ここ数日、梅雨が明けたかのような夏の陽射しが照りつける。
窓外に広がる青い空と白い積乱雲が発達する、心を焦がすような夏の風景を尻目に
ひたすら一冊の本を読み耽った。
先に観た映画以上にジョン・クラカワーの原作は、ディテールに拘りアラスカの原野に死んだ青年の2年間の軌跡をなぞってゆく。
各章の冒頭に添えられた断章(引用文)も、それぞれに印象的だ。
私自身も付箋や鉛筆による傍線が、どんどん増えてゆく。
決して普段は、本にこんな野蛮なマネをしないのに制禦がきかない。
たぶんそれだけ、この本にのめり込んでしまっているのだろう。
東北の山旅から帰ってから観た映画「Into the Wild 」に熱病のように入れ込んでいる。
さかんにコメント欄においても、この映画を引用して語り続ける。
「なぜ?これほど」、正直戸惑っている。
同時にもう一本、「ハリーとトント」も借りて観ている。
ポール・マザースキー監督作品らしいインテリジェンスなのロードムーヴィ。
こちらは老いた主人公が愛猫トントと共に大陸を西へと旅する心温まる内容(東京物語みたい)
昔、愛した女性が身を寄せる養護施設を訪ねるシーン、
主人公を捨ててイサドラ・ダンカンと共にパリへ旅立しまったという恋人と、静かにダンスを踊る長回しが心に沁みる。
むしろ年齢的には、穏やかなこちらの旅に共感を寄せる方が自然なのに。
なんで今更、青臭い熱病のような旅に強く惹かれるのだろう?
さて、また原作の「荒野へ」に戻ろう。
この本は出版当時から話題になっていた。
私も本屋の店頭で何度か手に取り気になっては、いた。
でも当時、アラスカにおける原初の風景を撮り続けていた写真家、星野道夫に傾倒していた私にとって
この青年の姿は、あまりにも些細な存在に見えてしまった。
それでも何故か、ずっと心の片隅に刻まれて引き摺っていたようなのだ。不思議だ。
旅から帰って、ショーン・ペンが10年間温め続けた後、制作、脚本、監督の全てを手掛けたという映画を観て、完全に打ちのめされた。
そう何度もいうが、年甲斐もなく情緒が不安定になるくらい魂を揺さぶられた。
あの時、惹かれながら無視し意識の昏い底へ仕舞い込んだ部分が、時を隔てて薄い皮膜を剥がし白日の下に曝け出された。
それは、かなり痛みを伴う記憶のリプレーだったかもしれない。
コメント欄にも書きましたが、1992年にアラスカで起こった実話に基づく本作の内容を、ざっと紹介しましょう。
ワシントンDC郊外の裕福な家庭で育った青年が、大学卒業後、間もなく失踪してしまう。
2年間の行方不明のままアラスカの原野で餓死し腐乱死体として地元のハンターに発見された。
青年の父はNASAの追跡レーダーシステムを開発した有能な技術者であり、青年もハーバードロースクールへの進学を約束された優秀な学生だった。
まるで絵に描いたようなエリート一家のセンセーショナルな事件に全米のメディアは注目し、
次第に事件の真相が明らかになると、何の準備もなく原野に踏み込み餓死した青年の無謀で身勝手な行動に痛烈な誹謗と中傷が集中した。
とりわけ現地のアラスカで暮らす人たちからの非難の声は痛烈だった。
その事件をエベレスト大量遭難死を迫真のドキュメントで描いた「空へ」の著者で自らも登山家であるジョン・クラカワーが丹念な取材で綴ったのが本作「荒野へ」。
正直云って先に映画を観ておいた方が良かったと思う。
原作、映画共に、客観的事実を積み上げて丹念に描いてはいるが視覚的な印象が先行する映画の方が、どうしても感傷に流されやすい。
活字を追うことで青年、クリス・J・マッカドレスの長い旅の軌跡を辿る本を読み続ける時間は、より冷静で在れたと思う。
さて、やっと本題です。
青年クリス・J・マッカドレスは本を愛し、とりわけ「森の生活」のソロー、「野生の呼び声」のジャック・ロンドンそしてロシアの文豪、トルストイを愛し何度も引用する。
映画や原作でも引用される以下の文章に、彼の旅へと駆り立てられる真っ直ぐな心情がストレートに表れていると思う。
≫自由とその素朴な美しさは、無視するにはあまりに美しすぎる≪
彼の旅は、あまりに無防備かもしれない。
でもその己の心の軌跡に向けた真正直さ。
清廉で高潔な精神は眩しいくらい清々しい。
その分、融通がきかない頑固さが色んな意味で禍する。
う~ん、私は彼のように優秀でもエリートでもないが、その融通のきかなさや青臭さは何時まで経っても治らない。
安全の梯子をあえて外したような無防備な旅のスタイルを好むのも相変わらずだ(笑)
そしてクラカワーは取材を重ねる中で、クリス・J・マッカドレス同様に荒野へと無垢の旅を求めた先人たちの記録を羅列する。
孤高の山歩きを愛したシエラ・クラブのジョン・ミュアや処女地アラスカの原野へと分け入った冒険家たち。
