風の高原
四国カルストは高知県、愛媛県境1000mから1500m付近に広がる高原状のカルスト台地だ。
松山市内からだと2時間くらいと、石鎚方面への所要時間とほとんど変わらない。
どちらかと云うと夏のカルストは、リゾート地としての印象が強く、あまり近づきたくない場所だった。
それに高知方面へ抜ける国道が最近、自動車専用道や長いトンネルを抜いたので、余計にアクセスが容易になった。
(それと併設する三桁国道もトンネルと道路の拡幅工事が進行し、カルストへの所要時間が短縮された)
普段近づかない場所へどうして行ったかというと、ホッホさんや津守夫妻を夏の野外散策へ案内するためだった。
しばらく行っていないので案内役としては、些か心許(こころもと)ない。
ちょっと事前調査へ。
確かに以前と比べると格段に早く辿り着ける。
それに連日うだるような暑さの市街地と較べ、5℃は違う。
吹く風がさらりと乾いて心地いい。
あの平地の粘りつくような温風とは、まったく異質。
これが高原を渡る風、天然のクーラー。
もうひとつ、カルストのランドマークとなった風車群が、すっかり風景に馴染んで見える。
当初は違和感を覚えていたこの銀色の尖塔群が、高原の夏空に映える。
そのランド・スケープを美しいとさえ思う。
これも昨年のフクシマの惨事を体験したからだろう。
草原を渡る風に吹かれ、すっかり気分は晴ればれ。
正午を過ぎると、どんどん車が増えてくる。
子供たちが「こんにちは」と元気よく駆けて行く。夏休みだものね。
高原散策の次は、ひんやり緑の木蔭が、さらに暑さを和らげてくれる夏緑樹の森へ。
牧草地をぐるっと廻り下ると、欅平入口。
眩しい陽光から木蔭がつくる夏の闇、緑陰へ。
眼が突然の落差に露光調整が間に合わず、視界が一瞬真っ暗。
木蔭が醸し出す涼感は、なんて心地好いのだろう。
人工的な冷気では決して体感できない。五感が、するりと緑の冷気に染まってゆく。
森の終点は、見上げる大きな巨きな栃の巨樹でした。
カルストのマザーツリーは、欅平の大栃ですね。
この場所は癒される。
残念、ホッホさん津守夫妻との高原散策は延期となりました。
津守くんミカさん、ここは本当に気持ちが癒される。
是非御嬢さんと一緒に夏休みの思い出に。
misaのHomeGrandへようこそです(笑)
ただこの冬は積雪が少なく春もこの夏も行けそうになく
秋には再訪の予定です
暗い内から家を出て夜明け前には草原のポイントで三脚を立てます。運が良ければ見事な雲海にも遭遇するのです
☂上がりのセラピーロードは本当に心癒やされる
時計が10時近くなると車や人の流れで空気が変わり始めます
撮影を辞めてどこか涼しい木陰でお昼寝Timeです
やっぱり早朝の朝露を含んだ夏の高原の空気感…う~ん気持ちがそそられます(笑)
さて、これで石鎚の森へと気持ちが向いてくれると好いのですが?
どうしても震災からこっち、以前と同じように何もなかったかのように風景と向き合うことが出来ません。
この夏二度の東北への旅は、そんな止むに已まれぬ思いの発露でした。
そしてまた養老孟司の本からもヒントをもらいました。
おそらく以前とは違った視点で風景と向き合えると思います。
今回のカルストの写真も、その一部だと思ってください。
それは星野道夫や今森光彦たちの眼に映ったものと同じかもしれない?
もっと大きな時間軸で風景や自然の営みを見つめてゆきたい。
特に白簱史朗が主張するような山のピークを作画した気象現象をメインとした狭義の写真には違和感が強い。
あれは人の眼から視た高山の気象現象に過ぎない。
それだけで「山岳風景」を表現できると考えるのは、あまりにも的外れであり、人間の驕りだと思う。
山は、もっと大きな自然の営みや生命現象が溢れている。
山岳宗教が、そういった生命の連鎖を含めて宇宙の曼荼羅絵図を教義としたの較べて、あまりにも視点が狭量過ぎる。
はっきり言ってに白簱史朗はクソだ。
厳冬期の人や生き物を寄せ付けない山岳風景は壮絶だと思う。
でも、それが全てではない。
往々にして山岳写真というメインストリームでは、生命現象をネイチャーといってバカにする。
何処で、そんな驕りと勘違いへとすり替わって行ったのだろう?
あれは山の気象写真に過ぎない。
尖塔群、違和感がありましたが、今では普通に見ることができるし、最新技術の感もします。
山岳写真と言うより、自然の切り取りだと思っています。
森を切り取ることができる素晴らしい写真技術です。
道案内とか? 山はもう空きの風情ですね。
行って見たいなあとただ今は考えるのみ・・・
今回は水中撮影がメインなので余計な機材が多く、御来光の滝まで繋ぐルートは次回に(苦笑)
それにしても涼しい。
渓流沿いの木蔭で気温23℃。
ほとんど水の中に半身浸かっていたので寒いくらい。
街の酷暑を思えば、なんとも贅沢な場所でしょうね。
唯一の欠点は、虻(あぶ)が多くて、撮影に集中しているとアチラコチラを攻撃されて痛い痒い(泣)
山岳写真のことは、三浦さんが書き込んでくれたので、そちらに書かせてもらいます。
あっ今、ツクツクボウシが鳴き出しました。
暑い暑いといっても、来週はもう立秋ですものね。
あの劇的に風景が変化する神がかりな時間を否定しているわけではないのです。
一度でも、あの風景を目の当りにすると自家中毒になり、何度でも通い続けるハメになってしまう。
三浦さんや福島さんたちが私たちの前に見せてくれた石鎚の神々しい時間は、それだけで尊いと思う。
でも、それは山の一面でしかありません。
山を含めた自然環境は、もっと大きな連鎖の中にあるはずです。
それをピークだけ切り取って「ほら、これが山岳写真です」と云われても納得しようがない。
やっぱり、あれは「山の気象写真」なのです。
特に昨年の未曽有の自然の猛威と人によるカタストロフィーを、目の当りにしてからは、その感がいっそう強まっています。
霊峰石鎚を表現するのなら、尚更のこと生命の連鎖に目を向けたいと思います。
如何でしょうか?
風景写真を撮る方はほとんどが気象写真を撮影されています。太陽があり、月があり、雪が降り、雨が降りそれぞれの変化を撮影して珍しい写真だと満足されるのではないでしょうか。
この景色の中に自分の感情なり、心なりが表現できればすばらしいと心がけて撮影していますいます。これはかなり難しいことで、みなさんそう思っていてもなかなか表現できるものではありません。ただなんとなく人様が撮った写真に近かったり、少しでも良かったらよしとしているのではないでしょうか。
石鎚で命の連鎖を表現した写真は極めて少なく表現できていないのが正直なところではないでしょうか。そういった意味では、土居さんなどお若い方が斬新な切込みができるものと思います。
がんばってください。
山の気象写真
個性を出したいが飯を食うためには万人向きの写真を出さざるを得ない。というのが実情ではないでしょうか。写真家ではありませんがこれが俳句だとこじき同然で歌を詠み自己を主張された方が居ましたが立派だったと思います。
年をとるということは恐ろしいことで、今までの殻から脱皮できないのです。ですから同じようなものをこれで良しとして発表してしまうのです。この殻を破るために悶々としているのです。
続きは又にします。
自然とは「神」そのもの
見える自然→山の気象写真
見えない自然→山岳宗教
「見える自然」と「見えない自然」は表裏一体
その時の心のあり方次第