十勝の活性化を考える会

     
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再連載:ピアソン夫妻 その4 坂本直寛

2022-03-10 05:00:00 | 投稿

坂本直寛

 

■坂本龍馬と北海道との関係
 坂本龍馬といえば、歴史の教科書にも登場する幕末時代の人物(1835-1867年)。道内には坂本龍馬と意外な関係のある地域があります。
 土佐藩に生まれた坂本龍馬自身は、1860年代までに蝦夷地(北海道)への移住計画を立てていたとされます。土佐の人たちが蝦夷地や北方の視察をしていたため、坂本龍馬も蝦夷地開発をしようと決めます。その蝦夷地開拓を「生涯の仕事」と位置付けるほどの意気込みでした。
1864年、浪士を集めて蝦夷地移住計画は実行に移されようとしていましたが、同年の池田屋事件発生で計画は中止。1867年に暗殺されてしまい、北海道移住の夢はかないませんでした。

 

坂本龍馬

■坂本家と北見市の関係 (坂本直寛)
 坂本直寛(旧名:高松南海男)は坂本直の弟。つまり坂本龍馬の甥にあたります。坂本直寛は坂本家5代目当主です(1853-1911)。坂本龍馬の意思を継いだといえるのが彼でした。
青年期を迎えた直寛は、高知でも屈指の自由民権派の私設学校「立志学舎」に進み、欧米の学問を学びます。土佐は江戸時代から他藩に比べ身分制度が厳しく確立しており、その差別意識は尋常ではありませんでした。同じ武士階級でも上士と郷士に分けられその待遇は天と地の違いがありました。そのため土佐は、維新後どこよりも自由民権運動が盛んとなったのです。
直寛は学校で「自由とは上流階級だけのためにあらず。私たち民衆のためにあるのだ」という哲学思想と「神のもとでは、全ての民が平等である」というキリストの教えを学び、深く傾倒します。それは彼が求めていた理想でした。
板垣退助らが結成した立志社跡の碑。直寛が学んだ立志学舎は立志社が開設した教育機関でした。

板垣退助


 県会議員として活躍するも立志学舎きっての精鋭と言われた直寛は、地元新聞への執筆や、国会設立の遊説など精力的に自由民権運動に身を投じ、板垣退助に随行しては全国へも赴きました。32歳にして高知県会議員に初当選を果たしますが、歯に衣着せぬ鋭い舌鋒で、周囲から疎ましく思われていきます。
あいまいさを許さない直寛の性格が、相手をとことん追いつめてしまい、そんな彼を政治家や上級役人たちはやっと手にした自分たちの地位や権力が奪われてしまうのではないかと恐れるようになり、ついに議員の資格を剥奪し投獄しました。
出獄後、直寛は、榎本武揚によるメキシコ移住計画を風の便りで知り、自分もその計画に参加しようと考えます。ちょうどその頃、同じく土佐の政治家で、キリスト教を信奉する武市安哉(たけち あんさい)が、高知に見切りをつけて北海道・浦臼へ移住すると聞きました。


■北見市北光社
 1895年に坂本直寛が中心となって、高知県であの有名な移民団「北光社(ほっこうしゃ)」を設立。1897年5月に家族など約100戸を従えて北見クンネップ原野へ到着、開拓が始まりました。
現在その名残が、「北光社農場本部跡」「坂本直寛顕彰碑」などに残されています。今はなくなってしまいましたが、ふるさと銀河線の北光社駅はその移民団の名前から付けられたものです。北光社は北見市の発展に大きく寄与しました。

 

 北光社 北見観光協会

■坂本家と浦臼の関係 (坂本直寛・坂本直衛)
 1893年、高知県から武市安哉らが浦臼町札的(さってき)に入植し聖園農場を創設しました。そんな浦臼の地に坂本直寛がやってきたのは北見入植の前の1896年。北見開拓の協力を求めて同じ高知県を故郷とする聖園農場の人々のところへ立ち寄りました。
1897年に北見に到着した北光社の中心人物だった坂本直寛は、北見の農場開拓主導を1年ほどで切り上げて、妻と4人の子供を連れて浦臼聖園農場に再びやってきて農場を継承しました。
しかし村人たちとの様々な軋轢があり、断絶してしまいます。


