十勝毎日新聞によれば、十勝への「なつぞら効果」がすごいそうである。
4月からのテレビ放映以来、十勝への観光客入込数が2万人を突破したそうである。
十勝の人口が34万人であるから、東京圏(人口:約4千万人)で考えると約150万人になる。
そのぐらいすごい数字である。
特に、鹿追町(人口:5千人、帯広から20キロ)にある山田天陽のモデルとなった「神田日勝記念館」には、3.8倍の観光客が来場したそうである。
神田日勝は、1956(昭和31)年、帯広の平原社美術協会展に初めて《痩馬》を出品し入賞する。
初期の作品《家》《ゴミ箱》《飯場の風景》などは、ベニヤにペインティング・ナイフで描くという独自の画法と、 こげ茶色モノクロームの色調から、十勝の大地に深く根ざした画家の生きざまが強く感じられる。
《馬》《牛》は、まるで本当にそこに存在しているかのように画面全体に大きくその存在感を際だたせている。 日勝は農民画家と呼ばれることを嫌い、画室、家族、男女、社会風俗と世相を色濃く反映した画題にも取り組んだ。
《室内風景》は、1970(昭和45)年、最後の完成作で、中央にうずくまり刮目する男と新聞紙で覆われた異様な室内が見る者に強烈な印象を与える。 この作品は、現代に生きることの意味を心の深奥まで響く力強さで描き代表作となった。
遺作《馬(絶筆・未完)》は、むき出しのベニヤに克明に描かれた馬の半身が、 全身全霊でキャンバスに対峙した画家の儚くも力強い生き様を物語っているかのようである。私が初めて絵に対して強烈なイメージを持ったのは、この絵が最初である。
「十勝の活性化を考える会」会員
注)神田日勝の略歴
1937年(東京都で次男として生まれる)
1945年(戦火を逃れ、拓北農兵隊として鹿追町に入植、8歳)
1960年(第15回全道美術協会展で初受賞、23歳)
1962年(高野ミサ子と結婚、25歳)
1964年(長男哲哉生まれる、27歳)
1965年(第4回独立選抜展にを出品)
1970年(腎盂炎による敗血症で死亡、享年33歳)
コメントありがとうございます。
その通りですね。
地に足の着いた街づくり、山づくり、里づくり、海づくりが大切だと思います。
事務局より
飛行機やホテルの予約しました。
ところが大阪G20で関空へ車で行けません。
行きはキャンセルして日程を減らして
十勝へ行きます。
だから今回の情報とっても参考になりました。ありがとうございます。
ようこそ十勝へ!
行程が厳しいようですが、事故の無いように気をつけて旅を満喫してください。
綺麗な写真が撮れたらブログアップしてくださいね。
十勝の魅力や改善すべきことなどもコメントしていただけるとありがたいです。
十勝には隠れた名所がいっぱいありますね。
全国の皆さんに発信してゆきたいと思いますが、広い十勝はスポット間の距離が遠いのでゆっくり・じっくり観ていただきたいです。