モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

ウメの花

2008-02-13 08:26:08 | 街中ウオッチング



散歩コースにウメが咲いていた。
1本の木だけ8分咲きで、他の木は沈黙状態。
咲き始めの頃に、雪が連続できたのでチョッと遅れ気味でしょうか?

花といえば、サクラ。OR ウメ。
平安以降は花といえばサクラだそうだが、平安以前はウメが日本人の心情を代表していたようだ。

散り際が見事なのがサクラなので、
受験生の守り神 菅原道真が祭られている天満宮にはウメがつきもの。

梅の名所 湯島天神のウメも一分咲きだそうで、
夜ウメを見た後は、おでんに熱燗なんか最高にマッチする時期ですね!
今週末のテーマとしよう。

ウメ(Japanese apricot)
・バラ科サクラ属スモモ亜属の落葉高木。
・学名は、Prunus mume Sieb.et Zucc.で、シーボルトが命名。
英名は、Japanese apricot,Japanese flowering apricot。
・古語では、ウメのことをムメと呼んだ。
・原産地は中国長江流域で、日本には、8世紀半ばに渡来。
・開花期は2月。花が咲きその後に葉がつく。
コメント

その27:大航海時代の植物:タバコ(Tobacco)

2008-02-12 08:32:21 | ときめきの植物雑学ノート
大航海時代の植物:タバコ(Tobacco)

コーヒー・タバコ・酒は、アダムとイブの末裔達への天からの贈り物。
と、信じきっている。
しかし、この3品との付き合いは、常に緊張関係があり悩ましいところがある。

たとえば、一日だけの徹夜作業だったら、コーヒーがぶ飲み、休憩でタバコという感じだが、
これが連続で続くとなると、眠気防止と頭の回転と胃袋との関係で、
コーヒー・タバコ・酒の順番、量などを決めることになる。
頭が回転しなくなったら自分を罵りながらしょっちゅうタバコを吸い、
胃袋をいたわりながらコーヒを数少なく効果的に飲むようにするなど
無い能力を搾り出す無駄な抵抗をすることになる。
コーヒーもタバコも覚醒を期待し、
このストレスを発散するために、終わって開放された瞬間に酒で酔いつぶれたい、
ということを夢に見て格闘する。

近代が求めた“覚醒” 。それを支える薬としてのコーヒーとタバコ。
コーヒーは、アフリカからアラビアを経由して17世紀中頃にヨーロッパに。
タバコは、アメリカ新大陸から16世紀中頃までにヨーロッパに。
そして日本に。

タバコ(Tobacco)
タバコは、ナス科タバコ属の一年草で約67種がある。
自生の分布は、南米、オーストリア・南太平洋、北米であり、ヨーロッパ・アジアには自生していない。
この起源は今から8000年前とも言われ、タバコ属の原産地は南米大陸とされている。

この自生の分布を見る限り、サツマイモに似た分布となる。
ということは、モンゴロイドの大陸大移動説が絡んでくるかもわからないが、
現在言われているのは、南米・オーストラリア・南極大陸が分離する前からあった
約百万年前から自生していた古い植物ではないだろうかというとてつもない説である。

コロンブス以降から歴史に登場してくるが、
コロンブスは、タバコのもつポテンシャルな価値に気づかなかったそうだ。


コメント

その26:コーヒータイム⑦ コーヒーノキの保育器となった植物園・オランジェリー。

2008-02-08 08:48:00 | ときめきの植物雑学ノート
コーヒータイム⑦ コーヒーノキの保育器となった植物園・オランジェリー。

植物栽培の技術革新が16世紀に進む
地中海沿岸・アフリカなど暖かいところで生育する植物を
アルプスを越えたパリ、ロンドン、アムステルダムなどでは育てられない。
これは、15世紀頃まではヨーロッパの常識だった。

オレンジは特に珍重された植物で、王侯・貴族などは、毎年1年草(木?)として
夏だけ庭を飾る貴重品として、莫大なお金おかけアルプスを越えて取り寄せていたようだ。

16世紀中頃以降は、イタリア・パドヴァ(1545年)を最初に、各地で植物園が作られ、
(植物園⇒その12、その13参照)
また、伴走するように植物栽培の大きな技術革新があった。

それは、“鉢植えの技術”と“越冬用の建物”であり、
この2つが組み合わさることにより、アルプス以北でもオレンジを育てることが出来、
気候・土壌に左右されないで植物を栽培することが可能になった。

