モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

スイート・バイオレット(Sweet Violet)の花

2009-01-11 09:45:50 | その他のハーブ

古代ギリシャ人にとってスイート・バイオレットは特別の花のようだった。
カーネーションと並び好まれた花だが、結婚式などでの髪飾りとして使われるだけでなく
薬草としての位置をしっかりと占めていた。
また、芳香のある美しさはもちろんのこと、ひっそり隠れたようなキャラクターに魅了され
詩人の心をくすぐった花でもあったようだ。

ヨーロッパの中世時代は、この美しさと香りを楽しむという気質・文化がなく、
修道院で“邪悪な精神”に効く薬草としてひっそりと育てられていた。

これを日向に出したのがナポレオンとジョゼフィーヌだが、その前に16世紀に一度脚光を浴びておりパルマバイオレットの神話として残されている。

ナポレオンが愛したバイオレット
ナポレオン、ジョゼフィーヌともスイート・バイオレットを愛でていて、
二人の結婚式ではジョゼフィーヌがバイオレットを身につけたという。
また、結婚記念日にはバイオレットの花束をナポレオンが贈ったそうだ。
(実際は花束にするにはちょっと厳しいので鉢のようにして贈ったのかもしれない。)
このうわさがパリに広まりバイオレットを栽培する人が増えたという。

ジョゼフィーヌは、マルメゾン庭園にバラだけでなくスイート・バイオレットも集めたようで、
起源・由来がミステリアスで香り豊かな「スイート・バイオレット・オブ・パルマ(Sweet Violet of Parma)」を集めるためにイタリアの都市パルマまで人を派遣させたという。

(写真)スイートバイオレット・オブ・パルマ


このパルマバイオレットは、古代スペインのムーア人の庭に起源があるとか、イタリア経由でトルコから入ってきたという伝説がある。
いづれにしても気候温暖なイスラム圏が育てた花で、16世紀にスペインかポルトガルからブルボン王家によってイタリアのナポリに持ってこられたという。
それにしても素晴らしい逸品だ。

ナポレオン失脚後はバイオレットも忘れられたが、彼が復活するとまたブームになったというので、勝ち組にしっぽを振るという行為はかなりいい加減なものだ。
ワーテルローの戦いに敗れたナポレオンは、ジョゼフィーヌの墓に行きそこに咲いていたバイオレットを2-3本摘みとったという。
そして、彼が死んだ時に胸のロケットには枯れたバイオレットが残っていた。

コルシカ島の寒冷な林の下地に咲く香り豊かなバイオレットは多感な少年の情感を刺激し、その香りの中でナポレオンは一生を終えたのであろう。

それにしてもこれはよく出来た話だが、フランスにバイオレットを定着させたのはナポレオンとジョゼフィーヌであることは間違いない。

そして、マルメゾン庭園のバイオレットは、イギリスに渡りパンジーの作出に関わった。


スイート・バイオレットにも様々な品種が作られているが、その品種名はまるでバラのようだ。
大輪切花用には「ラ・フランス(La Flance)」 、 
美しい濃紫色の「プリンセス・オブ・ウエールズ(Princess of Wales)」 、 
紅紫色の「マリー・ルイーズ(Marie Louise)」  
などイメージと香りが浮かびやすいおしゃれな名前が多い。

英国育ちのパンジーとは名前からして一味違う。

(写真)ラ・フランス La Flance
 

(写真)マリー・ルイーズ Marie Louise
 

(写真)プリンセス・オブ・ウエールズ Princess of Wales
 


日本のスミレもこのスイート・バイオレットに相通じるものがあり素朴な味わいがある。
華麗・豪華な花もいいが、飽きたときに戻るところは原種に近い花になる。

(写真)我が庭のスイートバイオレットの花


スイートバイオレット(Sweet Violet)
・学名は、Viola odorata L.、英名がSweet Violet、和名がニオイスミレ。
・種小名の‘odorata’は芳香のあるという意味。
・原産地はヨーロッパの南部
・匍匐状の茎から根を下ろして広がる。
・葉の形状はハート型で長柄がある。
・開花期は10-4月で紫・桃・白などがある。
・肥沃な土壌で少し湿り気がよい。
・日陰、半日陰でもそだつ。
・栽培温度は、2-3℃で成育し、10-15℃が適温。
・耐寒性は強いが、夏の高温と強い光には弱いので、風通しのよい日陰で育てる。
・ヨーロッパでは、花よりも香りを楽しむ植物として利用されている。

