上野公園の花見
遠くまで頭の黒が敷き詰められたような上野公園。サクラは人の心をときめかさせ財布の紐を緩めさせる。このときばかりはうかれなければ損。
(写真)上野公園、花見の人ごみ
『ヨメイヨシノ』発見まで
花といえば平安時代から梅に代わりサクラになった。
この理由は、中国から伝わった梅ではなく、日本にも自生種(原種)があるサクラが望まれたという政治・文化の動きに連動している。一般的には国風運動といわれているが、直接的には結びつかないが、遣唐使の中止、梅をこよなく愛した菅原道真の大宰府への左遷なども同じ時期に起きている。
サクラのなかでは、近畿地方に多い「ヤマザクラ」が平安時代の代表のようであったが、鎌倉時代になると伊豆半島の自生種である「オオシマザクラ」が注目され交雑が進む。
江戸時代になると五代将軍綱吉の元禄時代にはこの二種の交雑と品種改良が急速に進みサクラの品種も増え、繁殖の技術である“つぎ木”がかなり高度化したようだ。
「ソメイヨシノ」は、このような歴史を土壌として誕生した銘花銘木のようだが生まれに謎がまだあるという。
この「ソメイヨシノ」が発見されたのは、上野公園でだった。
発見者は、藤野寄命(ふじのきめい)で、精養軒の付近で見慣れないサクラに気づいたという。この桜木の出所は“染井”(現在の駒込あたり)であり、染井から来た吉野桜という意味で『ソメイヨシノ』と命名した。
藤野は、現在の国立博物館に勤めており、日本のサクラも近代的な分類が必要と思った田中芳男男爵が上野公園でのサクラの調査を計画し、藤野はこの調査中に発見した。調査時期は1885~1886年(明治18~19年)だった。
(写真)ソメイヨシノの花
『ソメイヨシノ』の謎
「ソメイヨシノ」は、伊豆半島が生息地の「オオシマザクラ」と「エドヒガン」の交雑種といわれており、江戸時代末の染井村で誕生したという以外良くわかっていない。先日染井界隈を探索したが、染井吉野誕生イベントを行っていた。
この「ソメイヨシノ」は、花弁が5枚で、白に近い淡い紅色で、葉がでる前に開花し、上野公園では、3月末に開花し4月上旬に満開となる。そして満開になると花色は白色に近くなる。
エドヒガンの花が葉より先に咲く性質と、オオシマザクラの大きくて整った花形を併せ持った品種である。
「ソメイヨシノ」の謎の一つは、
いつどこで生まれたかわからないということだ。 「ミツバアケビ」の命名者で京都帝大教授の小泉源一が1939年に韓国・済州島の王桜との類似を指摘して済州島が自生地であるという起源説を唱えた。
この説は否定されているようだが、そのほかにも、伊豆半島起源説、染井村起源説などがあり、それだけロマンがある花なのかもわからない。サクラ同様日本人のルーツも諸説あるが、芯が不明なところが良く似ている。
「ソメイヨシノ」の謎の二つ目は、
“パッと咲いてパッと散る”ことに疑問を持ったことがあるだろうか?
この謎がわかった。つまり、F1=一代雑種で、一本のソメイヨシノの木からつぎ木で殖やしているので、同じ遺伝子を持つというのが要因のようだ。同じ性質を持っているため、いっせいに開花し、いっせいに散っていくという。
しかし我々は、“花はサクラ木、男は武士”ということで散りぎわを美化することなく、いっせいに散る必要はないということだろう。元が違うのだから多様性があるので一律になることはないと思う。
「ソメイヨシノ」の謎三つ目は、
由来が良くわからいサクラが、どうして日本中にあっという間に広まったのか?という謎だ。
これは、原型が吉宗公のサクラ植樹にあるが、日本の公園の始まりと、太平洋戦争の戦後の復興があるという。
人心を鼓舞するものは“サクラ”が共通している。
日本の公園の始まりは、伊達藩仙台の躑躅ヶ岡(つつじがおか、現在の榴ヶ岡公園)が最初のようで1695年に出来たという。ここもサクラの名所で懐かしいところだ。
明治になって神戸・横浜(山手公園)などの外国人居留地に遊歩道・公園の要望があり作られたが、日本初の公園といえるものは、1873年(明治6年)の「明治6年太政官布告第16号」での公園設置からはじまる。
このときに指定されたのが、東京では上野寛永寺、浅草浅草寺、芝増上寺、富岡八幡社そして飛鳥山だった。いずれもサクラの名所でもある。
戦後の復興は、“ぼろは着てても心は錦”ではないが、日本人の心を束ね高揚する役割としてサクラが植樹され、また、昭和天皇の即位などでも植樹された。
この植樹されたサクラの多くが「ソメイヨシノ」だった。だから急速に全国区のサクラとなり、今では桜前線での開花予想のサクラとなっている。
為政者の困った時のサクラ頼み。というのが歴史的に広まった理由だった。
最後の謎は、これから起きることでもある。
「ソメイヨシノ60歳寿命説」というのがある。戦後植樹された「ソメイヨシノ」は樹齢60歳を越えるようになる。
サクラの名所は、いつまで名所でいれるかという瀬戸際に来ている。
そして、吉宗公は増税後の江戸の庶民の気分を変えるために“サクラ花見”を活用したが、消費税を増税したい政府与党には、樹齢60歳を越える「ソメイヨシノ」が花見をさせてくれない可能性もあり、気分転換というわけにはいかないこともあり、怒りが直接ぶつかるかもわからない。
ということがおきそうだ。シンボル操作に使えないから要注意だね!
