「十 勝 監 獄」
北海道の監獄
【時代背景】
明治維新後、改革や戊辰戦争などの変動期を経て、日本近代化のために明治新政府が推し進める改革政治に対する不満や意見の相違から、日本各地で佐賀の乱(1874年)や西南の役(1877年)などの内乱が相次ぎ、犯罪者も急増したことで「国賊」とよばれた多くの人々が国事犯・政治犯として逮捕されていった。度重なる戦乱で国民は困窮し、犯罪を犯す者が後を絶たず、囚人数は1885年(明治18年)には過去最高の8万9千人まで膨れ上がった。日本国内にある集治監だけでは収容人員を越えてしまうため、次々と新しい集治監をつくらなければ追い付かない状況のなか、1879年(明治12年)にはすでに、当時内務省の長官だった伊藤博文が囚徒流刑地として北海道への集治監設置を説いていた。伊藤博文の側近であった太政官大書記官・金子堅太郎は1885(明治18)年7月に北海道を視察した折りに「囚徒らは道徳にそむ いている悪党であるから、懲罰として苦役させれば工事が安く上がり、たとえ死んでも監獄費の節約になり、一挙両得である」と復命している。
北海道開発のために道路工事の作業員として囚徒を使えば費用が安く上がるという理由から、膨れ上がる囚人の収容所問題の解決とあわせて徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監(現在の刑務所にあたる)を北海道の地に求めた。内務省の発案で、1881年(明治14年)に、石狩国樺戸郡須倍都太(すべつぶと、現:月形町)に樺戸集治監が北海道に置かれたのを皮切りに、翌1882年(明治15年)には同国空知郡市来知(いちきしり、現:三笠市)に空知集治監、1885年(明治18年)には釧路国川上郡熊牛村(現:標茶町)に釧路集治監が開庁し、全国6集治監のうち3カ所が北海道に開設される。さらに1890年(明治23年)釧路集治監の分監として網走に網走囚徒外役所(のちに網走分監と改称)が置かれ、その後、下帯広にも釧路分監帯広外役所(のちに十勝分監と改称)が置かれるなど、北海道の各地に次々と集治監が作られていった。北海道に集治監が置かれた目的は、女囚が送られなかった点を含めて、労役にあったことが明らかであったといわれている。
明治25年10月、樺戸集冶監の第三代典獄大井上輝前は、釧路分監長の八田哉明らを率いて帯広を視寮、農業監獄として十勝分監を設置することを決定した。帯広に監獄を設置する動きは早くからあったが、大津の海岸は遠浅であり艦船の接岸ができない、大津から帯広にいたる道がないことなどから後回しになっていた。
分監の位置選定に先立って、すでにその春4月、釧路分監から看守長2名、看守70名、囚人700名を次々に動員し、大津・芽室間68Km余の道路開削が始められ明治26年5月に竣工した。当時、大津から帯広に至るには、僅かに馬が通れる仮道が開かれていたのみで、まだ多くは十勝川の丸木舟に頼っていた。
【十勝監獄】
十勝分監は、明治36年集治監制の改正と共に独立して十勝監獄となった。監房は第一監、第二監、の二つがともに十字型に四棟、それぞれ甲、乙、丙、丁と名付けられていた。拘禁された囚人は.重罪犯が多く41年の統計では在監1,097人の内1,008人までが殺人か強盗、もしくは放火によるものであった。さらに、囚人の二割までが凍傷に罹っており、本州から移送された老齢者も多く、懲罰の取り扱いも厳しかったので獄死者が続出し、明治25年から大正3年までの死亡囚は380人、明治38年に至っては48名が死亡しており、これは在監者の6.4%という高率である。(帯広刑務所小史)
※囚人役務は農場作業が中心でしたが、工場の配置図から多様な作業が行われていたことがわかります。
「資料提供:後藤秀彦先生(十勝管内博物館学芸職員等協議会顧問)」
【典獄:黒木鯤太郎】
ピアソン夫妻と坂本直寛の十勝監獄での働き
明冶四十年から数年間、直寛とピアソン夫妻は十勝監獄の黒木鯤太郎典獄の懇請をうけて囚人伝道に尽力した。
その当時の監獄(刑務所)は本州方面よりの重罪を犯した者。しかも老人が多く病気になる者や死亡する者が多かったので、不穏な雰囲気に包まれていた。
直寛も東京で一年余り無実の罪で受刑のつらい生活を経験しているので遠路をいとわず、囚人達を訪ねて神の福音を語った。真心を祈りをもって語る言葉に、千名程の囚人に感動を与え、罪を侮改める者が続出した。空前絶後の霊的覚醒運動が獄内に生まれ。求道者が五百名を数えるに至った。
惜しくも黒木典獄の転出に伴い活動が中止となったが、「監獄でのリバイバル運動」として語り伝えられている。なお、黒木典獄は、刑余者の更生のために設立された現在の「帯広自営会」の初代会長となった人物である。また、黒木典獄の長女は陸別の開祖「関寛斉」の長男に嫁いでいる。「資料提供:ピアソン記念館」
【青森監獄】
