス法で細目が定められる。
この制度は、自腹を切って渡航した武装集団=征服者(コンキスタドール)を活用する以外スペインの王権の権利を確保することができなかったので実施されたが、
先住民の奴隷化など略奪・搾取を認める制度となった。
土地に縛り付けられ移動性が極端に低かった封建時代の統治のスタンスは、
“納税者を生かさぬよう殺さぬよう”というものであった。
“生かさぬよう殺さぬよう”ここには、長期的な利益最大化という考え方が反映しており、
人間のギリギリまでを追求した厳しい収奪の考え方だ。
コロンブス以降、新大陸に来たスペイン人は、国家としてポルトガルから学んだ
最も収益性が高い事業は、“海賊行為”であることを熟知していた。
タネをまき、作物を育てて原価を回収するなどという収益獲得の考えには至らず、
果実だけを根こそぎかき集めていく狩猟採取的な植民地経営を行った。
根こそぎとり終わったら、次の果実に移っていくというさすらい人となってしまった。
新大陸での終わりがまだ見えない“発見”の連続、
この広がっていく世界に対する自分の寿命が限られていることでのあせり
欲が欲を加速させ、更に大きな欲でないと刺激を満たせなくなった感覚の麻痺
投資回収を手早くスピーディに行いたいという投資家の締め付け
ポルトガルに遅れていたというコンプレックスが
手っ取り早い方法を見つけ突き進んだところ、最初は合理的でも狂気になっていったのであろうか?
21世紀の地球環境では難しいが、焼き畑農業のほうがまだ永続性があるし、
“生かさぬよう殺さぬよう”は、人間の知性を持った温かみすら感じるほどの
植民地経営を行ってしまった。
ポルトガルは、国内の統一を1249年に実現し、大西洋に面したリスボンを首都としたのは1260年頃である。
そして、海外の交易に目を転じるようになった。
航海王子として知られているエンリケ王子(1394-1460)がアフリカ西海岸攻略に乗り出したのは
1415年頃からで、黄金・奴隷を求めてアフリカ航路開拓が進んだ。
しかも、1488年には、バルトロメオ・ディアス(1450?-1500)により
アフリカ南端の喜望峰にまで到達しており、東廻りインド航路開拓は着々と進んでいた。
一方のスペインは、
現在のスペインを二分していたカスティーリャ王国のイサベルとアラゴン王国のフェルナンドとの結婚により、
両王をいただくスペイン王国が誕生したのは、1479年のことである。
ハイリスクハイリターンの海賊事業(利益率の高い領域)に進出
ポルトガルと較べてスペインは、国内統一で約2世紀、海外交易進出で約1世紀遅れた。
この遅れを取り返すのが、ポルトガルへの挑戦であり、ポルトガルからの学習でもあった。
ポルトガルから学んだことは、海賊行為であり捕虜(奴隷)・戦利品の獲得が危険ではあるが
利益率が高かいということであった。
遅れて参入した者は、信頼・商流(物流と商いの仕組み)・販売などのネットワークを新たに構築する時間が足りない。
短期間に収益の高いところで儲けるには、搾取・略奪・戦争であることを学んだ。
国は、これらに5分の1税と高い税をかけビジネスとして認知した。
ビジネス初期のハイリスク・ハイリターンは、山賊ではなく海賊行為であった。
山賊は元手が要らないが、海賊の場合は、優秀な船(速い、大きい、攻撃の武器が優れている)と人への巨額な投資が必要となる。
イサベラ女王は、600トン級の大型船建造には助成金を出し奨励するなど海外進出を助成し、
結果として、短期的な収益獲得としての海賊産業を助成・育成することになる。
このスキームが、スペインを短期間で世界No1の帝国にし、
No1になってからこのスキームを切り替える人材・エネルギー不足から
崩壊のスピードを速めた。と考える。
この当時のポルトガルの人口が150万人、スペインの人口を500万人と見ると、
(1500年頃のヨーロッパの総人口は14世紀のペスト、百年戦争などでの人口減があり
56百万人と見られている)
命がけでハイリスク・ハイリターンを追及する少数精鋭でなければ冒険行為は出来ない。
その少数精鋭の征服者といわれる略奪産業の初期の軌跡は以下のようになる。
(出典)カリブ海の地図

『スペインの植民地探索と開発』
1. エスパニョラ島の金の開発