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ビオラ(Viola)の花

2009-01-10 08:49:52 | その他のハーブ

冬場の花は色鮮やかなパンジーではなく、落ち着いたビオラと決めている。
色合いとしては、ビオラ色といわれる青系統と黄色に決めている。

今年は、バニービオラというものにしてみた。
上二枚の花びらがウサギの耳のように細く長く立ち、下三枚が顔を形作っている。
昨年はサントリーのビオラを買ったが、それよりは耐寒性が弱いようで、葉が寒さにやられている。

(写真)神戸ビオラ、バニーパープル


ところで、ビオラの系統はちょっとややっこしい。
「ビオラ(Viola,Violet)」、「パンジー(Pansy)」、「スイート・ヴァイオレット(Sweet Violet)」、「スミレ」など様々な呼び方があり区別がよくわからない。
どう違うの?というところを整理してみよう。

数式的に表現すると、“全てのパンジーはビオラであるが、全てのビオラはパンジーではない。”ということでありビオラの方が大きな概念を示す。
しかし、これは原種の説明にしかすぎない。原種は全てビオラ属に属し、スミレは日本の、スイート・バイオレットはヨーロッパでのコモンネーム(一般名称)となる。

1800年代からビオラ属の園芸品種の開発が始まり、バラ同様に園芸品種が主流を占めるようになった。これがややこしくしている。
以前は、花の大きさで大きい方がパンジー、小さいのがビオラ。なおかつ確認として花の色と形が左右対称なのがパンジーという見分け方があった。

今ではこの区別も怪しくなった。左右対称でないパンジーが多くなったということと、花のサイズが大きいビオラも出てきた。
見た目での区別は、花の中心が濃い色なのがパンジーで、薄い色がビオラと覚えておきたい。

ビオラが出来るまでの時間を整理すると次のようになる。
(パンジー、日本の原種スミレとヨーロッパの原種は次回以降まとめることとする。)

世界の原種
・世界には約500種の原種があり温帯地域に広く分布する。極端に言うと南極大陸以外何処にでもあるのでかなり古い種でもある。日本には54種のほかに自然交配でできた数多くの変種がありスミレの宝庫でもある。
・1・2年草、多年草、低木もあり、ハワイ諸島に生息する品種は茎の直径5cm、樹高200cmになるものもある。

ビオラの新種開発の歴史
1810年代から野生種バイオレットから園芸品種の開発が始まり、1800年代中頃にパンジーが誕生した。
ビオラはこれより遅れて品種改良が始まり、1860年代にグリーブ(James Grieve)がピレーネ山脈に咲く原種のコルヌータ(V.cornuta)とルテア(V.lutea)及びパンジーとの交配を行い、背丈が低く株張りが横に広がりたくさんの花が咲く花壇にマッチする新しい品種を開発した。
これをタフテッド・パンジー(Tufted Pansy)と名付けたがこの名前は定着せず、後にエジンバラのスチュアート(Charles Stuart)がこれらを改良し、1887年に小輪白花で多花な品種を選抜してビオレッタ(Violetta)と名づけたものが普及し、ビオラが誕生した。

ビオラ(Viola、tufted pansy)

・品種:大輪系ビオラは花径3-5cm、小輪系ビオラは花径1.5-2.5cmで、多くの近隣の野生種に由来する。
・耐寒性はパンジーよりも強く、夏の暑さにも強い。
・小輪原種はこぼれダネで殖えるほど丈夫。

パンジは次回。
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プレ・モダンローズの系譜 ⑥現代のバラ、ハイブリッド・ティーへの進化

2009-01-08 09:34:44 | バラ

ティーローズからハイブリッド・ティー・ローズへ
現代のバラの主流は、ハイブリッド・ティー・ローズ(略称:HT)だが、
このHTは、ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)とティー・ローズの交雑で生まれた。

ハイブリッド・パーペチュアル・ローズは、このシリーズの⑤でふれたが、ノアゼット系のバラ、ブルボン系のバラなどが1810年代後半に登場したその土台の上で成立し、ラフェイ(Jean Laffay)が1837年に作出した「プリンセス・エレネ(Princesse Helene)」が最初の品種とされている。
一方、ティー・ローズは、翌年の1838年に作出された「アダム(Adam)」が最初の品種として登場した。