言い換えれば、珍しいもの・他国から輸入していた香辛料・薬草などの高価な植物を
自前で育てることが初めて可能となり、財政支出の削減となる。
技術革新が、新しいビジネス・社会を結果として創ることになるが、
植物園及び栽培技術の革新により、新たな欲望・欲求・ニーズが誕生することになる。
それは、地代・労働力を限りなくゼロにする植民地帝国主義と
生花を観賞するという審美眼の誕生へと展開することになる。

パリにオランジュリー美術館があるが、



博物館・美術館などでも“オランジェリー”という名前が残っている建物がある。
これは、オレンジ越冬用の建物・温室からきており、アムステルダム植物園にも現存している。
この温室・オランジェリーがオランダの新しい時代を創ることになる。

世界のコーヒーノキのマザーファンクションとなった植物園
1638年に設立されたアムステルダム植物園は、オランダ東インド会社が収集した植物とともに大きく成長した。

アラビアでのコーヒー価格が高いために、オランダ東インド会社自らが
コーヒーの生産と流通に参入することを1696年に決定し、
持ち出し禁止のコーヒーノキをジャワに持っていき、移植・育成をすることとした。
ここからが、通説とアムステルダム植物園の公表との違いだが、
通説では、インド南西部にあるマラバールからジャワにコーヒーノキを送ったことになっているが
アラビアから直接ジャワに苗を送ったとアムステルダム植物園のホームページで公表している。
ということは、間接的ではなく、直接的なプラントハントをしたということになる。
まあ~こんなことはどうでもいいか。

正真正銘のアラビカ種のコーヒーノキがジャワに行き、
1706年には、ジャワ島で育ったアラビカ種のコーヒーノキの若木がアムステルダム植物園に届いた。
そして、このアムステルダム植物園の温室、オランジェリーで育ったコーヒーノキは、
ヨーロッパの植物園経由で、各国の植民地などに移植されることになる。

世界のコーヒ生産の70%強がアラビカ種であり、
世界にばら撒かれたアラビカ種のオリジナルは、ジャワ産のコーヒーノキとなる。
この保育器として、そして、増幅・増殖させたのがアムステルダム植物園のオランジェリー(温室)となる。
全ての源は我にありというものすごい世界が、コーヒーのDNAにあった。

血筋の争い
1714年、ルイ14世に1本のコーヒーノキを献上した。
本当はあげたくなかったのだと思うが、フランスがコーヒーノキを欲しがっていたことも確かだ。

この年は、スペイン王位継承をめぐって、フランスのブルボン家とスペインに対して
オーストリアのハプスブルグ家を応援するイギリス・オランダとの争いが終わった年でもある。
平和こそ通商国家オランダが生きる道であり、敵国フランスのご機嫌をとらざるを得なかった。
フランスでは、緊急体制でこのコーヒーノキを育て、繁殖させることに成功し
オランダを追従して植民地に移植した。

アムステルダム植物園で繁殖させたアラビカ種のコーヒーノキが世界に広まったのは、
この欲望を支える、栽培技術の革新が根底にあったから出来たことだと思う。
“何のために植物園を作るのか”という議論がパリ植物園



