コーヒータイム⑦ コーヒーノキの保育器となった植物園・オランジェリー。
植物栽培の技術革新が16世紀に進む
地中海沿岸・アフリカなど暖かいところで生育する植物を
アルプスを越えたパリ、ロンドン、アムステルダムなどでは育てられない。
これは、15世紀頃まではヨーロッパの常識だった。
オレンジは特に珍重された植物で、王侯・貴族などは、毎年1年草(木?)として
夏だけ庭を飾る貴重品として、莫大なお金おかけアルプスを越えて取り寄せていたようだ。
16世紀中頃以降は、イタリア・パドヴァ(1545年)を最初に、各地で植物園が作られ、
(植物園⇒その12、その13参照)
また、伴走するように植物栽培の大きな技術革新があった。
それは、“鉢植えの技術”と“越冬用の建物”であり、
この2つが組み合わさることにより、アルプス以北でもオレンジを育てることが出来、
気候・土壌に左右されないで植物を栽培することが可能になった。
言い換えれば、珍しいもの・他国から輸入していた香辛料・薬草などの高価な植物を
自前で育てることが初めて可能となり、財政支出の削減となる。
技術革新が、新しいビジネス・社会を結果として創ることになるが、
植物園及び栽培技術の革新により、新たな欲望・欲求・ニーズが誕生することになる。
それは、地代・労働力を限りなくゼロにする植民地帝国主義と
生花を観賞するという審美眼の誕生へと展開することになる。
パリにオランジュリー美術館があるが、
博物館・美術館などでも“オランジェリー”という名前が残っている建物がある。
これは、オレンジ越冬用の建物・温室からきており、
アムステルダム植物園にも現存している。
この温室・オランジェリーがオランダの新しい時代を創ることになる。
世界のコーヒーノキのマザーファンクションとなった植物園
1638年に設立されたアムステルダム植物園は、オランダ東インド会社が収集した植物とともに大きく成長した。
アラビアでのコーヒー価格が高いために、オランダ東インド会社自らが
コーヒーの生産と流通に参入することを1696年に決定し、
持ち出し禁止のコーヒーノキをジャワに持っていき、移植・育成をすることとした。
ここからが、通説とアムステルダム植物園の公表との違いだが、
通説では、インド南西部にあるマラバールからジャワにコーヒーノキを送ったことになっているが
アラビアから直接ジャワに苗を送ったとアムステルダム植物園のホームページで公表している。
ということは、間接的ではなく、直接的なプラントハントをしたということになる。
まあ~こんなことはどうでもいいか。
正真正銘のアラビカ種のコーヒーノキがジャワに行き、
1706年には、ジャワ島で育ったアラビカ種のコーヒーノキの若木がアムステルダム植物園に届いた。
そして、このアムステルダム植物園の温室、オランジェリーで育ったコーヒーノキは、
ヨーロッパの植物園経由で、各国の植民地などに移植されることになる。
世界のコーヒ生産の70%強がアラビカ種であり、
世界にばら撒かれたアラビカ種のオリジナルは、ジャワ産のコーヒーノキとなる。
この保育器として、そして、増幅・増殖させたのがアムステルダム植物園のオランジェリー(温室)となる。
全ての源は我にありというものすごい世界が、コーヒーのDNAにあった。
血筋の争い
1714年、ルイ14世に1本のコーヒーノキを献上した。
本当はあげたくなかったのだと思うが、フランスがコーヒーノキを欲しがっていたことも確かだ。
この年は、スペイン王位継承をめぐって、フランスのブルボン家とスペインに対して
オーストリアのハプスブルグ家を応援するイギリス・オランダとの争いが終わった年でもある。
平和こそ通商国家オランダが生きる道であり、敵国フランスのご機嫌をとらざるを得なかった。
フランスでは、緊急体制でこのコーヒーノキを育て、繁殖させることに成功し
オランダを追従して植民地に移植した。
アムステルダム植物園で繁殖させたアラビカ種のコーヒーノキが世界に広まったのは、
この欲望を支える、栽培技術の革新が根底にあったから出来たことだと思う。
“何のために植物園を作るのか”という議論がパリ植物園
<<世界のコーヒーノキのゴッドマザーの子供達の拡がり>>