ほぼ同時期にハイブリッド・ティー・ローズにつながる重要な系統がフランスで誕生した。この根底には、中国原産のバラが深くかかわっているのでこれを確認していくことにする。

ティー・ローズ誕生に関わった中国原産のバラ
1700年代の中頃以降から中国原産のバラがヨーロッパに伝わり、マルメゾン庭園での人工交雑以降の1810年代頃からあらゆるバラと交雑され、そこから重要な系統が誕生した。ノアゼット系、ブルボン系、ティー・ローズ系などである。

(1)1809年にイングランドに中国原産のバラが伝わる。
このバラを導入したヒューム卿の名前を取り、ヒュームズ・ブラッシュ・ティー・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)と呼ばれた。
このバラは、中国原産のコウシンバラと中国雲南省原産のローサ・ギガンティア(Rosa gigantea)との自然交雑で誕生したといわれている。
ローサ・ギガンティアは、中国名で香水月季と呼ばれ、大輪で花弁のふちが強くそりかえるという特徴があり、現代のバラの花形にこれを伝えた。

(2)1824年にはイエローローズの基本種が入る。
英名では、パークス・イエロー・ティー・センティド・チャイナ(Parks' Yellow Tea-scented China) 、中国名では黄色香月季と呼ばれたバラがイングランドに伝わる。このバラは、イギリス王立園芸協会のパークス(John Damper (Danpia)Parks)が中国・広東省の育苗商からヒュームのバラと同じ系統で花色が黄色のバラを入手しロンドン園芸協会に送った。翌年にはパリに送られる。

(3)最初のティー・ローズ「アダム」の誕生
最初の品種は、1838年にフランスのアダム(Michel Adam)によってつくられた。ヒュームのバラとブルボン系の品種との交雑で作られたといわれ、大輪、柔らかい桃のような花で、強いティーの香りがする。

(写真)最初のティー・ローズ「アダム」

(出典)  http://www.bulbnrose.org/Roses/Rose_Pictures/A/adam.html

最初のティ・ローズ「アダム(Adam)」が発表されてから以後、1838年フォスター作の「デボニエンシス(devoniensis)」、1843年ブーゲル作の「ニフェトス(Niphetos)」、1853年に代表種であるルーセル作の「ジェネラル・ジャックミノ(General Jacqueminot)」が発表された。

また、ティー・ローズは雨が多くジメジメした涼しいイギリスの気候は適さず、1800年代の中頃にはフランスのリビエラが栽培の中心となった。

(4)ハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス(La France)」の誕生
1867年、ついに最初の四季咲きハイブリッド・ティー『ラ・フランス('La France)』が作られた。作出者は、フランスのギョー(Jean-Baptiste Guillot 1840-1893)

(写真)最初のハイブリッド・ティー・ローズ「ラ・フランス」

(参考) Hybrid Tea Rose ‘La France’
http://www.rosegathering.com/lafrance.html

花は明るいピンク色で裏側が濃いピンク、剣弁で高芯咲き、花径は9-10cm、花弁数が45+15枚と多く、香りはオールドローズのダマスク香とティーローズ系の両方を持ち四季咲きの大輪。
交雑種は、ハイブリッド・パーペチュアル系の「マダム・ビクトール・ベルディエ(Mme Victor Verdier)」とティー・ローズ系の「マダム・ブラビー(Mum Braby)」といわれている。

しかし実際は、リヨンにある育種園の苗木の中からギョーにより発見されたようで、人工的な交雑ではなく自然交配だったようだ。だから、両親がよくわからない。

しかも初期の頃は、ハイブリッド・パーペチュアル・ローズと考えられていたが、
イギリスの農民でバラの育種家・研究者でもあったベネット(Henry Benett 1823-1890)が、「ラ・フランス(La France)」を新しいバラの系統として評価し、ハイブリッド・ティーの名を与え「ラ・フランス(La France)」をその第一号としたことにより新しい系統となった。

園芸品種の中では、バラの系図が最も明確にされているが、これはベネットのおかげであり、新品種作出の交雑種・作出者・作出地などが明確でなかったものを、各品種ごとに明らかにし、一覧表に記載する方法を考案した人で、その後の系統分類の基礎を築いた人でもある。
彼は、1879年に10の異なったバラの系統を示し、この時にハイブリッド・ティーという系統も提示した。フランスでは比較的早くハイブリッド・ティーが認知されたが、全英バラ協会がこれを認めたのは1893年で「ラ・フランス」誕生から26年後だった。頑固な英国人気質は今はじまったことではなさそうだ。

