四年前、200キロ離れた札幌に「日本人の死生観を考える」という講演を聞きにいきました。200キロと言えば、大阪~名古屋間が約180キロだから、北海道が大きいことが分かります。行った理由は、六十一歳の時に脳出血で倒れて生死をさまよい、死というものを考える機会を持ったからです。
宗教によっても異なりますが、死生観は日本と西洋では異なっており、ここでは仏教について考えてみようと思います。人生には現生と後世があって、人生は輪廻するそうです。だから、現生で不幸だった人は、来世では幸福になれるそうです。不幸だった人は、来世ではきっと幸せになれると思いますので頑張りましょう。
また、世の中には科学ではあり得ないことが起こります。例えば、身内が死亡しそうな時、何もしないのに電灯が付いたり消えたりする時がありますが、これは霊感により近親者だけが分かるものです。
先日、仏教学者が新聞記事に、「わたしたちは、利他的であることにより全員が利益を得ることができる。それがコロナ危機の教訓の一つなのだ」と書いていましたが、身につまされる思いで読んでいました。自利とは、いったい何でしょうか。他利とは、いったい何でしょうか。
”自利利他“とは自らの悟りのために修行し努力することと、他の人の救済のために尽くすことであります。また、自らの努力により得たものを他人にも還元する、他人の為に動くことで自分も成長し、何かしらのものを得ることであるそうです。
「十勝の活性化を考える会」会員T
注)死生観
死生の語意は,文字どおり,死ぬことと生きることである。また日常用語としては,生死ということばと類似している。しかし生死は「しょうじ」とも読み,この場合はもともと仏教的な背景をもつ用語とされる。
一方で死生は,古くは『論語』などでも用いられていることばである。日本における死生観は,明治から昭和にかけて活躍した仏教学者・布教家であり,仏教・儒学などの東洋思想を土台とした修養思想の啓蒙家である加藤咄堂の著書『死生観』に,その名の由来があるとされる。
また民俗学者の柳田国男は1913年に雑誌『郷土研究』を創刊,これが日本人の死生観の研究の先駆けとなり,フィールドワーク的研究の端緒となったといわれる。
近代以前の社会では,共同体や地域社会の共通の事象として,また関心事として人間の誕生や死がとらえられており,生も死も日常生活の中から学ぶものであり,死生をめぐる文化の継承が代々の人間の営みの中で行なわれてきた。
しかし現代社会では,死や生のあり方自体が改めて問われるようになってきている。たとえば医療における延命技術の進歩があり,さらに臓器移植が法的に認められたにもかかわらず,依然として日本では欧米より臓器提供者は少ない。
このように死生観が新たに注目されるようになった背景には,現代人の生活が死生の文化から疎外され,新たな科学的知見と文化や宗教的死生観との間に齟齬が見られるようになったという現状がある。現代社会においては,価値観の多様化に伴い死生観そのものも多様化し個人化してきており,さまざまな場面で死生をめぐる自己決定を求められるようになってきている。
こうした中で自らの死生観を吟味し確立する必要性に迫られるようになったことも,今日,死生観に対する注目度が上がっている理由と考えられる。
たとえば闘病記がベストセラーになるなど,多様な死生観に接する機会を得ようとして,人びとはさまざまな宗教や文学作品に見られる死生観に関心を示している。また,遺言やエンディングノートの作成などには,中高年に限らず若い世代も興味を示すようになってきているのが近年の特徴ともいえる。
(出典:コトバンクより抜粋)
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