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1470年 アフリカのアビシニア高原から南アラビアのイエメン地方にコーヒーの木が移植された。
<オランダの活躍>
1616年 ピエター・ファン・ブロークがモカから初めてコーヒーノキをオランダに運び、移植に成功。
1658年 オランダ人がスラウェシ島(セイロン)でコーヒーの栽培を開始。
1695年 回教徒ババ・ブータンがコーヒーの種子をインドのマイソール山中に持ち出す。
栽培にも成功。クルヅ、マイソール周辺で原住民に栽培されるコーヒーノキの源。
1696年 アムステルダム市長の勧告で、インド南部のマラバールから初めてジャワ島に
コーヒーの苗木が運ばれる。しかし、洪水によって壊滅。
1699年 ヘンリック・ズワールデクロン(1718年ジャワ総督)は、ジャワへ二度目のコーヒーの苗木を運び栽培に成功。
オランダ領インド諸島のすべてのアラビカ種コーヒーノキ(ティピカ種)の先祖となる(Coffea arabica<=var.typica>)
1706年 ジャワ島産コーヒーノキの若木をオランダ本国アムステルダム植物園に送る。
⇒ ヨーロッパ各国の植物園に移植。
1712年 ジャワ島のコーヒー豆、アムステルダムでセリに出される。
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1714年 アムステルダム市長からルイ14世に献上した1本の若木(「ノーブル・ツリー」)
植物学者アントワーム・ド・ジュシュー博士の管理の下、ジャルダン・ド・プラント植物園
に根付かせた。これが、中南米のコーヒーの原木となる。
<フランス・スペイン・ポルトガル・イギリスなどの活躍>
1715年 (仏)ハイチ、ドミニカで栽培が始まる。
1715~1717年(仏)ブルボン島(現レユニオン島)で栽培開始。
1718年 (蘭)スリナム(蘭領ギアナ)に栽培拡大
1723年 (仏)フランス人、ガブリエル・ド・クリューがパリ植物園からコーヒーの苗木を
西インド諸島マルチニーク島へ運ぶ
1728年 仏領ギアナからポルトガル植民地パラにコーヒーの種子と苗木が持ち込まれる。
ブラジル最初のコーヒー農園の始まり。
1728年 マルチニークのコーヒーが当時の総督ニコラス・ローズ卿によってジャマイカ
に輸入され、ブルーマウンテン地区のテンプル・ホールの所有地に植えられた。
1730年 (英)コーヒーの国内需要に刺激され、遅れて参入し、ジャマイカで栽培開始。
1740年 (スペイン)ジャワからフィリピンへ移植
1748年 (スペイン)ドミニカからキューバへ移植
1750年 (蘭)ジャワからスラウェシ島に移植
1750~1760年 (スペイン)グアテマラにコーヒが導入
1777年 (仏)マルティニク島のコーヒーノキは、1880万本にまで増加。
1779年 (スペイン)キューバからコスタリカへ移植
1784年 (スペイン)マルティニク島からベネズエラのカラカス近郊へ移植
1790年 (スペイン)西インド諸島からメキシコへ移植
1825年 (スペイン)リオデジャネイロからハワイ諸島へ移植
1840年 (スペイン)キューバからエルサルバドルへ移植
1850年 ブラジルがジャワを抜いて世界一のコーヒー生産国となる
コーヒータイム後記
まだまだ書きたいことがあるコーヒーというものは、魅力ある植物で、
いまでも“興奮”と“覚醒”を引き出してくれる。
イスラムの門外不出の秘薬は、いまでも神との交信での媒介となりえ、
身体を痛めつけることにより交信のスイッチが入る。
まだ見えない未来の啓示を受け取るために、頭をクールダウンさせ、身体を熱くする。
そんな薬物効果がある。
コーヒーの登場は、
自然を客観的に観察し、あるがままに記述し、そこから法則を導き出す、
科学革命の時代に必要なものであったという必然性がある。 と思う。
コーヒーハウスからは、近代の思想だけでなく、保険・郵便制度・博物館・学会
クラブなど様々なものが誕生した。
コミュニケーションを促進する道具としてのコーヒーは、
大量に生産されることにより
私たちに“団欒”という素晴らしいサービスをもたらした。