隣で戦争が行われていたって、横で殺人が起こっていたって、
私たちは淡々と日常生活を営んでゆけるんだ。
人の精神のバランス感覚は、本当に凄いと思う。
災害時の脳の働きとして「正常性バイアス」のことは知っていたが、
今回のあってはならないことが実際に起こってしまったことに対する人の反応で、
そのバイアスの掛かり方を目の当たりにした思いだ。
本当に人の精神のタフさには、感嘆する数日間だった。
その点私は、まるでダメだ。
その事態にオロオロと足元が崩れてゆくような不安感に居て立ってもいられない。
ひたすら何が起こっているのか?
情報収集に奔走する。
それで事態が好転するわけでもないのだけど。
居ても立ってもいられない小心者は、
わけもなく郊外へ自転車を走らせていた。
公園通りから植物園まで。
市街地の秋は、もう其処に。
そのため過去の事例からも、地震、洪水、火災などに直面した際、自分の身を守るために迅速に行動できる人は、“驚くほど少ない”ことが明らかになっています。
非常事態の際に「正常性バイアス」に脳を支配されないよう、本当に危険なのか、何をしたらいいかを見極める判断力を養っておきましょう。
改めて現職業も含め自分への戒めのように痛感です。
misaはよく人に「大丈夫、貴女なら乗り越えられる」と言われます。
ほんとは物凄く気弱で何かに躓いてしまうと周りが見えなくなって異常なほどの脱力感に襲われる。
連鎖反応のごとく人の死がnewsで流れる。
ランスケさん、人って何なんでしょうね
生きるって何なんでしょうね
そして、死って・・・
精神的なバリアーを張って、現実逃避する気持ちは、よく理解できるのです。
唯それが、どういうリスクなのか?という基本的な疑問から目を背けないでほしい。
その答えは、永遠に見つからないかもしれないけれど、
人が考える生き物である以上、目の前にある理解不能な状況に頭を巡らせてほしい。
そう思います。
思春期の頃から、そんな面倒な子供でした。
だから、当然のことながら友達は少なかったです(笑)
本の世界には、人が長い歴史の中で築いてきた汲んでも汲んでも掬いきれない膨大な叡智が詰まっています。
だから本を読むほどに、己の無知を思い知らされます。
ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結したように、雪崩を打って何か大きな波が押し寄せている予感がします。
確か「21世紀資本」のトマ・ピケティが、行き過ぎた格差社会を産んだグロバール世界が崩れてゆくとしたら、それはアメリカからだろう。
と予言めいた発言をしていたのを思い出しました。
グローバリズムを牽引したサッチャーの英国でEU離脱が起こり、レーガノミクスの米国でトランプ大統領が誕生したのも皮肉ですね。
これから当分は、波及的に凄い混乱が世界を覆うでしょう。
移行期的混乱と呼ばれる状況です。
注視してゆきましょう。
写真は、何か自分のスタイルを見つけたようです。
もう山へ行かなくても、光と色彩を捉えられれば何処でも大丈夫かも?
子どもたちに触れるたび思いました。
自分自身はいい加減で、なにも出来ませんでしたが、いろんな悩みを持っている子どもには「頭を空っぽに・・・」としか言いようが無かったことを思い出します。
そんな悩みを持ちながらでも、季節は移ろっていく。
素晴らしい赤、秋ですね。
簡単にいうと、自分たちで出来ることもすべて外注化してしまうことだ。と、
効率化を追い求めると、より安い人件費、より安い価格の競争です。
そんな疲弊した経済活動の先に、人としての豊かさや幸福があるとは思えません。
何処かで破綻するのは目に見えていました。
それがグローバリゼーション発生の地、アメリカから内部瓦解のように起こったのも自然発生的だったかもしれません。
日本も東日本大震災と原発事故後、多くの人が今までのシステムへの疑問を持ち大きく変わるのではないか?
と期待しました。
世界に先駆けて、エネルギー変革と持続可能な社会へと舵取りすることも可能だったのです。
ところが日本は、時計の針を逆行させる方向へ巻いてしまいました。
この国は、先行者の真似をする技術には長けていますが、自分自身が単独で先行することには臆病です。
極端な格差社会を助長するグローバリズムは、もう限界でしょう。
アメリカ大統領選の結果は欧州にも飛び火しています。
イタリアやフランスが、それに続きそうな勢いです。
世界の趨勢が変わると、空気を読むのに長けた日本も周回遅れで、やっとそれに乗れるかもしれません?
唯、この反グローバル化の波は、排外主義の差別思想と抱き合わせなのが頭が痛い。
何処かで、この反知性主義から覚醒してもらわないと。
2016年から世界は、大きく変わりそうな予感に固唾を呑む想いです。
今夜観たNHKの宮崎駿のドキュメンタリーの中で、AIで動く歪なCGの人体の動きに対して、
「どんなに優れた技術であっても、人間の尊厳を貶めるような表現に対して、それを無神経に面白がることは絶対出来ない」
と宮崎駿が怒りを露わに身障者の友人の話を交えて切り捨てていた。
それが閉塞された社会を変える革新的な動きだとしても、その根っこにある卑しい排外主義や差別思想を決して許容しては行けないのだ。
改めて宮崎駿の高潔な精神性に教えられた想いだ。
もう一点、以前からどうにも気になっていたお笑い芸人たちの呆れるような権力の幇間のような保守オヤジ発言。
特に影響力のあるダウンタウンの松本人志の情けないくらい風刺も毒もない保守オヤジ化には落胆。
その原因を以下の記事が明解に解き明かしてくれています。
なるほど。どちらに転んでも今の日本を覆う閉塞感は重症ですね。
http://news.livedoor.com/article/detail/12276321/
さて秋から、ずっと撮っている写真に、明らかに意志的な変化が現れ始めていると思っています。
午後遅い時刻の黄昏の光を待って、撮っていることです。
このオレンジかかった斜光線の魔術的な時間に魅せられています。
それは日没前後の鮮烈な赤やピンクでは、色が勝ち過ぎてダメなのです。
しばらく、この光で試行錯誤してみます。
これが私のスタイルになりそうな予感がします。
http://mariyoshihara.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html?m=1
差別を容認する人物が最高権力者に就くと、
それを既成事実として公然と行使する空気感が社会を覆ってしまう。
それはアメリカに先駆けて既成事実化した日本の現状を見れば一目瞭然だ。
その顛末は以下に。
http://news.livedoor.com/article/detail/12282492/
こういう薄気味の悪い「綺麗事をいうな」的なせせら笑いが、この国を被膜のように覆っています。
前述したお笑い芸人やホリエモンのようなIT起業家から振り撒かれる差別肯定論。