【帯広市民文芸に投稿した随筆です】
松浦武四郎と明治150年
帯広 寺町 修
昨年のクリスマスの日、松浦武四郎原著による『アイヌ人物誌』という本を、友人からプレゼントされた。昨年の北海道は、松浦武四郎により命名された150年目を迎えた年で、様々なイベントがあった。
しかし、アイヌ民族にとっては、和人による搾取と収奪、植民地化された150年目とも言えるもので、アイヌの人達から見れば同化政策の是非など、重要な焦点がずらされてしまった。
アイヌ民族が文字を持たなかったこともあるが、歴史は常に“勝利者”の側から、つまり日本では和人側からみた「史実」や「正史」が記録されてきた。江戸時代以降、こうした記録以外にも多くの和人たちが蝦夷地を訪れ、そのほとんどが共通の視点を持って書かれていた。その共通の視点とは、意識しているいないに拘わらず「文明」化された和人が、「未開」のアイヌを見下すというものであった。
文明が栄えたところに必ず文字があった。その理由は、文字があれば文化が伝わりやすかったからだと思う。アイヌ民族が文字を持たなかったのはなぜだろうか、何の不自由もなく生活しており、必要なかったのではないだろうか。
さて、松浦武四郎は文化十五(1818)年、伊勢国(現在の三重県松阪市)に生まれた。そして、北方情勢の緊迫を聞きつけ、弘化二(1845)年から蝦夷地を探検し、安政二(1855)年には幕府御雇(おやとい)の御用掛となっている。明治維新後は新政府に採用され、明治二(1869)年に開拓判官となり、明治二十一(1888)年に享年七十一歳で亡くなっている。
武四郎は、「北海道国群検討図」や「東西蝦夷山川地理取調図」などの地図を書いているが、アイヌ民族の差別も「十勝日誌」などに克明に書き残している。そして、自分の雅号を「馬角斎」(ばかくさい)と付けているが、これは明治新政府がアイヌ民族に対してとった政策が、バカ臭くてやっていられないという意味であろう。
近代における人間の歴史は、国や社会の共同体を維持しつつ、如何にして自由になるかという人権獲得の歴史であったとも言えよう。その結果、人間は近代化によって「自由」というものを手に入れたが、実は人間は「自由になればなるほど不幸になるという現実にも気づかなければならない。あらゆる制約から自由になった人間は、地域社会の温かい人間関係を失い、格差拡大や自分中心主義になり孤立してしまった。その結果、過去には見られなかった無差別殺人、いじめ、幼児虐待、親・子殺しなどの事件が起こりはじめている。
真の自由とは何か、真の幸福とは何かなど、自然と人間の関わりを考え直す時期に来ているのかもしれない。十九歳の短い生涯を終えた知里幸恵は、編訳したアイヌ神謡集の序文に、次のように書いている。
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されて、のんびりと生活していた彼らは、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。(中略)
平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けていく。」
明治生まれで環境問題も知らなかった知里幸恵、この序文だけは自身の思いを日本語で語ろうとした。明治新政府によるアイヌ民族に対して行なった同化政策(「北海道旧土人保護法」など)の事実を、和人は忘れてはならないと思う。
アイヌ神謡集には、自然や先祖への畏敬、そして迫害を受けた民族としての思いが感じられる。
だから私たちは、今こそ自然破壊に対して自然や先祖を敬愛してきたアイヌ民族の精神文化を学び、「今年がアイヌ民族の復権、北海道の脱植民地化に取組みはじめた最初の年だった」と言われる年にしたい。 (完)
※ 土人:土着の人(児玉恭子著「エミシ・エゾからアイヌへ」より)。
※ 奈良時代以降の東北や北海道などには、土人しか住んでいなかったと見られる。