<<世界のコーヒーノキのゴッドマザーの子供達の拡がり>>
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1470年 アフリカのアビシニア高原から南アラビアのイエメン地方にコーヒーの木が移植された。
<オランダの活躍>
1616年 ピエター・ファン・ブロークがモカから初めてコーヒーノキをオランダに運び、移植に成功。
1658年 オランダ人がスラウェシ島(セイロン)でコーヒーの栽培を開始。
1695年 回教徒ババ・ブータンがコーヒーの種子をインドのマイソール山中に持ち出す。
栽培にも成功。クルヅ、マイソール周辺で原住民に栽培されるコーヒーノキの源。
1696年 アムステルダム市長の勧告で、インド南部のマラバールから初めてジャワ島に
コーヒーの苗木が運ばれる。しかし、洪水によって壊滅。
1699年 ヘンリック・ズワールデクロン(1718年ジャワ総督)は、ジャワへ二度目のコーヒーの苗木を運び栽培に成功。
オランダ領インド諸島のすべてのアラビカ種コーヒーノキ(ティピカ種)の先祖となる(Coffea arabica<=var.typica>)
1706年 ジャワ島産コーヒーノキの若木をオランダ本国アムステルダム植物園に送る。
⇒ ヨーロッパ各国の植物園に移植。
1712年 ジャワ島のコーヒー豆、アムステルダムでセリに出される。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1714年 アムステルダム市長からルイ14世に献上した1本の若木(「ノーブル・ツリー」)
植物学者アントワーム・ド・ジュシュー博士の管理の下、ジャルダン・ド・プラント植物園
に根付かせた。これが、中南米のコーヒーの原木となる。
<フランス・スペイン・ポルトガル・イギリスなどの活躍>
1715年 (仏)ハイチ、ドミニカで栽培が始まる。
1715~1717年(仏)ブルボン島(現レユニオン島)で栽培開始。
1718年 (蘭)スリナム(蘭領ギアナ)に栽培拡大
1723年 (仏)フランス人、ガブリエル・ド・クリューがパリ植物園からコーヒーの苗木を
西インド諸島マルチニーク島へ運ぶ
1728年 仏領ギアナからポルトガル植民地パラにコーヒーの種子と苗木が持ち込まれる。
ブラジル最初のコーヒー農園の始まり。
1728年 マルチニークのコーヒーが当時の総督ニコラス・ローズ卿によってジャマイカ
に輸入され、ブルーマウンテン地区のテンプル・ホールの所有地に植えられた。
1730年 (英)コーヒーの国内需要に刺激され、遅れて参入し、ジャマイカで栽培開始。
1740年 (スペイン)ジャワからフィリピンへ移植
1748年 (スペイン)ドミニカからキューバへ移植
1750年 (蘭)ジャワからスラウェシ島に移植
1750~1760年 (スペイン)グアテマラにコーヒが導入
1777年 (仏)マルティニク島のコーヒーノキは、1880万本にまで増加。
1779年 (スペイン)キューバからコスタリカへ移植
1784年 (スペイン)マルティニク島からベネズエラのカラカス近郊へ移植
1790年 (スペイン)西インド諸島からメキシコへ移植
1825年 (スペイン)リオデジャネイロからハワイ諸島へ移植
1840年 (スペイン)キューバからエルサルバドルへ移植
1850年 ブラジルがジャワを抜いて世界一のコーヒー生産国となる

コーヒータイム後記
まだまだ書きたいことがあるコーヒーというものは、魅力ある植物で、
いまでも“興奮”と“覚醒”を引き出してくれる。

イスラムの門外不出の秘薬は、いまでも神との交信での媒介となりえ、
身体を痛めつけることにより交信のスイッチが入る。
まだ見えない未来の啓示を受け取るために、頭をクールダウンさせ、身体を熱くする。
そんな薬物効果がある。

コーヒーの登場は、
自然を客観的に観察し、あるがままに記述し、そこから法則を導き出す、
科学革命の時代に必要なものであったという必然性がある。 と思う。
コーヒーハウスからは、近代の思想だけでなく、保険・郵便制度・博物館・学会
クラブなど様々なものが誕生した。
コミュニケーションを促進する道具としてのコーヒーは、
大量に生産されることにより
私たちに“団欒”という素晴らしいサービスをもたらした。


コメント

その25:コーヒータイム⑥ オランダ東インド会社のコーヒー市場参入

2008-02-06 08:54:21 | ときめきの植物雑学ノート
コーヒータイム⑥ オランダ東インド会社のコーヒー市場参入

コピープロテクトされていたコーヒーノキ
エチオピアのアビシニア高原に自生していたコーヒーノキ。
1470年頃にはアラビアのイエメンに移植されていたという。
この頃には焙煎が発見されており、コーヒーの重要性は認識されていたので、
イエメンでは、コーヒーの生産・販売を独占するために、
他国への種子・苗木の持ち出しを禁止していた。

これを盗った人間がいた。
そして育てた人間がいた。

コーヒーノキの栽培の歴史は、重商主義・植民地帝国主義に向かう歴史でもある。
フランス・イギリスも追従したが、この先駆者はオランダだった。
コーヒーノキ及びコーヒーを世界商品として育てた親は、
1602年に設立された“オランダ東インド会社”
1638年に創立された“アムステルダム植物園”だった。



