旅の終わりの風景を、なんと表現したらいいのだろうか?
あの白とびしたような色を失った風景は…
この三日ばかり中村安希の歩いたユーラシア大陸からアフリカ大陸をめぐりポルトガルのロカ岬へ至る
(沢木耕太郎の深夜特急の終着点でもあった)47カ国684日の長い旅の風景を、
息をつめて見つめ続けてきた。
それは26歳の一般的な日本女性がカラカラ、キャリーバックを引き摺って移動する旅とは極北にある。
45リットルのバックパックに三日分の着替えと寝袋にパソコンを詰め、
交通安全のお守りと果物ナイフに針金と一緒にミッキーマウスのプリントのついた覆面、
そしてジムで鍛えた両腕に4本の予防注射を打ち、体重を3キロ増やして、
大陸の砂塵の荒野を単身、自分自身で交通手段を確保しながら先へ先へと進んでゆく。
その旅の軌跡は、正直冷や冷やドキドキ驚きを越えて、この女性の真っ直ぐな視線に畏怖と感動さえ覚える。
イラク戦争以降、イスラム圏におけるバックパックの旅は、相当の危険と覚悟が予想される。
それも女性の単独行だ。
鈴木傾城氏のサイト、ダークネスにおいても世界は、暴力と略奪に溢れている。
日本人は無防備すぎるとアジアや中南米の目を背けたくなるような現実を突きつけきた。
確かに、それも世界を覆うリアルな現実の一面には違いないのだろう。
でも、それがすべてではない。
露頭に迷う旅人を無条件に受け入れる素朴な人々が、
この貧しいアジアやアフリカの大地には、数多く存在するのだ。
ちょっと思い出してほしい。
ほんの数十年前の日本でも、見知らぬ他人に救いの手を差し延べるような
無償の善意は、当たり前のように存在したのだ。
私が5歳くらいのときだったと思う。
親に叱れ、雨の日の表通りへ飛び出した。
雨に濡れながら裸足で歩く見知らぬ他人の子供を認めて、
保護し食事を与え、家まで送り届けてくれる人たちがいた。
貧しいかったけれど人と人との繋がりは、確実にあった。
今の日本では(否、先進国では)失われた風景かもしれないが。
旅の途上で、貧困とは何か?ODAの援助とは?先進国からのボランティアの実態と、
現地の風景に何度も彼女の真摯な視線を通して認識を新たにする。
助け合うということは、予算額の大きさではない。
慈悲の精神の量でもなければ、それをどれだけ大々的に宣伝するとかいうことでもない。
人はみんな、それぞれに「思いやる気持ち」を持っている。
それらは心の深いところに静かに蓄えられていて、見せびらかすものではない。
人を思いやるということは、人を助けるということは、地道で地味で目立たない。
何でもないようなことかもしれない。
数千億円の予算を使って世界を救済できなくても、
東京の満員電車の中で妊婦に席を譲れる人は、十分に深い「思いやり」を心の中に秘めている。
道に迷った旅人に道を教えた村人だって、最も適切な方法で「人を助けている」だろう。
大きな評価は得られなくても、相手の気持ちに耳を傾け、今、目の前にいる人々に、そっと手を差し出せばいい。
それを教えてくれたのは、当のアフリカ自身だった。
アフリカは私を小さな声で、小さなその手で、助けてくれた。
迷い込んだサバンナで、体力の尽きた路地裏で、意味も分からず乗り込んだバスや、
暗くなった街角で、私に多くの温かい手をアフリカはいつも差し伸べてきた。
私はいつも小さな声で、「ありがとう」と言ってきた。
そして心の底の思いを、いつかきっと、ささやかな手段で、私の大切な人たちに届ける覚悟はできている。
すぐに結果が出なくても、たとえ誰にも気づかれなくても、
それでもこの先10年か、50年か100年したのちに、草原の少女は微笑んで、
旅人にきっとささやくだろう。
「私は元気にやっています」と。
インパラの朝 ユーラシア・アフリカ大陸684日 (集英社文庫) | |
中村 安希 | |
集英社 |
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