あの日から1年たちました。
日本に帰って何かをすることはできないけれど、自分が今いる場所でできることをやっていこうと思って過ごした1年は、とても短くて、まるで、今朝の出来事のような気がします。
以前、「その人の死によって何かを学ぶことが、生きている人の死んだ人への最低限の礼儀ではないでしょうか」という言葉を聞いたことがあります。
そのとき(20年ほど前)は、それほど深く考えませんでしたが、その後、何度かその言葉を思い出さざるを得ないような状況を経験してきました。
それでは、私はこの出来事から何を学んだのでしょうか。
昨年、天津で一番大きい外国語大学の先生に、「日本の経済は大丈夫か」と聞かれ、次のように答えました。
「大丈夫です。ただし、今までとは違う経済成長を目指すことになると思います。
高度経済成長やバブルなどを経験した日本は、経済大国であることが最大の価値であるかのように思っていました。しかし、今回のことで、お金に換算できないものを無視した経済成長は、何かの要因で簡単に崩れてしまうことを学んだと思います」
「だから、これからは何が何でも経済成長、というやりかたではなく、人とのつながりや幸せに配慮した経済成長を本気で目指す人が増えると思います」と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本語科の学生の就職についての悩みを聞いていると、やはり「給与」に関する話題が一番多いです。
もちろん、現代社会に生きている人が、経済を無視して生きることはできません。
しかし、経済的なことにきちんと対応するということが、お金には変えられない価値を無視するということでしかないのであれば、いつか、何かの理由で目に見えるもの(お金・物質)が失われたときに、自分が無視してきたものの価値を思い知らされることになるだろうと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今、天津は、お金のやり取りで大学内の日本語サークルの名前も変えられてしまう、という状態になっています。
大学内の日本語サークルが、その名称までもお金に換算されてしまうという日本語教育が育てる人材は、おそらく、お金に変えられない価値を作り出すことはできないと、私は思います。
そのつけが、いつ、どのような形で回ってくるのか分かりませんが、
私は、1年前の出来事から何かを学べる人と一緒に、仕事をしていきたいと思いますし、そういう人と一緒に仕事ができるような自分を作っていきたいと思います。
日本に帰って何かをすることはできないけれど、自分が今いる場所でできることをやっていこうと思って過ごした1年は、とても短くて、まるで、今朝の出来事のような気がします。
以前、「その人の死によって何かを学ぶことが、生きている人の死んだ人への最低限の礼儀ではないでしょうか」という言葉を聞いたことがあります。
そのとき(20年ほど前)は、それほど深く考えませんでしたが、その後、何度かその言葉を思い出さざるを得ないような状況を経験してきました。
それでは、私はこの出来事から何を学んだのでしょうか。
昨年、天津で一番大きい外国語大学の先生に、「日本の経済は大丈夫か」と聞かれ、次のように答えました。
「大丈夫です。ただし、今までとは違う経済成長を目指すことになると思います。
高度経済成長やバブルなどを経験した日本は、経済大国であることが最大の価値であるかのように思っていました。しかし、今回のことで、お金に換算できないものを無視した経済成長は、何かの要因で簡単に崩れてしまうことを学んだと思います」
「だから、これからは何が何でも経済成長、というやりかたではなく、人とのつながりや幸せに配慮した経済成長を本気で目指す人が増えると思います」と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本語科の学生の就職についての悩みを聞いていると、やはり「給与」に関する話題が一番多いです。
もちろん、現代社会に生きている人が、経済を無視して生きることはできません。
しかし、経済的なことにきちんと対応するということが、お金には変えられない価値を無視するということでしかないのであれば、いつか、何かの理由で目に見えるもの(お金・物質)が失われたときに、自分が無視してきたものの価値を思い知らされることになるだろうと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今、天津は、お金のやり取りで大学内の日本語サークルの名前も変えられてしまう、という状態になっています。
大学内の日本語サークルが、その名称までもお金に換算されてしまうという日本語教育が育てる人材は、おそらく、お金に変えられない価値を作り出すことはできないと、私は思います。
そのつけが、いつ、どのような形で回ってくるのか分かりませんが、
私は、1年前の出来事から何かを学べる人と一緒に、仕事をしていきたいと思いますし、そういう人と一緒に仕事ができるような自分を作っていきたいと思います。