イエメンの生産者・カイロの商人を豊かにしたコーヒー流通
15世紀中頃からコーヒーの生産のほとんどはイエメンとなった。
生産者から買い取られたコーヒー豆は、モカなどの港からカイロに送り出され、
アラブ、中近東、インド、ヨーロッパなどに輸出された。
モカはコーヒーの代名詞となり、いまでは、“モカ・マタリ”は最高品質のイエメン産コーヒーでもある。

カイロは、1517年にオスマントルコに征服されたが、
かえってアジア・アフリカ・ヨーロッパ3大陸に渡る商業都市として発展した。
インドの香辛料・イエメンのコーヒーなどは、重要な商品だった。
特に、16世紀大航海時代以降のヨーロッパ各国は、インド・アジアに進出し、
カイロの商人に大打撃をもたらした。
この損失への対応がコーヒーの取り扱いに傾斜することになる。
1720年頃のイエメンからカイロに送られたコーヒーの量は、年間2万箱(1箱185kg)であったという。

コーヒー流通へのオランダの参入
ヨーロッパ各国での最初のコーヒーハウスの開店では、ヴェネチア・イギリス(オックスフォード・
ロンドン)についで、1666年にアムステルダムで最初のコーヒーハウスが開店した。(⇒その24参照)

オランダでのコーヒーの消費はちょっとイギリスから遅れたが、
コーヒーに関する調査研究は1615年から始めており、
インド・インドネシアなどの東南アジアのイスラム圏へのコーヒー交易から参入した。

コーヒー交易などの中心は、オランダ東インド会社であり、
1642年には、カルカッタに32,000kgのコーヒー豆を輸送し、
1663年からは、モカコーヒーを定期的にアムステルダムに輸入するようになった。

流通から参入したオランダ(東インド会社)は、コーヒー市場の学習を何処よりも早く済ませ、
生産に利益の源泉を求めるように当然のごとくなった。
1658年には、セイロンでコーヒープランテーションを東インド会社がつくった。

コーヒーノキのゴッドマザー誕生
インド南西部にあるマラバール。
現在は、モンスーンにさらした黄金色のコーヒー豆“モンスーンマラバールコーヒー”で知られているが、
1699年、マラバールのコーヒーノキがジャワに渡り、移植に成功した。

エチオピアからイエメンに渡り、さらに、インドに渡ったアラビカ種のコーヒーは、
オランダ人によって、ジャワに移植された。
1706年、ジャワで育った若木をアムステルダムの植物園に送った。
このジャワで育ったコーヒーノキのDNAが“世界のコーヒーノキのゴッドマザー”となる。
Next

世界のコーヒーノキのゴッドマザー誕生まで
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1470年 アフリカのアビシニア高原から南アラビアのイエメン地方にコーヒーの木が移植された。

<オランダの活躍>
1616年 ピエター・ファン・ブロークがモカから初めてコーヒーノキをオランダに運び、移植に成功。

1658年 オランダ人がスラウェシ島(セイロン)でコーヒーの栽培を開始。

1695年 回教徒ババ・ブータンがコーヒーの種子をインドのマイソール山中に持ち出す。
栽培にも成功。クルヅ、マイソール周辺で原住民に栽培されるコーヒーノキの源。

1696年 アムステルダム市長の勧告で、インド南部のマラバールから初めてジャワ島に
コーヒーの苗木が運ばれる。しかし、洪水によって壊滅。

1699年 ヘンリック・ズワールデクロン(1718年ジャワ総督)は、ジャワへ二度目のコーヒーの苗木を
運び栽培に成功。オランダ領インド諸島のすべてのアラビカ種コーヒーノキ
(ティピカ種)の先祖となる(Coffea arabica<=var.typica>)

1706年 ジャワ島産コーヒーノキの若木をオランダ本国アムステルダム植物園に送る。
⇒ ヨーロッパ各国の植物園に移植。

1712年 ジャワ島のコーヒー豆、アムステルダムでセリに出される。
--------------------------------------------------------------------------------


コメント

常識を超えた調理法、コラーゲンたっぷりの博多水炊き

2008-02-04 08:30:12 | 男の料理

銀座八丁目にある博品館は、海外からの旅行者で日本の土産品探しでにぎわっている。
アニメ・キャラクターなどのグッズが豊富であり、中には最先端科学の技術を使ったおもちゃまである。

このビルの5階に、『博多水炊き華味鳥(はなみどり)』があり、
ここで食べた、博多水炊きはなかなかだった。さすがに博多の鳥屋さんだ。
銀座界隈では、築地警察の近くにも『新三浦』というところがあり、
博多水炊きとの付き合いは、この店の方が長いが、
先日テレビを見ていたら、博多水炊きを食べていた時には気づかなかったことに気づいた。