明治41年9月,黒木鯤太郎が青森監獄に着任。帯広での黒木鯤太郎は監獄での静謐を保つことに業績を上げたが、新たな赴任地の青森では「人道の敵」として厳しく糾弾された。明冶42年3月3日、青森市の新聞社、東奥日報の紙上に「信者か亡者か」と題された記事が掲載された。これは赴任してきた黒木鯤太郎が囚人に対して従来なかったような過酷な取り扱いを実施したこと、さらに囚人の近親者が面会に来ても理由なく拒否してこれを許可しなかったことなどから非難の声が上がり、さらに同典獄の私行にも面白からぬ風評が起った。一、凍傷患者の実例 二、監獄衛生状態不良 三、在監者の苦役回顧談(六回連続)四、黒木典獄への質問応答記事(二回)などが掲載された。また、同年12月23日に東奥日報紙上に掲載された「獄死五十七名」と題する記事は、同年1月以降の死亡者の数と、その悲惨な状況を報道したものである。黒木典獄が赴任してきた翌年の明治42年には、獄則違反で減食処分を受けた者は四千名に激増して前年の八倍以上に達し、死亡者も前年の二倍以上に増え、その後さらに倍加した。また凍傷患者は一日に百数十名も発生し、死亡者も一日に四、五名を出したこともあったという。その後、青森監獄の囚人虐待はやや緩和されたようであるとしている。後年、山田金次郎は当時を述懐して。黒木という人は、キリスト教の信者であることを看板にしていたが、妻と別れて単身で赴任して来たり、その私行上にも目に余るものがあった。あんなに囚人を虐待し、多数の者が死んで行くのを見て何とも思わぬぱかりか、むしろそれを喜ぶかのような態度であったことは、鬼畜にも等しいもので、つま普通の人問と異なる・・・・いわゆる変態性の人であったように思われる。
「引用元:http:www.saiki.tv/~miro45/kurokikonntarou%20-tajkango.htm」
【考察】
北海道の歴史を振り返るとき、アイヌへの迫害・同化政策や囚人労働・タコ部屋労働という前近代的な奴隷的労働が「開拓」を支えたという事実を変えることはできません。十勝監獄に限らず、他の監獄でも幾多の人命が酷使され失われていきました。しかしピアソン夫妻のように外国から人道的支援を目的に来道した人たちは、このあり様を本国へ逐一伝えております。国際世論に押され国会で囚人労働に対する非難の声が上がり、外役労働は廃止されました。役務の内容も様々な職種が展開され、表面上近代的な刑務所の体裁を整えてきました。しかし実態は規律違反者への懲罰が厳しく、人権がないがしろにされていることは現代にまで続く日本の伝統かもしれません。
黒木鯤太郎の評価が十勝と青森で表裏のように食い違っていることを、地元歴史研究家と話し合いました。推測するに当時の十勝に於いては、まだ新聞報道等が充分発達しておらず獄中で起きたことは厳しく抑えられていたが、青森に於いては東奥日報の記者がスクープとして告発したことが発端となり騒ぎになった。十勝に於いても同様の厳しい懲罰が行われ、多数の死者を出していたのも厳然たる事実です。
ではクリスチャンとして洗礼を受け、人道主義を理解していたはずの黒木鯤太郎はなぜこのような厳しい懲罰を囚人たちに科していたのか。それは「戒律=律法主義」を実践していたのではないかと思われるとの結論に達しました。
囚人に対する「飴とムチ」政策により、獄内の規律を守らせていたとするなら彼らは迷わず「飴」を選ぶでしょう。典獄に迎合しなければ、囚人たちの命が危ういともいえます。
これは穿った見方かもしれませんが、そう考えた時「十勝リバイバル」とはいったい何だったのか、その核心が根底から揺らいできます。
私たちは少ない資料と、勉強不足・思慮不足であることは間違いありませんが、このことを皆様に問いたいと思います。特に宗教家・クリスチャンの方々にご意見をいただければ、たいへんありがたいと思います。
「十勝の活性化を考える会」会員K
十勝の活性化を考える会」会員募集 - 十勝の活性化を考える会
イエスさまの愛を経験している者として、分かる限りのことをお伝えしたいと
思いました。
監獄の痛ましい記事を読ませて頂きました。本当に心の痛むことです。
厳しい寒さの中での苛酷な労働は、察するに余りあります。愛深いイエスさまの
慰めを、クリスチャンが分かち合うことができなかったことに、痛みを覚えます。
しかし私は、クリスチャンとして黒木さんをどのようにも、評価することが
できませんでした。
その訳はブログに書きました。もし、お時間がありましたら拙いものですが読んで
みてくださいませ。
考える時が与えられたことを、とても感謝しております。
このお言葉を読んで、親鸞の説いた悪人正機説:歎異抄「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」を想い出しました。
他民族にあらん限りの蛮行を繰り広げた旧日本軍兵士たちは、出征前の家庭では優しいお父様お兄様だった。
浦上天主堂のマリア像に核を投下した米軍兵士も、無人偵察機で難民の頭上に爆弾を落とすオペレーターも、日曜日には教会の礼拝に行きます。
そして時間が来ると礼拝を欠かさないIS戦闘員たち。
私は黒木鯤太郎氏が意識的に悪行を行ったとは思えません。
むしろ厳格に職責と信仰を貫こうとしたのだと思っています。
はたして信仰を通して、自らの行為の贖罪と心に慰めを得ることができたのでしょうか。
クリスチャンとして、愛と規律の板挟みの中に平安があるとは
思えません。
でも、その罪のあるままイエスさまを避け所とする者を、
イエスさまが突き放すことはなさいません。彼の罪を負って
あがなってくださいます。
彼の信仰のあり方はわかりませんが・・。
おもしろうてやがてかなしき(松尾芭蕉)このろくでもない、素晴らしき世界(創世記18:20~26、ローマ8:18~25)に生きて、真摯に愛を説き続けられるムベ様のお姿に敬意を表します。
またご教示ください。