また、境界線を引くことは意外と難しく、1859年にリヨンのFrançois Lacharmeが作出した「ビクター・ベルディエ(Victor Verdier)」は、両親が「Jules Margottin」(ハイブリッド・パーペチュアル)と「Safrano」(ティー・ローズ)であり、最初のハイブリッド・ティー・ローズであってもよかったが,そうは認められずハイブリッド・パーペチュアルとなった。
しかし、最初のハイブリッド・ティー「ラ・フランス」には、「ビクター・ベルティエ」の遺伝子があった。

現在主流のバラハイブリッド・ティー(HT)は、このようにして誕生し、“選び抜かれた雑種の極み”とでもいえだろう。
“純血よりも美しくて強い” これがハイブリッドで実現したことで、混血を見くびってはいけないという教訓を我々に教えてくれる。
国粋主義者は滅び行く宿命を抱えているのだろう。

HT=HP系×ティー・ローズ系
HP=ノアゼット系、ブルボン系、ポートランド系などの交雑
ティー・ローズ=コウシンバラ(Hume's Blush Tea-scented China)×ローサ・ギガンティア

(プレ・モダンローズの系譜==完==)

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プレ・モダンローズの系譜 ⑤四季咲き性の取り込み

2009-01-06 09:15:41 | バラ

ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)誕生

ノアゼットローズ、ブルボンローズとも1810年代後半にロンドンではなくパリに到着した。これは偶然ではなくジョゼフィーヌが育てたバラの育種業が稼動し始めた成果とも言える。

1820年代はこの2系統のバラが人気となり普及することになるが、1840年代までにこれらのバラをベースとしたさらにかけ合わせが行われ品種改良がすすむことになる。
そして、ついに四季咲き性を持ったバラがヨーロッパに登場した。正確には、春に咲いたあと夏以降に返り咲きする二季咲き性のバラだがこれらのバラをハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(Hybrid Perpetual Roses)と呼んでいる。これでハイオブリッド・ティ・ローズ(HT)に一歩近づくことになる。

(写真)ハイブリッド・パーペチュアルの人気品種「フラウカール・ドルシュキ」


フラウ カール ドルシュキ(Frau Karl Druschki)
・系統:ハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)
・作出者:ランバルト(P.Lambert)、1901年、ドイツ
・花色:純白
・開花:返り咲き、剣弁高芯咲き
・花径:大輪で12-13㎝
・香り:微香
・樹形:つる性3-4m
今でも人気があるHPで、つぼみの時は淡いピンクが入っているが開花すると純白になる。

このハイブリッド・パーペチュアル(略称:HP)は、1837年に誕生するが、それまでにいくつかの主要な品種と育種業者がかかわっている。フランスがバラの栽培で先端を走ることになった歴史の始まりを覗いてみるのも悪くない。

フランスのバラ育種者の流れ
ジョゼフィーヌのマルメゾンのバラ園を支えたのは、郵便局員でバラ栽培家のデュポン(Dupont)とバラの育種業者のデスメーだった。

デスメー(Jean-Lois Descemet 1761-1839)は、パリ郊外に親から引き継いだ育種園をベースに活動し、ジョゼフィーヌの支援で初の人工交雑によるバラの育種を行い、1000以上の人口交雑によって誕生したバラの苗木を育てていた。この育種園は1815年にナポレオンに対抗する軍隊から破壊されたといわれていたが、破壊はされたがこれを予想し、彼の友人のヴィベール(Jean Pierre Vibert)に全てを売り渡したという。そして彼は、イギリスの軍隊がパリに進攻する前にロシアに亡命し、その後はオデッサの植物園長等を務めロシアの植物学・バラ育種業に貢献した。

戦争によりノウフゥー(Know Who)は流出したが、その知識・経験などを記述した記録を含め苗木などのこれまでのデスメーのノウハウ的資産はヴィベールに引き継がれ、ヴィベールはこの後にフランスの主要な育種業者として台頭する。

中国原産のコウシンバラの四季咲き性を取り入れたハイブリッド・パーペチュアル・ローズ(HP)は、ラフェイ(Jean Laffay 1794-1878)によって完成されたことになっている。彼は、パリ郊外のベルブゥの庭で最初のHPである紫色の花を持つ「プリンセス・エレネ(Princesse Helene)」を1837年に発表した。