それは、NHKの“ためしてガッテン”という番組だった。(現在はコンテンツが削除されています。)

これまでは、水炊きといえば、鶏肉が硬くならないように煮込み過ぎないようにしていた。
が、博多水炊きは常識を覆す調理法なので驚いた。
この常識を科学的に説明していたのが“ためしてガッテン”だった。

これまでの常識は、鶏肉をおいしく食べるには3分以上煮ない。ということであったが、
“ガッテン流”では、1時間煮て、30分冷ますというものだった。
このとおりやれば、固さも通り越しグタグタになった鳥肉というイメージであったが、
なんと、ツルツルのプリンプリンであった。

常識を覆した秘訣は、
汁に溶け出した“コラーゲン”が、分解された細胞の隙間に溶け込んでいったからのようだ。
しかも調理時間を短くし、コラーゲンをたっぷり出す方法として、
手羽を使うのが“ガッテン風”の特徴だ。

あせらずに弱火で煮て、あくを丁寧に取ると、鳥の臭みもなくコラーゲン汁となる。
これが博多水炊きの秘訣で常識を覆す調理法だ。
目からウロコが落ちるというのを実感した。

食べ方としては、具材を鍋一杯にいれ煮立てて食べるというやり方ではなく、
手羽を30分煮て、もも肉を追加し更に30分煮る。
そして、30分そのままにして冷ます。



これで、スープと水炊きが出来たので、
まず塩・薬味をパラリと入れたスープをいただき、
次に、手羽、もも肉をいただく。
これで、鍋が空になるので、次に、キャベツ・きのこ・お豆腐などを順に炊いて食べる。



ちょっと面倒だが、この差配は鍋奉行が奉仕をするのが望ましい。
時間と手間をかけた料理なので、最後までサービスに徹したい代物だ。
従って、写真では盛り合わせ感がなく、つまらなそうに見えるが、
味は抜群でした。


ガッテン流 博多風水炊きレシピ(5人分)
<材 料>
手羽先  10本
鶏もも肉(一口大に切ったもの) 600グラム
キャベツ 1/2
水菜 1把
きのこ(えのき、しめじ) 適量
豆腐   2丁
ねぎ   1本
塩  適量

<作り方 (ガッテン流)>
・土鍋に水1.5リットル程度を入れて沸騰させる。
・手羽先を入れて30分煮る。アクはできるだけ除き、ふたをする。
※ふたの穴からの水分の蒸発が激しくなりすぎないように沸騰したら弱火にする。
※水分が足りなくなったら、適宜足す。
・もも肉を入れて30分フタをして煮込む。
※ 手羽先を入れてから1時間が経った後、さらに火を消して30分程度置いておくと、
余熱の効果で肉がよりやわらかくなります。ただし、加熱しながら煮込みすぎると、
鶏の臭いが多く出ることがありますので注意してください。

<食べ方(ガッテン流)>
・スープをいただきます。茶飲に塩とねぎを入れ、スープを注ぎ、飲みます。
・ポン酢をつけて、もも肉と手羽先をいただきます。
・野菜、きのこ、豆腐など順に煮込んで食べる。

<評価・コメント>
・鶏団子、ポン酢の作り方もありましたが、鶏団子をカットし、ポン酢は既製品でも
十分おいしくいただけます。手間が減る分スープ作りに注力できます。
・手羽・鶏肉は、食べきれる量が最適です。
・残ってしまったら、翌日は、坦々ゴマダレなど味を変えるのも一考です。

コメント (1)

その24:コーヒータイム⑤ “近代”を創ったコーヒーハウス

2008-02-03 08:42:49 | ときめきの植物雑学ノート
コーヒータイム⑤ “近代”を創ったコーヒーハウス

コーヒーハウスの原型『カフェ・カーネス』
アデンの僧院でコーヒーが公開されてから100年後の1554年に、
オスマン帝国の首都コンスタンチノープルでハタムとシャムスというシリア人により
世界最古のコーヒーハウス『カフェ・カーネス(kahvehane)』が開店した。

