Landscape diary ランスケ・ ダイアリー

ランドスケープ ・ダイアリー。
山の風景、野の風景、街の風景そして心象風景…
視線の先にあるの風景の記憶を綴ります。

物乞う仏陀 / 石井光太

2013-04-19 | 

 

物乞いは職業である。

生存の糧を失ったボーダーラインぎりぎりで生きる人々にとって選択肢はない。

「自助努力が足りない」などという戯言は、なんの意味もなさない。

世界を覆う貧困を私たちは見ていないのだと実感した。

 

例えば、世界で一日1ドル以下で生活する人は12億人(全人口の約5人に一人)

2ドル以下で生活する人は30億人(全人口の約二人に一人)

飢餓状態にあるか、不安定な食糧供給に依存している人は8億4千万人(約8人に一人)

 

カンボジア、ラオス、タイ、ベトナム、ミャンマー、スリランカ、ネパール、インドと

石井光太の歩いたアジアの饐えた腐臭の漂う路地を彷徨った。

そういえば「津波の墓標」においても、被災地に漂っていた汚泥や塵芥の混じった異臭を

著者はルポタージュを貫く主旋律のように語っていた。

視覚情報以上に、この臭いの記憶は鮮烈に作用する。

 

ストリートチルドレンの実態は、前作「神の棄てた裸体」同様だ。

暴力と搾取は、もっとも弱いところへ集中する。

カトマンズとムンバイの虫けら以下の子供たちの姿は、ちょっと正視に耐えない。

インドの貧困をリアルに描いたアカデミー賞受賞作「スラムドッグ・ミリオネア」など実は可愛いものだ。

といってしまいそうな現実が、ここにもある。

 

それでも、ぎりぎりの貧困のなかで日常を営む当人たちは、意外と脳天気だ。

亜熱帯の気候風土では、本来おだやかに人は生きてきたのだ。

アンコールワットの物乞いもネパールの呪術師もミャンマーの椰子酒売りも

著者との酒盛りの果てに猥談に終始する。

そしてストリートチルドレンも「遊んでよ」と足下や腕にぶら下がり、身体にまとわりつき、

年端も行かない子供たちは愛を乞い続ける。

 

仏教国には「喜捨」という伝統がある。

施しをすることで徳を重ねるという仏の教えは、一方で、

障害の度合いが大きいほど、施しの値が大きくなるという一面もあるようだ。

貧困の両極のもう一方は、障害者という問題だ。

これは戦争による障害(地雷によるものや化学兵器散布も含め)と

医療の行き届かない土地ゆえの生来の障害がある。

石井光太は、かなり熱心に、この障害者の実態を追い続けている。

ひとつ印象的だったのがハンセン病を患った人々の記録だ。

ハンセン病は、その外観ゆえに忌み嫌われ共同体であるべき村を追われ、

慈悲を施すべく仏教寺院からも門を閉ざされたようだ。

そして生前の業(カルマ)によるものだと「喜捨」の対象からも外された。

文中で著者は、我が国におけるハンセン病と四国遍路の関わりについて言及する。

四国遍路はハンセン病も含めて不治の業病を患った人々の最後の救済の場だった。

これらの人知れず巡礼者が辿った裏遍路ともいえる道や通夜堂もあったようだ。

それについては民俗学者、宮本常一も「忘れられた日本人」の中で、石鎚周辺の山中で巡礼者の老婆と出会ったと記している。

ちょっと気になったのでネット検索をかけてみた。

四国遍路のあゆみ(生涯学習センター)

 

 

石井光太の本から、もうひとつの四国遍路の姿(難民救済の辺地)が見えてきた。

足が癒えたら、またひとつ課題が浮かび上がったようだ。

(上記の画像は、リハビリのための近所の散歩道)

やれやれ…

 

物乞う仏陀 (文春文庫)
石井 光太
文藝春秋

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 色彩を持たない多崎つくると... | トップ | 家で親を看取る、その時あなたは »

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事