ヨーロッパのバラ育種業界ではこの年が重要な意味を占め、ここから始まるのがモダンローズという定義をしている。アメリカのバラ協会が認定した「ラ・フランス」誕生の1867年からがモダンローズというのとは見解をことにしている。よく言えば何事も自分の意見を持つということでの坑米的な実にヨーロッパらしい見解だ。

ラフェイが完成するまでの1820年から1837年までの間に、9品種ものHPが交雑で作られたという。
その一~二番目を作出したのが、パリの南西に位置するアンジェ(Angers)の育種家モデスト・ゲラン(Modeste Guerin)で、1829年に三つのハイブリッド・チャイナを発表した。そのうちの一つ「Malton」は、最初のハイブリッド・パーペチュアルをつくる栄誉を得た。2番目のHPは、1833年に発表された「Gloire de Guerin」で、新鮮なピンク色或いは紫色の花色のようだった。

三番目のHPは、ブルボンローズをフランスで最初に受け取ったジャックス(Antoine A.Jacques)の若き甥ベルディエ(Victor Verdier)が作り出した。ベルディエは、おじさんのジャックスのもとで修行をしており、おじさんが1830年に作った最初のハイブリッド・ブルボン「Athalin」のタネを蒔き、1834年に三番目のHP「Perpetuelle de Neuilly」をつくった。

4番目のHPは、リヨンのバラ栽培家としかわからないプランティアー(Plantier)によって作られた「Reine de la Guillotiere」で、作出者同様にこの花もよくわからない。ブルボン種の'Gloire des Rosomanes'に負っているところがある。このブル種のバラは、ヴィベールに売られている。

ここでも出てきたヴィベール(Jean Pierre Vibert 1777-1866) 。どんな人物か経歴を見ると意外と面白い。
ナポレオン軍の一兵士として戦い、戦傷でパリに戻り、ジョゼフィーヌが支援したデュポンのバラ園の近くで“ハードウエアー”販売店(金物店?)を開店した。バラとの出会いはここからで、同じくジョゼフィーヌが支援した育種家デスメー(Descemet)がロシアに亡命するに当たって彼の資産(苗木、栽培記録など)を買い取り、バラ育種事業に参入した人物であることがわかった。1820年代には優れたエッセイを書くバラの評論家になり、まもなく、ヴィベールは数多くの品種改良のバラを世に送り出し、世界で最も重要なバラの育種家と苗木栽培業者になった。
そして、1851年に74才で彼は引退し、自分の庭造りとジャーナルへの原稿を書くことで余生を過ごした。

“好きこそものの上手なれ”そして“無事こそ名馬”は、ヴィルベールにフィットした格言のようだ。

(写真)「フラウカール・ドルシュキ」の花2


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『 ニッポンの気持ち 』

2009-01-02 01:32:50 | ニッポンの政治
『ニッポンの気持ち』

空気がきれいになった。
トラックが走らなくなったからだが、
電気自動車と緑が多くなった方がよい。

ゴミが少なくなった。
捨てるモノがなくなったからだが、
学ぶこともある。

休みが多くなった。
働けなくなったからだが
愚痴を言っていた忙しい頃が懐かしい。

政治家が馬鹿に見えてきた。
もっとまともなヒト達だと思っていたが
危機には鈍いということが暴露されてしまった。

人任せは危ないことがわかった。
任せたのがヒトではなく組織という機械だったので
ヒトの心を持っていなかった。

家にいる時間が多くなった。
外にでなくなったからだが
家もいいものだ。

新しい発見が多くなった。
今まで目をつぶっていたからだが、
目を開けてみるとヒトはいいものだ。

それだけでなく、街も、お隣もいいものだ。
社会があっての個人
当たり前が身にしみる年となりそうだ。

ニッポンの気持ち』独断編
いま一番欲しいものそれは、
『働く場』だと思う。特に家族を支えるお父さんと、明日の日本を支える若い世代の『働く場』だ。
『働く場』が急激に縮小し、工業化が吸収してきた雇用が弱体化している。中小企業は仕事がなくとも歯を食いしばって雇用を支えている。国際競争力がある大企業は、合理化で一顧の余地もなく首を切っている。
これでいいのだろうか?