焙煎という生豆を煎って煮出す本来のコーヒーが発見されたのが15世紀中頃といわれ、
焙煎されたコーヒーを、広く高い天井・美しい装飾品と調度・壁面には豪華な絵画
そしてゆったりくつろげる空間で飲む社交場ともいうべきコーヒーハウスが誕生した。
ここで、荒削りだった“カフワ”が華麗で洗練された“トルココーヒ”に生まれ変わった。

アラブ・イスラムの世界からの飛躍は、
当時地中海での覇権を争っていたヴェネチア共和国への普及から始まり、
17世紀中頃以降には、ヨーロッパの主要都市にコーヒーハウスが作られた。



<<各地での最初のコーヒーハウス>>
――――――――――――――――――――――――――――――――――
1454年 イエメン・アデンの僧院でコーヒーが公開される。
<アラブの世界へ>
1511年  カイロ
1530年 ダマスカス
1554年 コンスタンチノープル『カフェ・カーネス』
<ヨーロッパ・他へ>
1645年 ヴェネチア
1650年 オックスフォード「ヤコブの店」
1652年  ロンドン「パスカ・ロゼーの店」「コーヒーテント」
1666年 アムステルダム
1671年 パリ
1683年 ウィーン
1686年 ニュールンベルク・レーゲンスブルク・プラハ
1687年 ハンブルク
1689年 米国ボストン
1694年 ライプツィヒ

1888年(明治21年)上野黒門町「可否茶館」
――――――――――――――――――――――――――――――――――

コーヒーハウスが普及する時代背景
コーヒーハウスがヨーロッパの各地に伝播・普及する17世紀は、16世紀に引き続き
・宗教的な対立、魔女裁判
・30年戦争(1618-1648)
・飢餓・飢饉、商工業の不振
・ペストの流行
・人口増加のストップ
など危機的状況であった。

しかし、17世紀の最後の四半世紀は、温暖化・宗教的な情熱の減退などで
明るく・寛容で・のびやかになり、このような時代環境のもとに
コーヒーハウス及びコーヒーが普及していった。
普及を支えるコーヒーの栽培・生産・流通・販売といったことが気になるが、
その前にコーヒーハウスのもっと重要なことを確認しておこう。

次世代のシード(種)を生み出したコーヒーハウス
何よりも重要なことは、コーヒーハウスは、
次の時代のシード(種)をたくさん生み出し育てるインキュベーションセンターとなったことだ。
いわば、工業化社会においては、製造機械を作る製造機を“マザ-マシーン”というが、
農業社会から商業・軽工業に移行する社会での、
概念・システム・サービス・商品などを生み出すマザー・ファンクションとなったことだ。

コーヒーハウスから生み出された重要な概念(コンセプト)は、
フランス革命の旗印であり、近代社会を創ったコンセプトである“自由・平等・博愛”がそうだ。

フランス革命を生んだ『カフェ・プロコップ』
『カフェ・プロコップ』は、いかがわしい公衆浴場を豪華絢爛に改修し1686年に開店した。
この店には、モンテスキュー・ルソー・ヴォルテール・フランクリン・ナポレオンなど
18世紀啓蒙主義の担い手、ダントン・マーラー・ロベスピエールなどの革命派など
当時の様々な知識人が集まった店として有名だ。
フランス革命のスローガンが討議されたのがこの店であり、2階からはギロチンの処刑を見たそうだ。
革命・反革命のギロチンを終わらせたのは、『カフェ・プロコップ』で
支払う金がなく、借金のかたとして帽子を置いていったナポレオンであったというから、
敵も味方も全部この店の客だったようだ。
『カフェ・プロコップ』は、1789年フランス革命を折り返し点に、1872年に閉店となった。


“コーヒーハウス”についてのモンテスキューの名言があるから紹介しておく。
※ モンテスキューは、権力の三権分立(立法・行政・司法)を唱えた哲学・思想家。

「カフェは、議論が現実を作ることが出来る唯一の場であり、・・・(中略)・・・
アナーキーな陰謀が生まれる唯一の場所である。」

というように現実を認識しており、こうも言っている。・・・・・

「もし私がこの国の支配者であったなら、カフェを閉鎖するだろう。こうした場所に
出入りする人間は、そこで必要以上に頭を過熱させるからだ。」

Next

コメント

広島の牡蠣 安芸路酔心

2008-02-02 10:29:19 | グルメ

広島の牡蠣が食べたくなった。
“かなわ”は銀座に、“酔心”は虎ノ門に出店しており、
両方とも広島の牡蠣を直送しているので、氏素性がしっかりしているから安心だ。

“かなわ”は先日テレビに取り上げられたばかりなので、混雑していないであろう“酔心”にした。

“酔心”は、新橋から虎ノ門に向かう外堀通り沿いにあり、一人から団体まで
幅広いニーズに対応できるから便利だ。
宴会で使うと、コミュニケーション重視になるので、牡蠣の味がよくわからない。
時間をずらした一人ランチが、味を吟味できる。

