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連載:関寛斎翁 その21 斗満・陸別の原野を開拓

2020-02-28 05:00:00 | 投稿

関寛斎伝・斗満・陸別の原野を開拓
苛酷な自然とのたたかい


 明治三十五年、関寛斎は古希を過ぎて七十三歳になった。この年の八月五日、寛斎はアイ夫人に見送られ、三男餘作らとともに札幌を出発し、未踏の原野と湿原とぬかるみを泥行し、辛苦の踏破で八月十日、斗満入りとなった。
「トマム」、関寛斎父子が入植開拓したこの土地は、アイヌ語で、「水多く湧き出る集まる所」の意であるが、明治三十四年七月、関又一が「斗満」の字を当てて以来、広く用いられ定着した。(「関牧場の考察」より)
一同は、小高い山すそから滾滾と清水が湧き出ている場所を生活の拠点に選び、寛斎は自らこの丘を「清龍山」と命名した。現在ここに登ると、陸別町が一望できる格好な場所で、小高い丘の一帯は「関公園」と称され、「関稲荷」が祀られている寛斎ゆかりの地となっている。
 この丘は、かってアイヌの古城・城壁のユクエビラチャシ(注1)だったことが判明。それによると、この砦は当時、約一五〇〇人ものアイヌが居住していた集落だったことがわかり、現在は「国推定重要文化財」になり、整備が進められている。
 すでに、この避り一帯は、前年から又一、片山八重蔵らによって、開拓が着手れされつつあり、文字通りのあばら家とも云うべき「茅屋」が出来ていた。

 こうして、斗満には、寛斎の到着前に、又一等によって小規模ながら牧場が造成され、片山八重蔵によって、種馬、北宝号・耕煙号・瑞祥号・札幌号の四頭を樽川農場から移動させている。合計馬五十二頭、牛七頭が飼育されていた。

朝早く目覚めた寛斎は、早速、馬匹を見に放牧場に出かけた。一見して馬匹の群れが移動して過不足のあることがわかり、小馬一頭が臀部に裂傷を負っている。
「やられた、畜生」と言う声に凝視して見ると、筋のように裂けている。「熊害(ゆうがい)だ。熊の爪にかけられたものの、逃げ出して無事だったんです」と、小馬ゆえ危険予知がまだ十分に身につかない結果の不幸である。
北海道は今でも熊害による損傷がマスコミなどで報ぜられるが、当時はまさに危険と隣合わせだったのである。
この日を始めとして。熊による被害は次々と発生する。家畜にかぎらず何時、人々に被害がふりかかってくるやもしれぬ。寛斎は一計を案じ、馬匹の被害を防ぐため、アイヌを雇い(注2)、熊一頭を捕らえれば金五円(現在の約六万六千円)宛てを賞金として与えることにした。
熊はもとより、蝦夷地は野兎、野鼠、イタチ、野狐をはじめ、その地名が冠に付く、エゾシカ・エゾリス・エゾイタチ・エゾウサギ・エゾリスが、野山を跳梁している動物天国である。

渡辺 勲 「関寛斎伝」陸別町関寛斎翁顕彰会編

 

注1.ユクエビラチャシ

陸別町ホームページより

注2.熊撃ちアイヌ:「イコサックル」さんと思われる(筆者)

 

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