雇用を創出することが2000年からの最大の課題だったが、『道路』と『郵便局』にだけ執着してきたので、国民が付託した税金を使って産業を興す“殖産興業”をしてこなかった。逆に、医療・福祉・介護などは産業をつぶしている。
原資がないのではなく使い方がおかしいのだ。
特に、自民党の道路族が日本の未来デザインをゆがめた張本人だと後世で評価されるはずだが、この道路への総投資額(道路特定財源+一般財源からの道路関係への支出)を産業を興し、雇用を創出する使い方に変えるだけでかなりのことが出来ると思う。

例えば
貿易立国のはずなのに、海外との輸出入の接点である「港」「空港」「鉄道」「道路」「通信ネットワーク」などのハブ機能の整備と24時間運用の投資を行ってこなかった。シンガポール、香港、韓国にこのハブ機能を奪われつつあり、国策としての企画能力の欠如が明らかになっている。

これまでは強い製造業があったので、だましだましやってこられたが、中継貿易に関しては日本を利用する価値がない以上シンガポールなどに流れることとなる。

「港」「空港」「鉄道」「道路」「通信ネットワーク」への投資は、税制の優遇政策とあわせることによりビジネスを創出し新しい雇用を創出する。しかも道路を優先して作らないが土木業の雇用確保も実現できる。
輸出入の貨物及び旅行者が増加すると周辺の道路ネットワークの改善もしなければならないので、今以上に道路への投資が明確になるだけでなく地域振興と一体化して実施できることになる。
道路をつくったからといって企業が誘致できるわけではないし、雇用は創出できない。むしろ高速道路が出来たがゆえに寂れていった市町村が結構ある。

北米、ロシア、中国、東南アジアとの中継貿易のハブとなることによって産業が創出でき雇用も創出できる。
ロシアのハブとして北海道で、中国のハブとして九州・中国地方で、東アジアのハブとして北陸地方で、オールランド対応として横浜・神戸などの復活を真剣に考えてみよう。港と空港と鉄道と道路と通信ネットワークを分散させずにトータルとしてハブ地域を開発することが条件となるが。

財源は、不況時の対策としても、道路特定財源の10年間分を前倒しに使用することによって公共事業での雇用が確保でき、産業を振興することも可能となる。付随して地域の道路ネットワークへの改善投資もリアリティが見えてくる。
車が通らない道路つくるよりも雇用をつくることに、しかも失業対策としての穴を埋めるという発想ではなく産業をつくるという切り替えが欲しい。

そしてついでにふれると、海洋資源の開発、宇宙技術の開発といった未来対応のハブをしかるべき地域に設定し、同様に構築しておきたい。国土開発の視点を日本列島改造から世界の中での日本の優位性作りに切り替える対応が相当遅れている。

企業が収益を出さない限り雇用は増えない。だから失業者を吸収するための対策は、えてして土木事業となりダムや道路を作る公共事業となりかねないが、ダムや道路が作り出す新しい需要なり価値がかつてほどではなくなったようであり、価値を生み出すものに公共事業をシフトさせるべきだというのが一つ目の論拠だ。

第二の指摘は、雇用がダブついている現在は、産業別の就業構成を変えるチャンスでもある。ロボット化された工業では、これからも労働力を維持拡大することは難しい。人不足で労働力が足らない内需産業にてこ入れし、雇用を拡大させる方策を検討する必要がある。
農業、漁業、医療・介護・福祉、教育が人材・労働力を必要としており、これらは地産地消がキーワードであり地域興しと結びつく。ここに、ロボット・環境・IT技術をミックスして、労働力だけに頼らない産業興しをすすめたいものだ。

上記の産業は、本来は小規模であるがゆえに一人の役割が広くかつ専門性が必要となる。工場で働いていた人が単純に職業転換することは難しい。
そこで中期的な政策と短期的な職業転換施策との組み合わせが求められるが、中期的には、事業として利益が出るように育成する必要がある。その理由は、日本国民の食の安全と健康の維持を守る安全コストであり、日本国民の生命と財産を守る防衛費と同価値であるということをいいたい。
安定した産業には雇用が生じ、この産業を目指す就職希望者が出る。

短期的には、失業保険申請者に職業転換の再教育の機会を提供することと、これを受け入れる事業者への助成を行うことである。事業者は、人件費を負担してもらい人員を育てることが出来る。失業者は、再教育による就職のチャンスを得ることが出来るので一石二鳥かもわからない。

何歳になっても職業訓練、或いは、学習というものが重要な意味を持ってくる。
基本は、“オン・ザ・ジョブ”で、事業者のところでの日々の仕事をしながら学習することだが、就職しない人間にもこの学習を体験できる“インターン”制度があることが望ましい。