という先まで考えることなく、いまは大いに花見を愉しんでおいたほうが良さそうだ。
(考え込んではいけません、花見だ、花見だ~)
遠くまで頭の黒が敷き詰められたような上野公園。サクラは人の心をときめかさせ財布の紐を緩めさせる。このときばかりはうかれなければ損。
(写真)上野公園、花見の人ごみ
『ヨメイヨシノ』発見まで
花といえば平安時代から梅に代わりサクラになった。
この理由は、中国から伝わった梅ではなく、日本にも自生種(原種)があるサクラが望まれたという政治・文化の動きに連動している。一般的には国風運動といわれているが、直接的には結びつかないが、遣唐使の中止、梅をこよなく愛した菅原道真の大宰府への左遷なども同じ時期に起きている。
サクラのなかでは、近畿地方に多い「ヤマザクラ」が平安時代の代表のようであったが、鎌倉時代になると伊豆半島の自生種である「オオシマザクラ」が注目され交雑が進む。
江戸時代になると五代将軍綱吉の元禄時代にはこの二種の交雑と品種改良が急速に進みサクラの品種も増え、繁殖の技術である“つぎ木”がかなり高度化したようだ。
「ソメイヨシノ」は、このような歴史を土壌として誕生した銘花銘木のようだが生まれに謎がまだあるという。
この「ソメイヨシノ」が発見されたのは、上野公園でだった。
発見者は、藤野寄命(ふじのきめい)で、精養軒の付近で見慣れないサクラに気づいたという。この桜木の出所は“染井”(現在の駒込あたり)であり、染井から来た吉野桜という意味で『ソメイヨシノ』と命名した。
藤野は、現在の国立博物館に勤めており、日本のサクラも近代的な分類が必要と思った田中芳男男爵が上野公園でのサクラの調査を計画し、藤野はこの調査中に発見した。調査時期は1885~1886年(明治18~19年)だった。
(写真)ソメイヨシノの花
『ソメイヨシノ』の謎
「ソメイヨシノ」は、伊豆半島が生息地の「オオシマザクラ」と「エドヒガン」の交雑種といわれており、江戸時代末の染井村で誕生したという以外良くわかっていない。先日染井界隈を探索したが、染井吉野誕生イベントを行っていた。
この「ソメイヨシノ」は、花弁が5枚で、白に近い淡い紅色で、葉がでる前に開花し、上野公園では、3月末に開花し4月上旬に満開となる。そして満開になると花色は白色に近くなる。
エドヒガンの花が葉より先に咲く性質と、オオシマザクラの大きくて整った花形を併せ持った品種である。
「ソメイヨシノ」の謎の一つは、
いつどこで生まれたかわからないということだ。 「ミツバアケビ」の命名者で京都帝大教授の小泉源一が1939年に韓国・済州島の王桜との類似を指摘して済州島が自生地であるという起源説を唱えた。
この説は否定されているようだが、そのほかにも、伊豆半島起源説、染井村起源説などがあり、それだけロマンがある花なのかもわからない。サクラ同様日本人のルーツも諸説あるが、芯が不明なところが良く似ている。
「ソメイヨシノ」の謎の二つ目は、
“パッと咲いてパッと散る”ことに疑問を持ったことがあるだろうか?
この謎がわかった。つまり、F1=一代雑種で、一本のソメイヨシノの木からつぎ木で殖やしているので、同じ遺伝子を持つというのが要因のようだ。同じ性質を持っているため、いっせいに開花し、いっせいに散っていくという。
しかし我々は、“花はサクラ木、男は武士”ということで散りぎわを美化することなく、いっせいに散る必要はないということだろう。元が違うのだから多様性があるので一律になることはないと思う。
「ソメイヨシノ」の謎三つ目は、
由来が良くわからいサクラが、どうして日本中にあっという間に広まったのか?という謎だ。
これは、原型が吉宗公のサクラ植樹にあるが、日本の公園の始まりと、太平洋戦争の戦後の復興があるという。
人心を鼓舞するものは“サクラ”が共通している。
日本の公園の始まりは、伊達藩仙台の躑躅ヶ岡(つつじがおか、現在の榴ヶ岡公園)が最初のようで1695年に出来たという。ここもサクラの名所で懐かしいところだ。
明治になって神戸・横浜(山手公園)などの外国人居留地に遊歩道・公園の要望があり作られたが、日本初の公園といえるものは、1873年(明治6年)の「明治6年太政官布告第16号」での公園設置からはじまる。
このときに指定されたのが、東京では上野寛永寺、浅草浅草寺、芝増上寺、富岡八幡社そして飛鳥山だった。いずれもサクラの名所でもある。
戦後の復興は、“ぼろは着てても心は錦”ではないが、日本人の心を束ね高揚する役割としてサクラが植樹され、また、昭和天皇の即位などでも植樹された。
この植樹されたサクラの多くが「ソメイヨシノ」だった。だから急速に全国区のサクラとなり、今では桜前線での開花予想のサクラとなっている。
為政者の困った時のサクラ頼み。というのが歴史的に広まった理由だった。
最後の謎は、これから起きることでもある。
「ソメイヨシノ60歳寿命説」というのがある。戦後植樹された「ソメイヨシノ」は樹齢60歳を越えるようになる。
サクラの名所は、いつまで名所でいれるかという瀬戸際に来ている。
そして、吉宗公は増税後の江戸の庶民の気分を変えるために“サクラ花見”を活用したが、消費税を増税したい政府与党には、樹齢60歳を越える「ソメイヨシノ」が花見をさせてくれない可能性もあり、気分転換というわけにはいかないこともあり、怒りが直接ぶつかるかもわからない。
ということがおきそうだ。シンボル操作に使えないから要注意だね!
という先まで考えることなく、いまは大いに花見を愉しんでおいたほうが良さそうだ。
(考え込んではいけません、花見だ、花見だ~)