十勝の活性化を考える会

     
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連載:ピアソン夫妻から関寛斎へ

2019-09-20 05:00:00 | 投稿

ピアソン夫妻から関寛斎へ

過去12回にわたり、ピアソン夫妻の活躍の歴史的意義について連載してきましたが、ここで同じ時代を駆け抜けた歴史的人物「関寛斎」に焦点を移してまいります。

ピアソン夫妻と関寛斎の接点については、ほとんどの研究者が興味を示さず歴史の闇に埋もれていましたが、陸別町中学校の生徒たちの活動をきっかけに日の光の元へ掘り起こされました。

 

以下、「関寛斎顕彰会資料:斉藤省三氏編」より抜粋して掲載します。

関寛斎と聖書
 ピアソンと関寛斎交流の背景を予想はしていましたが、これまではピアソン夫妻の著書『六月の北見路』などから北見方面や十勝監獄リバイバルで黒木鯤太郎との交流を考察のみで、今回の陸別中学生のピアソン記念館の見学でピアソンが斗満で関寛斎と交流をしていたことがわかりました。

黒木家と関家
 黒木鯤太郎は明治36年(1903)1月第7代十勝分監長として就任、同年4月昇格した十勝監獄の初代典獄に就任しています。
 黒木は着任早々キリスト教を布教し十勝監獄リバイバルがすすめられ、先述のピアソン夫妻の著書『六月の北見路』で詳しく紹介されています。
 ここでは黒木家と関家の結びつきがうまれました。それは黒木鯤太郎長女美都子 (明治13年11月29日生)と関寛斎7男・又-(明治9年4月25日生)が明治39年12月17日結婚(婚姻届40/8/29本別村)しています。
その頃又一は帯広に農場事務所を置き斗満開拓と連携していました。
また長男静吉出生地は帯広町別府(監獄敷地内)で幼少時はここですごしました。

関静吉書簡 聖書発見昭和63年(1988)
 この度古い本棚を整理いたしましたところ、祖父寛斎のキリスト教に関する洋書を発見しました。
 祖父本人が自筆で訳文を記載しているのに非常に興味を深めました。時期的には黒木鯤太郎の帯広監獄における伝道と、ピアソン宣教師の動向が大きく影響があるのではないかと推察しています。

Green pastures and still Waters

 聖書 関寛斎資料館に展示
 聖書詩篇「Green pastures and still Waters」は多くの方々にご考察をいただきましたが、聖書に関連した寛斎自身の記述は「関牧場創業記事」に明治38年「創世記」を読み、後に帯広・豊頃を視察・更に「約百記」を読み牧場維持の困難を悟る。の記述もあります。
 寛斎が駅逓所の一室で聖書を読む姿を紹介しているのは、明治43年(1910)9月 網走線が陸別まで開通した翌々日斗満開拓を目指し入地した関寛をたずねた徳富蘆花が「みみずのたはこと」過去帳から「関寛翁」斗満での6日間の交流を挿入して出版しました。

明治43年(1910)9月25日。雨
 駅逓東南隅の8畳が翁の居間である。
小机一つ火の気の少ない箱火鉢一つ。床には小杉榲邨の「淡きもの味わへよとの親こころ共にしのぴて昔かたらう」と書いた幅を掛けてある。
 翁は今日も余等が寝て居る内に、山から引いた氷の様な水を浴び、香を焼いて神明に祈り、机の前に端座して老子を読んだのである。老子は翁の必読書、其れについで創世記、詩篇、約百記なぞも愛読書目の中にある。アブラハム、ヤコブなぞ遊牧族の老曾長の物語は、十勝の山中に牛馬と住む己が境涯にひきくらべて、殊に興味が深いのであろう。

 

 

本書は祖父寛斎とキリスト教との関係を知る唯一の貴重なる資料と思考される。
現在まで、この種の資料は無く、特に祖父本人が自筆で感想文を記載されたる点に非常に興味深く感じた。  

関静吉

 

§


ここに掲載した資料はごく一部であり、詳しい本編はいずれ 関寛斎顕彰会が正式に発表すると思います。

今後この物語はピアソン夫妻から関寛斎へと語り継いでまいります。

いずれも時代を切り開いた過去の偉人の業績と、その辛苦の歴史を学び未来への礎になることを祈りつつ次回「関寛斎翁」へと続きます。

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