使ったお金の割りに効果がよくわからないのが教育と言われているが、直感的に言って一人当たりのGDPにリンクしているのではないかと思う。豊かさは教育がつくってきたといったほうがわかりやすい。

しかし昨今の実態は、豊かさは維持できないのではなかろうかと思う不安感があるほど出来の悪い学生が多くなった。育とうとしないのか育てられなかったのかわからないが、教育と社会の接点がかけ離れている。

教育がこれまでの日本の成長と競争力を支えてきたが、今の大学教育ではこれが出来なくなり、社会で再教育しないと使い物にならなくなった。グローバル化している企業には、欲しい人材を世界から調達するという素材調達に近い考え方が強まり育てる発想がなくなってきた。これ自体問題ではあるが一理はある。育てられなくなった教育機関に大きな問題があることは確かだ。

高校以上の教育のカリキュラムの中に、お父さんお母さん達が働いている職場での体験学習・インターン制度を早く導入し、空虚な座学と思っているところに目標を持つと座学も悪くないという風にさせるべきかと思う。
もっと進めると、これまでのカリキュラムを廃止し、“欲しい人材像”を有している社会人の知恵を入れて改定して欲しい。

明治以降の教育は、「富国強兵」の大方針に従い、農村から工場に労働力を振り替えこの人材を育てることを目標としていた。
これからの目標は、工場から農業、漁業、医療・介護・福祉、教育に目を向けることであり、バイオ科学、海洋科学などなどに興味を持たせることかもわからない。そこから自分で学ぶ学習が始まる。

社会が求める人材を育てるのが教育だったが、ここしばらくは、社会が何も求めていなかったのだろう。育つ子は勝手に学び自分で育っていくが、育たない子のしつけが教育であり、家庭と学校に隔離されていたのではしつけが出来ない。ということだろうか?従って文部省は必要なくなり科学技術省(?)に再編したほうが良さそうだ。


土木事業が地域経済を担ったのは昔で、いまは選挙目当てとしか考えられない。この前提に立っているとしか思えない道路族は落選させるべきだと思わないでもないが、
それよりも、国の多くの政策実行費を地方に還元し、国は外交・国防などスモール化した方が天下り団体への助成金の不明朗な使い方がなくなるので良さそうだ。当然国家公務員の定数も削減し地方に渡すこととなるので、これまでの組織至上主義の政策立案の責任を取ってもらうので一石二鳥となり、国民感情としては満足するところがある。能力はあるが働き方に問題がでてきた国家公務員制度にメスを入れる時期でもある。

政策としての中身は目をつぶるが、最も困難な器を変えてくれる政党を支持したい。地方のことは地方で出来るように財源を地方に渡し、国家公務員もこれに従い大量に地方に移管することでの霞ヶ関破壊を進めて欲しい。

そしてそのあとに、自らの首を切って痛みを共有して欲しい。
当然、国会議員の定数削減、今最も冗費となっている政党助成金も見直すべきだ。政策をプランニングできない政党ではいまと同じ政党になるので、国会議員の定数削減、政党助成金を削減して浮いた金額を政策立案機能強化に使うように使途を明確にして渡すのであればよいと思う。


さて、新しい年となりましたが、明るくないことは間違いありません。他者に期待してもどうしょうもないので、自分で心に灯りをともすようにする以外なさそうです。そしてその灯りをヒトに分けてあげるようになりたいものです。

我慢・辛抱はヒトを育て、“心棒”を創る。
軸がありぶれないということは信頼につながるのでいいチャンスだ。

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サルビア・ミニアタから 新年のご挨拶

2009-01-01 00:05:53 | セージ&サルビア
ミニアタが咲き誇っています。
いつの間にか、半年おくれで12月から定期的に咲くようになり、
耐寒性がないはずなのに
耐寒性もついてきたようです。

ミニアタにも出来たので、不可能はないということでしょうか?
暗くならないで、ミニアタのような桃色で行きましょう!!



サルビア・ミニアタ(Salvia miniata)
英名のベリーズ・セージ(Belize sage)は、生息地の国名であり旧英領ホンジュラスといった。ベリーズは、ユカタン半島の付け根にあるカリブ海に面した小さな国で1981年に独立した。マヤ文明が栄え、熱帯雨林もあるので多様な文化、多様な植物相に恵まれる。

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