・ シバヨ、サン・クリストバル地方で有望な砂金が見つかる。16世紀に入ってから年産2トンの実績を上げる。ゴールドラッシュは1515年頃まで続き、エスパニョラ島には8,000人のスペイン人が集まった。
2. 香料諸島に通じる海峡の探検
・ 1505年1508年専門家会議を行い、探検船の派遣を決定。北アメリカ、南アメリカ、ラ・プラタ河口までの地域を探検。
3. 南の大陸の探検
・ 1499年アロンソ・デ・オヘーダ、ペロランソ・ニニョ、アメリゴ・ヴェスプッチがベネズエラに航海
・ 1500年ファン・デ・ラ・コサ、ロドリーゴ・デ・バスティダスがパナマ地峡地域の探検と植民の糸口を作る。
・ 1501年9月スペイン国王は、ニコラス・デ・オバンドを総督として派遣。1509年まで統治。オバントは、植民地政策の基本となるエンコミエンダ(encomienda)(注1)を実施する。
・ 1504年頃コサは、ベネズエラ沿岸からウラバ湾に入り金を手に入れる。また、奴隷狩りを行う。(致命的な失敗で、先住民の敵対心をあおる)
・ 1509年コロンブスの子ディエゴが総督として着任。
・ 1511年ディエゴ・ベラスケスがキューバを征服。金が発見され、1518年までゴールドラッシュで沸く。征服者にエンコミエンダで住民を与えられ、強制労働などにより人口が激減。
・ 1512~1513年ポンセ・デ・レオン、フロリダ探検を行う。
・ 1513年パスコ・ヌニェス・デ・バルボアたちは、パナマ地峡を横断し太平洋を発見。ただし、太平洋とは知らず、大きな湾だからサン・ミゲル湾と命名。
・ ペドラリアス・ダビラは、1519年太平洋岸にパナマ市を建設。
・ 1517年ユカタン半島マヤの神殿都市を偶然発見。
・ 1518年キューバ総督ベラスケスは、未知の国探検をフェルナンド・コルテスに命じる。コルテスメキシコ上陸後ベラクルス市を建設。
・ 1518年カルロス1世(Carlos I, 在位:1516年 -1556年)アフリカ人奴隷をインディアスに輸送する許可を与える。カリブ海諸島での先住民が絶滅などしたので、労働力不足を補うために実施された。1519年以降サント・ドミンゴはカリブ海での奴隷市場としてにぎわう。
・ 1520年アステカ帝国首都テノチティトランを征服しここにメキシコ市を建設。これ以降、カリブ海諸島での金ブームが去りまた人口減もあり関心は内陸部に向かう。
(注1)エンコミエンダ(encomienda)
新大陸植民地での初期の原住民統治制度。原義はスペイン語で“信託”。1503年の国王命令により、インディアス統治官オバンド(Nicolas de Ovando)によって制度化され、09年の国王政令で追認、12年のブルゴス法で細目が定められる。
この制度は、自腹を切って渡航した武装集団=征服者(コンキスタドール)を活用する以外スペインの王権の権利を確保することができなかったので実施されたが、
先住民の奴隷化など略奪・搾取を認める制度となった。
土地に縛り付けられ移動性が極端に低かった封建時代の統治のスタンスは、
“納税者を生かさぬよう殺さぬよう”というものであった。
“生かさぬよう殺さぬよう”ここには、長期的な利益最大化という考え方が反映しており、
人間のギリギリまでを追求した厳しい収奪の考え方だ。
コロンブス以降、新大陸に来たスペイン人は、国家としてポルトガルから学んだ
最も収益性が高い事業は、“海賊行為”であることを熟知していた。
タネをまき、作物を育てて原価を回収するなどという収益獲得の考えには至らず、
果実だけを根こそぎかき集めていく狩猟採取的な植民地経営を行った。
根こそぎとり終わったら、次の果実に移っていくというさすらい人となってしまった。
新大陸での終わりがまだ見えない“発見”の連続、
この広がっていく世界に対する自分の寿命が限られていることでのあせり
欲が欲を加速させ、更に大きな欲でないと刺激を満たせなくなった感覚の麻痺
投資回収を手早くスピーディに行いたいという投資家の締め付け
ポルトガルに遅れていたというコンプレックスが
手っ取り早い方法を見つけ突き進んだところ、最初は合理的でも狂気になっていったのであろうか?
21世紀の地球環境では難しいが、焼き畑農業のほうがまだ永続性があるし、
“生かさぬよう殺さぬよう”は、人間の知性を持った温かみすら感じるほどの
植民地経営を行ってしまった。