令和2年1月18日のNHK北海道LOVEテレビで、“伊福部昭の世界”の再放送を放映していた。『伊福部昭を知っていますか?』
ゴジラのテーマ曲を作った男で、日本を代表する作曲家の一人。日本の音楽らしさを追求した民族主義的な数多くの曲を作った。
伊福部昭は大正3年、釧路で生まれて91歳で死没している。父親は初代音更村村長で、ゴジラのテーマ曲は、音更町伊福部昭記念ジュニアオーケストラでも時々演奏されている。音更町にある「音羽の森」には伊福部昭の胸像があり、たびたび行ったことのある美しい森で、ピアニスト川上敦子(横浜国大)を育てるなど後進の育成にも熱心で、62歳の時には東京音楽大学の学長にも就任している。
日本の工学士の一人である東京大学教授 伊福部達(いふくべとおる)は甥っ子で、地震の時に危険を知らせる緊急地震速報音(チャイム)は、伊福部達が作ったものである。なお、伊福部昭は数々の語録を残しており、その一部を以下のとおりである。
・「作曲家は、氏・素性で音楽を語らねばダメだ」
・「真にグローバルたらんと真にローカルであることだ」
・「自然無為が大切だ」
「十勝の活性化を考える会」会員
注) 伊福部昭
伊福部 昭は、日本を代表する作曲家の一人。ほぼ独学で作曲家となった。日本の音楽らしさを追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くのオーケストラ曲のほか、『ゴジラ』を初めとする映画音楽の作曲家として、また音楽教育者としても知られる。
1914年(大正3年)、北海道釧路町(釧路市の前身)幣舞警察官僚の伊福部利三、キワの三男としてうまれる。小学生の時、父が音更村の村長となったため、音更村に移る。同地でアイヌと接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた。代表作の一つ、『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)は、アイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという。また、この頃から父親に『老子』の素読をさせられ。
1926年(大正15年)、12歳。札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)入学。中学時代に後の音楽評論家で、生涯の親友となる三浦淳史と出会う。初めは絵画に熱中し、1年上の佐藤忠良(彫刻家)らと美術サークル「めばえ会」を結成。地元で展覧会も開いたという。その後音楽に関心を持ち、ヴァイオリンを独学で始める。さらに三浦に「音楽やるには作曲やらないと意味がない」とそそのかされ、本格的に作曲も始めた。
1932年(昭和7年)、18歳。北海道帝国大学(北海道大学の前身)農学部林学実科に入学。文武会管絃学部のコンサートマスターとなる。
【人物】
- 「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」を信条とし、「大楽必易 大礼必簡」(「すぐれた音楽は平易なもので、すぐれた礼節は簡略なものである」という意の司馬遷の言葉)を座右の銘としていた。また、伊福部家の家学は老子であり、これをはじめとして多くの中国古典に精通していた。自宅の書斎には「無為」という諸橋轍次の書があり、いつもこの書を見てから仕事を始めた。
- 政治的スタンスについては自ら明言することはなかった。2005年(平成17年)には、音楽家有志によって結成された「音楽・九条の会」の呼びかけ人として参加している。
(出典::『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)