■ピアソン夫妻との出会い
 世間から孤立して一年あまり。直寛はその見識の高さと信仰心の篤さを本州からのキリスト教伝道師によって見いだされ、札幌でのキリスト教教師に推薦されたのです。自信を失っていた彼にとって、願ってもない再出発でした。更には、その堂々たる指導ぶりに、いちキリスト教信者から、日本キリスト教会の正式な伝道師として任命され、旭川に赴任。明治35年、50歳となった直寛は、ここでアメリカ人宣教師ピアソン夫妻と運命の出会いをします。
「直寛さん。あなたに民は何を求めているのですか?献身への見返りですか?あなたの信ずるイエス・キリストは、民衆に見返りを求めてはいないはずです」
どこか心に陰を持つ直寛に、ピアソン夫人は穏やかな言葉で語りかけ、本当の宗教者としての心を諭したのです。
「私は何て傲慢だったのだろう。正しさだけを振りかざし、人々を傷つけていることに気づかなかった。どう思われるかではなく、どう思いやるかだけだったのだ・・・」
直寛の心を覆っていた暗雲が消え、晴れ晴れとした思いだけが残りました。それからというもの、彼はピアソン夫妻の活動を積極的に支援し、自らも傷ついた人々の為に日夜歩きました。不安の中、日露戦争に赴く多くの若い兵士を訪ねては、夜を徹して神の教えを説きました。また、かつて投獄された我が身を振り返り、ピアソン夫人と共に、幾度となく十勝監獄へと赴いては、心すさんだ受刑者たちを立ち直らせる努力を続けたのです。
「直寛様、わしはこの手で人を殺めた極悪人です。もう地獄に堕ちるほかないんです。神様は、こんなわしでも助けてくださるんじゃろか」
「安心なさい。神はあなたではなく、犯した罪を憎んでいるのです。悔い改める心さえあれば、みんな救ってくださいます。この私がそうであったように・・・」
慈悲深く、温もりある直寛の言葉に心打たれ、監獄にいる屈強な囚人たちが半分以上も改心し、直寛が訪れることを心待ちにするようになったのです。


ピアソン夫妻

■札幌の地に眠る直寛
その後、坂本直寛は北海道においてその人生をすべて布教のため、人々のために捧げます。そして明治44年、9月6日、札幌病院において胃ガンのため天国に召されました。享年58歳。

 ■坂本家と十勝の関係 (坂本直行)

 坂本龍馬の養嗣子坂本直寛の孫は山岳画家の坂本直行(1906-1982)。通称「ちょっこう」とも読みます。釧路で生まれた坂本家8代目当主。北大農学部入学後、1936年から十勝管内広尾町に入植・生活し、十勝の大自然を描いてきました。1965年から札幌市に住みました。十勝管内中札内村に「坂本直行記念館」があります。帯広銘菓「六花亭」の包装紙のイラストは、実は坂本直行の作品です。

坂本直行

 

 

 六花亭 包装紙

 

 出典:北海道ファンマガジン

   「第五集 ほっかいどう百年物語」中西出版

「十勝の活性化を考える会」会員K

 

 
 
 
 

 

 



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4 コメント

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コメントありがとうございました (会員K)
2019-07-13 10:53:24
青葉太郎様
ありがとうございます。
六花亭にいらしたのですね。
”なつぞら”の女将のように十勝の女性は働き者です。(^。^)
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コメントありがとうございました (会員K)
2019-07-13 10:49:14
ムベ様
いつもありがとうございます。
人は誰もが「役割」を持って生まれてきたし、それぞれが主人公のドラマでその役割を果たしているのかな、と思います。
北海道に注目していただき、ありがとうございます。まだまだ物語は続きます。
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貴重なお話、ありがとうございました。 (青葉太郎)
2019-07-12 20:08:38
楽しく読ませていただきました。
帯広の六花亭ではビーフシチューをいただきました。エプロン姿の中高年の女性がかいがいしく働いていたのが印象的でした。
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北海道をなんだか身近に感じるようになりました (ムベ)
2019-07-12 17:46:10
「私は何て傲慢だったのだろう。正しさだけを振りかざし、人々を傷つけていることに気づかなかった。」

このような反省を心の中で繰り返しつつ、イエスさまにそんな自分を託して、みことばを真っ直ぐに語るのが、クリスチャンだと思っていますが、

実際に愛の人に変えられた方は、大きな役割を果たされることを、実際に教えていただきました。
神様は導きのために人を遣わして、事を完成させてくださること知って望みをたまわりました。御名をあがめます。

壮大なストーリィを、分かり易く書いてくださってありがとうございます。とても興味深く読ませていただきました。

お土産にいただいた馴染みのある包装紙でした。坂本龍馬の血を引く「ちょこう」さんは、こんなにかわいいイラストを書かれる方なのですね。ちょっと目からウロコです。
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