その旅へ駆り立てる心情の根底にクリス・J・マッカドレスと同根のものを見い出す。
とりわけ今ある場所を捨てて常に未知なる場所へと漕ぎ出すアイルランド人修道士たちの記述が秀逸。
≫19世紀に入って一握りのノルウェイ人たちが最初にアイスランドの海岸に現れ、修道士たちは住民が多くなり過ぎたと考えた。
まだ人はほとんどいなかったにもかかわらず修道士たちはカラッハに乗り込んで、グリーンランドへ向けて漕ぎ出した。
彼らはただひたすら精神的な飢えと、現代の想像力ではとても思いおよばない奇妙で強烈な憧れに駆り立てられて、
荒れた嵐の海に乗り出してゆき、既知の世界の果てを越えて、さらに西を目指した。
こういう修道士たちがいたのである。その勇気と向こう見ずな天真爛漫さと、やむにやまれぬ欲求に人は感動させられる≪
またアラスカの原野で餓死したと云われるクリスの死因についても、クラカワーは丹念に事実を拾って推理してゆく。
そして世間に広報されていた現地に生える食用植物と非常によく似た毒性の高い植物を
誤って食したためとされる死因を見事に覆してゆく。
その過程は一級のミステリィを読み解くようにスリリングだ。
もちろん科学的根拠の裏付けも現地の研究者から得ている。
≫ジョン・ミュアやソローたちと違い、マッカドレスは荒野に入っていったのは主として自然や世界についてじっくり考えるためだった。
といより、自分自身の魂の内部への探検でもあった。すぐに気付いたことがある。
それは荒野に長い間滞在していれば当然、人の注意は内部と同様、外部にも向けられることである。
土地とそこに存在するものに対する緻密な理解と感情的な強い絆を同時に広げていかなければ、
その土地が与えてくれるものを食べて生きてゆくことはできないのだ。≪
またアラスカの有能なハンターは、こう語っている。
≫土地が与えてくれるものだけを食べて生きてゆくなんて、なかなかできることじゃない。
マッカドレスを無資格者呼ばわりしている連中のなかで、同じような経験をした者が例えごく少数いたとして、せいぜい一週間か二週間程度だろう。
長期に渡って内陸部の森で暮らし、猟や採取したものだけで生きてゆくことが、実際どれだけ難しいことか、ほとんどの人々は判っていない。
マッカドレスは、あらかたそれを上手くやってのけたんだ。≪
こういう証言を拾いながらクラカワーは、クリスに浴びせられた誹謗や中傷を、ひとつひとつ丹念に洗い出してゆく。
それはジョン・クラカワーの登山家(クライマー)としての自身の過去の蹉跌を生々しく炙り出しても尚。
こういう丹念な記述は映画では描き得なかった部分だろう。
そしてまた最終章で語られる、クリス・J・マッカドレスの死を描く部分が胸に迫る。
≫百日だ、やったぞ。 しかし体調は最悪だ。死が重大な脅威となって不気味に迫ってきている。
衰弱が激しくて出歩くことができない。文字通り荒野の罠に捕らえられてしまったのだ。獲物なし≪
餓死は楽な死に方ではない。
肉体が肉体そのものを消費し始める飢餓の進んだ段階では、犠牲者は筋肉痛、心臓障害、抜け毛、めまい、息切れ、寒冷過敏、
精神的消耗に苦しめられる。肌は血の気がなくなる。必須栄養素の不足で深刻な化学的アンバランスが脳内で進行し、
痙攣と幻覚を引き起こす。もっとも餓死寸前までいって生還した何人かの報告によれば、
死に近づくと、ひもじさは消え、恐ろしい苦痛はやわらぎ、苦しみは至福感、異常に澄み切った心境をともなう落ち着き払った意識に取ってかわられる。
クリス・J・マッカドレスの最後の言葉とされる走り書きが残されている。
≫ぼくの一生は幸せだった。ありがとう。さようなら。皆さんに神の御加護がありますように。≪
荒野に分け入ってから百十二日後のことである。
エピローグにおいてクリスの死後10カ月が経過し、やっと意を決して息子の終焉の地を訪れる両親の姿は、
感情を排して淡々と語られながらも、込み上げてくる慟哭を抑えることができない。
最後に映画でクリスを演じたエミール・ハーシュの姿が亡きリバー・フェニックスの面影にダブってしまうのはなぜ?
荒野へ (集英社文庫) | |
佐宗 鈴夫 | |
集英社 |
確かに世界には、生存のぎりぎりの劣悪な環境で日々を送る人たちが多数いる。
そんなニュースばかりを追うダークサイト専門のチャンネルもある。
それでは人類は氷河期が緩んだ1万数千年前から、広大な世界に向けて、その足で歩み始めた過程で、
みんな、その劣悪な環境のなかで憎しみを誇大させ呪い続けていたのか?
違うと思う。
どんな劣悪な環境においても高潔な精神を持ち、未知の世界を目指し、真っ直ぐに生きる人は存在すると思う。
そんな破天荒な精神が、アフリカから南米大陸先端までの気の遠くなるような長い歩みを可能にした筈。
溢れる悪意に満ちた情報に惑わされず、そんな精神の高潔さを、決して忘れずにいたい。