お昼は、メニューが豊富でなかったが、
牡蠣3個とお奨めのアナゴチラシ寿司を頼んだ。

 牡蠣  アナゴチラシ寿司


レモンを絞り、プリンプリンの牡蠣を殻からチュ~と吸い取ると
海の味にレモンの酸味がからまり、ツル~ンと牡蠣が喉を通過する。
1個目完了。
2個目は、口の中で一口かみ、海のミルク感覚を味わう。
ウ~ン うまい。
黒ビールで牡蠣の味を消し、さて最後の1個はどう食べようかと考える。
この瞬間が最高ですね。

生牡蠣は、3個が一番おいしい。少ないから吟味して食べる。
3個以上食べると、何となく生臭さが付きまとう感じがしてくるから嫌だ。
3個目も十分に堪能し、広島の牡蠣はおいしいと満足。

最近は、牡蠣もブランド化し、小町・クマモトなど種類が違うものを食べられるようになった。
小町でないものを頼んだが、さてなんだったかな~

アナゴチラシ寿司もおいしくいただきました。
黒ビールが残っていたので、これを飲み、お吸い物を最後にもったいないから飲みましたが、
これがおいしかった。しっかりしたダシが効いていました。

草枕・コーヒー専門店


“酔心”に入る前に、手前に骨董屋風の店があり、気になっていた。
食後の余裕で、好奇心を満たすために、覗いてみた。
小さな店だが、落ち着いた雰囲気のコーヒー専門店(『草枕』)でした。
メニューは4~5品だけ。冷たい牛乳コーヒというのが気になったが、
普通のコーヒーを頼んだ。
なんとこれがうまい。1日分のカフェインが取れた。

水出しコーヒーも作っている最中だったので、
今度は、牡蠣と水出しコーヒーというコースで楽しめそうだ。


コメント

万世の排骨(パーコ)拉麺

2008-02-01 06:15:41 | グルメ

久々の秋葉原、3~4店PCショップを廻る前に腹ごしらえをすることにし、
万世の拉麺を思い出した。
ここの排骨拉麺(パーコラーメン)とは長い付き合いで、
有楽町駅前に小豆色の有楽町ビルがあり、このB1に万世のラーメンの店があるが、
1970年代には、だいぶお世話になった店だ。

秋葉原駅から電気店が並ぶ靖国通りに向かうと、左手に万世橋があり、
この橋のたもとに肉の万世本店がある。
この1階の右手奥に拉麺が食べれるスタンドカウンターの場所がある。
なんか隅っこに追いやられたような感じがしたが、致し方ない。

懐かしく、だが、忘れつつある排骨拉麺(パーコラーメン)の味を思い出しつつ
出来上がりを待った。

万世の排骨拉麺(パーコラーメン)


30年以上も前に食べていた味だが、多少麺と排骨(パーコ)がスリムになったようではあるが
今なお健在な味であった。
低温でじっくり揚げた外側がカリカリの排骨(パーコ)は、これだけでも酒のつまみになりそうだが、
やはり、肉屋の排骨(パーコ)だけあり、期待通りのうまさであった。

余談ながら、秋葉原のPCショップをいくつか覗きましたが、
何処も魅力がなく、がっかりしました。
以外だったのが、だめもとで寄った有楽町のビックカメラのほうが陳列がわかりやすく
良かった。

秋葉原の専門店は、携帯端末と同じ売り方になっており、
通信ネットワークの契約のキックバックが、値引きの原資とワンパターンでした。
とくに、ハードだけを売ろうとしている秋葉原専門店に対して、
周辺を総合化して売ろうとしているディスカウントショップとの差は大きく
これでは、専門店の名が廃り、ディスカウントストアーに負けてしまいますね。

つけ麺がブームになっているようだが、流行り廃れが激しい食い物の世界で、
万世の排骨拉麺は、ロングブランドになっているが、
そのユニークネスは、肉屋の排骨にあると思う。

コメント