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長岡藩士“河合継之助”

2021-06-30 05:00:00 | 投稿

先日、同じ会社にいた元少女(80歳)から、長岡藩士“河合継之助”を書いた手紙が届いた。手紙には、長岡藩士“河合継之助”が7月に封切りされることなどが書かれていた。激動の幕末にあって自らの良知を貫いた男が、西の“高杉晋作”に対して、東の長岡藩士 “河井継之助”である。河合継之助については、知人(85歳)が“良知の人「河合継之助」”の本を出版していたので名前は聞いていたが、詳しくは知らなかった。

今回の手紙で、西南戦争、鳥羽伏見の戦い、会津戦争、戊辰戦争などを再び勉強する機会を持ったが、倒幕に絡んで北越戦争があったことを初めて知った。

倒幕運動とは、幕府を倒すための政治的な運動・活動のことで、江戸時代後期の幕末江戸幕府を打倒して新政権樹立を目的とした政治運動を意味し、尊皇攘夷とは、君主を尊び外敵をしりぞけようとする思想である。

1853年のペルー来航、翌年の1854年の日米和親条約締結に至り、江戸時代の初めからの鎖国をやめたのである。 日本がこの黒船来航で尊王攘夷派を含めて慌てたのは言うまでもない。NHK大河ドラマで、“晴天を衝け”を放映しているが、渋沢栄一が生きた時代が同じなので、その慌て方が良くわかる。

こうして倒幕運動は、1860年の桜田門外の変、1867年に大政奉還、1868年の明治維新、1869年の版籍奉還、1871年の廃藩置県と続くのであるが、いま、新型コロナウイルスで日本中が騒然としているが、当時も同じような状況であっただろう。

現代日本は、日本人が持っていた義理・人情を忘れ、当面の私利だけを求めて右往左往している。政治の世界を含めてうわべだけの改革を断行しようとしても上手くいかないのは、そうした義理と人情を忘れているからだろう。河合継之助や渋沢栄一の生き方を学べば、日本はまた日が昇るかもしれない。今回のコロナ禍で人間の孤立が一層深まり、他国と比べて自殺者が増えているようだが、雨降って地固まれば良いと思っている。

 

  • 河合継之助

河井 継之助は、江戸時代末期(幕末)の武士戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。

文久2年(1862年)、藩主・牧野忠恭京都所司代になると継之助も京都詰を命じられ、翌文久3年(1863年)の正月に上洛する。継之助は忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。しかし、4月下旬に欧米に対する攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。

しかしその後、慶応元年(1865年)に外様吟味役に再任されると、その3ヶ月後に郡奉行に就任する。これ以後、継之助は藩政改革に着手する。その後、町奉行兼帯、奉行格加判とどんどん出世し、その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施した。

藩士の知行を100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知することで門閥を平均化すると共に、軍制上の中央集権を目指した改革を藩主の信任の下で継之助は断行した。

慶応3年(1867年10月、徳川慶喜大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。この慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日18681月3日)に王政復古の大号令を発し、幕府などを廃止する。一方、長岡藩では藩主・忠恭は隠居して牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。

そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。

しかし、それに対する反応は何もなかった。翌慶応41月3日1月27日)、鳥羽伏見において会津藩桑名藩を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。

藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分して家宝などを全て売却。その金で、相場が暴落したを買って蝦夷地開港されていた箱館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。

こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした。

北越戊辰戦争において長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により開戦当初では、新政府軍の大軍と互角に戦った。

しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日7月8日)に長岡城を奪われた。この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模な世直し一揆が発生する。

長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して6月26日8月14日)までに全て鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による国力と作戦好機の逸失であった。

これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津戦争へと移っていく。(破傷風で病死、享年42歳)

(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

河合継之助のことを書いた元少女の手紙

 


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