君死にたもうことなかれ
旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて
ああおとうとよ、君を泣く、君死にたもうことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたもうことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。
君死にたもうことなかれ、
すめらみことは、戦いに
おおみずからは出でまさね。
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のはまれとは、
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん。
ああおとうとよ、戦いに
君死にたもうことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安(やす)しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪はまさりぬる。
暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思えるや、
十月も添わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ、
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき、
君死にたもうことなかれ。
与謝野晶子著者(プロフィール)
1878年~1942年(昭和17年)
1900年(明治33年)与謝野寛(号鉄幹)が創立した
新詩社機関紙「明星」に短歌を発表。
『明星』に作品を投稿するようになっていた晶子は、大阪で寛と会って彼の行動に強く共鳴するようになった。
大正時代には、彼女は社会評論を多く執筆するようになり、
大正デモクラシー陣営の一翼を担いました。
国家による母性保護を主張する平塚らいてうと、
全て の女性が経済的に独立する女権主義を提唱する
晶子の間で行われた母性保護論争は、この時期において白眉のものであり、
現在においても重要な意義を有しています。
「君死にたもうことなかれ」日露戦争が始まった戦意高揚の時代に「弟よ、戦争で死なないで…」身を案じて詠んだものですが、
当時女性が公然と、文学的側面から反戦を表明するのは珍しく、そのため国賊的批判をうけた。
彼女は誠の心を詠んだだけであると主張し、一歩も退きませんでした。
記事の保存元: artemisdreaming.tumblr.com
「十勝の活性化を考える会」会員C
写真提供:「十勝の活性化を考える会」会員 S
穏やかで前向きな方達の集まり応援しています。
国内では、小豆島で少し栽培しているようです。二十四の瞳で知られる小豆島には、遊びで1回、行きました。