多様性とは、国語辞典を引くと「いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと」と書かれている。いまの日本を思うと、この多様性を大切にしているように思うが、一方で、この多様性をきらう傾向もある。
例えば、「学校のいじめ」などがそうで、人と違うことや目立ったことをするといじめられたりする。三年前、「黒石よされ」で最高賞を内定していた女の子(当時13歳)が、いじめを苦に自殺したことを覚えているだろうか。娘の両親はいじめを根絶するために、この事件を公表した。そもそも世の中には同じ人間はいないので、多様な価値観がつくられる。会社に入ると、学生時代ほどの多様な人との出会いが無くなる可能性が高い。そして人は、歳をとるほどに居心地の良い人、ストレスを感じない人、価値観が似ている人との関係を深める傾向が強い。ただ居心地が良い所は安全で平和だが、新しいものは生まれにくいのも事実である。
ところで、東京オリンピック2020のコンセプトのひとつに「多様性と調和」が掲げられている。その解説として、「あらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ互いに認め合うことで、社会は進歩。」と書かれている。東京オリンピックの開会式では、世界に向けてアイヌ古式舞踏が披露される予定であるが、進歩の一歩になれば良いと思っている。
「十勝の活性化を考える会」会員
注)多様性
多様性とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。
[自然科学における多様性概念]
自然科学から出発した多様性概念には、生物多様性、種多様性、遺伝的多様性、ジオ多様性などが含まれる。
多様性の変動はロジスティックな経過をたどると想定されるため、多様性を維持するためには、多様性そのものが必要であると考えられる。また、進化論・複雑系の観点からは、「壊すのはたやすく、作り出すのは至難なものであるといえる。
また環境に適応する面からも、画一的な生物群よりも多様性を持った生物群の方が生き残りやすいと考えられる。環境に変化が起きたとき、画一的なものは適応できるかできないかの二択であるが、多様なものはどれかが適応し生き残る為の選択肢が多いからである。
上記の観点から、地球規模で進みつつあるグローバリゼーションに伴う生物種の減少は極めて憂慮すべき事態である。
[社会科学・人文学における多様性概念]
社会科学や人文学(人文科学)において、多様性が社会の変化と発展に不可欠な要素とみられることがある。たとえば、グローバリゼーションなどにより、特定の文化や地域の持つ問題解決的発想の喪失などのデメリットが憂慮されることから、文化多様性・地域多様性などの概念が用いられている。また、価値観の多様性などの概念が用いられることもある。
歴史上の現象を紐解けば、交通の発達や何等かの要因によって、様々な思想・宗教・哲学・民族・人種が入り乱れて存在した地域には、必ずと言ってよいほどの社会的な変革が発生している。国家で例を上げるなら、アメリカ合衆国やオーストラリア等の移民国家であるが、その一方でイギリス等も広域に渡った植民地から様々な人種・民族が流入してきた結果、この多様性が発生している。
しかしこれらは単純に混じれば良いかというとそうではなく、各々の民族が確固たるアイデンティティを維持しながら相互に尊重する事で、最大の変化を促す傾向が歴史上の現象に見て取れる。これは一方の民族が他方を否定し排斥するに留まった場合、文化交流による価値観や意識の改良が進まないためである。
なお国家内における民族の例をあげた訳だが、更に言及するならば、個人としての多様性が集団の経験値を総合的に高める傾向も見て取れる。同種同列の集団に在っては、個人が個人である理由が失われるが、各々がそれぞれに必要とされる社会では、個人は個人として尊重され、同時に他を尊重する。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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